24 花の本
噂のお茶会から、数日ほど経った午後だった。
リンドグレイ伯爵家の庭には、やわらかな日差しが落ちている。
ラウラはいつものように花壇の前にしゃがみこみ、小さな芽の様子を見ていた。
春の終わりへ向かう庭は、少しずつ景色を変えていく。
咲き終わる花もあれば、これから開く蕾もある。
ラウラはその一つひとつを見ているのが好きだった。
「これ、もう少しかな……」
小さく呟いて葉に触れようとしたところで、後ろから足音がした。
振り向くと、使用人が一人、こちらへやってくる。
「お嬢様」
「はい?」
「ハーヴェル公爵家から、お届け物がございます」
ラウラは目をぱちぱちさせた。
「……お届け物?」
手紙ではなく、箱だった。
両手で抱えるほどの、横長の包み。
飾り気はあまりないが、きちんとした布で包まれている。
ラウラは立ち上がり、首をかしげた。
「誰からですか?」
使用人は少しだけ口元をゆるめた。
「セドリック様より」
「……は?」
思わず変な声が出た。
セドリックから。
わざわざ。
届け物。
ラウラは嫌な予感と、少しの好奇心を抱えたまま包みを受け取った。
思ったより重い。
「なにこれ……」
「お部屋へお持ちしましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
言いながらも、やはり気になる。
ラウラはそのまま庭の東屋へ向かい、包みを膝の上に置いた。
布をほどく。
中から出てきたのは、一冊の本だった。
厚みのある、上質な装丁。
表紙には金の箔で、植物の模様が押されている。
ラウラはそっと題を読む。
「……王都花木誌」
目を瞬いた。
花の本だった。
ページをめくる。
季節ごとの花、庭木、珍しい品種、咲く時期や育て方まで載っている。
挿絵も美しく、かなり上等な本だとすぐにわかった。
「すごい……」
思わず本気の声が漏れる。
こんな本、そう簡単に手に入るものではない。
ラウラはさらにページをめくって――ふと手を止めた。
一枚の栞が挟まっている。
そのページには、白い花弁に淡い桃色が差した花の絵。
ヴィルネアだった。
ラウラはじっとそのページを見つめた。
この前の花。
二人で見た花。
咲いたら知らせると約束した花。
そこに、ちゃんと栞が挟まっている。
「……なにこれ」
胸の奥が、少しだけざわついた。
どうしてここだけ。
偶然ではないはずだ。
ラウラは栞を指でなぞる。
丁寧に切りそろえられた細い革紐で、既製品ではなく手元にあったものを挟んだようにも見えた。
そのとき、東屋の外からまた声がした。
「気に入った?」
ラウラはびくっとして顔を上げる。
そこに立っていたのは、エリオットだった。
「エリオット様?」
「ちょうど父上の用事で近くまで来たんだ」
エリオットはそう言って、東屋の柱にもたれた。
肩の上にはアルトもいる。
ラウラは慌てて本を閉じる。
「これ……」
「セドリックからだって?」
エリオットはにこにこと笑っている。
なんだか少し怪しい。
ラウラは眉をひそめた。
「知ってたんですか?」
「うん、まあ」
「……まさか、エリオット様が選んだんじゃないですよね」
「違う違う」
エリオットはすぐに手を振った。
「選んだのはセドリックだよ」
ラウラは黙る。
本を持つ手に、少し力が入った。
選んだ。
あのセドリックが。
信じがたいけれど、ヴィルネアのページに栞がある以上、偶然ではなかった。
エリオットは面白そうに、ラウラの手元を見た。
「ちゃんとそこに挟んでたんだ」
「……やっぱり知ってたんじゃないですか」
「挟んでるところを見ただけだよ」
エリオットは肩をすくめる。
「“前にこいつがうるさく言ってた花が載ってる本はないか”って、すごく感じ悪く探してた」
ラウラは思わず口を開きかけて、閉じた。
なんだその言い方は。
想像できすぎて困る。
「感じ悪いですね……」
「うん、すごく」
即答だった。
ラウラはまた本を見下ろした。
きれいな装丁。
丁寧な挿絵。
そして、ヴィルネアのページの栞。
胸の奥が妙に落ち着かない。
うれしいのか、呆れているのか、自分でもよくわからない。
エリオットがそっと言った。
「本当は、もっと別の渡し方もあったと思うけどね」
「でも、あれがセドリックだから」
ラウラは小さく息をつく。
「……そうですね」
たぶん、本人が来ていたらもっと最悪だった気がする。
きっと、
「前にお前がうるさく言ってた花、載ってる」
とか、
「いらないなら返せ」
とか、
