23 噂
それからしばらくして。
リンドグレイ伯爵家の屋敷の中では、妙な空気がすっかり定着していた。
ラウラが廊下を歩けば、使用人たちが少しだけ楽しそうな顔をする。
庭へ出れば、
「今日はハーヴェル公爵家からお手紙は来ておりませんでした」
などと、頼んでもいない報告までされる。
ラウラは朝から、むっとしていた。
「……なんなんでしょう」
小さく呟きながら、窓辺に置かれた花瓶の花を見直す。
すると、そばにいた侍女がにこりと笑った。
「皆、うれしいのですよ」
「何がですか?」
「お嬢様に、良いご縁ができたことが」
その言い方に、ラウラはぴくりと眉を寄せた。
「良いご縁って……」
侍女は続ける。
「神獣たちにも認められた婚約ですもの。きっと素敵なご夫婦になられますわ」
ラウラは固まった。
「なりません」
即答だった。
侍女はくすくす笑う。
「まあ」
「ならないです」
「まだ十歳ですし」
「それに、あの人感じ悪いし」
言えば言うほど、侍女は楽しそうになる。
ラウラはますます不満になって、ぷいと顔を背けた。
どうして皆、そんなに勝手なのだろう。
婚約したのは事実だ。
でも、だからといって、もう何もかも決まったみたいに言われるのは違う。
(そもそも、本人たちがいちばん嫌がってるのに)
そう思っていると、遠くから足音が聞こえた。
廊下の向こうから伯爵が歩いてくる。
「ラウラ」
「はい」
「今日は客人がいらっしゃる。きちんとしていなさい」
「客人?」
伯爵は頷いた。
「ハーヴェル公爵家だ」
ラウラは思わず目をぱちぱちさせた。
「……またですか」
「またとはなんだ」
伯爵は苦笑したが、ラウラは素直に頷けない。
胸の奥が、少しだけ落ち着かなくなる。
来ると聞くと、妙に気になる。
来なくても別にいいはずなのに。
そのあと、応接室にはハーヴェル公爵とセドリック、そしてエリオットの姿があった。
ハーヴェル公爵は相変わらず楽しそうで、伯爵と穏やかに言葉を交わしている。
エリオットはやわらかく微笑んでいた。
そしてセドリックは――
「相変わらず、感じ悪そうな顔ですね」
ラウラが顔を合わせるなりそう言うと、セドリックは即座に眉を寄せた。
「会ってすぐそれか」
「だって本当ですし」
「お前も変