そういう可愛くない言い方をしただろう。
それを想像したら、少しだけ可笑しくなった。
ラウラは思わず、ふっと笑う。
エリオットが目を細めた。
「やっぱり気に入ったんだ」
「本は気に入りました」
ラウラはすぐに言い直す。
「でも、あの人のことを褒めてるわけじゃないです」
「へえ」
「だって、渡し方が感じ悪いですし」
「まだ会ってもいないのに?」
「会わなくてもわかります」
真顔で言うと、エリオットが吹き出した。
「それはひどいな」
「事実です」
そのときだった。
庭の向こうから、低い声が飛んできた。
「何が事実だ」
ラウラはぴたりと動きを止める。
聞き覚えのある声だった。
東屋の外へ視線を向ける。
そこには、セドリックが立っていた。
黒い髪。
青い瞳。
相変わらずの、少し不機嫌そうな顔。
ラウラは思わず眉を上げる。
「いたんですか」
「いた」
「気配がないんですけど」
「お前が気づいてないだけだ」
感じ悪い。
ラウラは本を抱えたまま、じとっとセドリックを見る。
「これ」
「あなたからですよね」
セドリックは少しだけ視線を逸らした。
「……そうだ」
「なんでですか」
「別に」
「またそれですか」
「前に、花の名前がどうとか言ってただろ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
でも、言っていることはつまり、
覚えていた、ということだ。
ラウラは少し黙る。
セドリックは居心地が悪そうに眉を寄せた。
「役に立つかと思っただけだ」
「いらないなら捨てろ」
エリオットが横で、あからさまに呆れた顔をした。
「そういう言い方するからだよ」
「うるさい」
ラウラは本を抱え直した。
そして、少しだけ逡巡してから言う。
「……捨てません」
セドリックがちらりとこちらを見る。
ラウラは視線を合わせないまま、続けた。
「本は、すごくいいです」
「でも、言い方は感じ悪いです」
「褒めてるのか貶してるのかわからないな」
エリオットが笑う。
セドリックは小さく息をついた。
「お前がそういう言い方しかしないからだろ」
「そっちが先です」
「知らない」
「感じ悪い」
「そればっかりだな」
いつものやりとりだった。
でもラウラは、本を抱えたまま、少しだけ胸の奥があたたかいのを感じていた。
認めるのは悔しい。
でも、この本はうれしい。
ヴィルネアのページに栞が挟まっていたことが、なおさら。
そのとき、アルトがエリオットの肩から飛び立ち、ふわりと東屋の屋根へ移った。
ほぼ同時に、どこからかシーフも現れて、当然のようにラウラの足元へ座る。
ラウラは目を丸くする。
「また来たの?」
シーフは満足そうに尻尾を振った。
セドリックがそれを見て眉をひそめる。
「……なんでいるんだ」
「こっちの台詞です」
ラウラがすぐに返すと、セドリックは少しだけ口元を歪めた。
笑ったのかと思ったが、次の瞬間にはいつもの顔に戻っている。
ラウラは思わず言った。
「今、笑いました?」
「笑ってない」
「笑いましたよね」
「気のせいだ」
「感じ悪い」
「しつこい」
やっぱり同じだ。
でも、少しだけ違う気もした。
昔より背が伸びて、声も低くなった。
前よりもっと不機嫌そうに見えることもある。
それなのに、花の本を選んで、ヴィルネアのページに栞を挟むのだ。
本当に、この人はわからない。
ラウラが本を見つめていると、セドリックがぼそりと言った。
「……その花」
「え?」
「次に咲いたら、そこに書き込めばいい」
ラウラは目を瞬いた。
本のことだ。
育て方や咲いた時期を、自分で書き足せということらしい。
そんな使い方まで考えていたのだろうか。
ラウラは本を開き、ヴィルネアのページをもう一度見た。
白い花。
淡い桃色。
挟まれた栞。
胸の奥がまた、少しだけくすぐったくなる。
「……そうします」
小さく答えると、セドリックは短く「ああ」とだけ返した。
エリオットはそんな二人を見て、何も言わずに笑っている。
たぶん、何かを面白がっている。
でも今は、それを問い詰める気になれなかった。
ラウラは本をそっと閉じて、抱きしめるように持った。
やっぱりセドリックは感じが悪い。
言葉も足りないし、可愛くない。
でも。
本の重みは、不思議なくらいあたたかかった。
春の風が東屋を抜け、ページの端をそっと揺らす。
足元ではシーフが機嫌よく伏せ、屋根の上ではアルトが静かに羽を休めていた。
まるで、最初からこうなると知っていたように。




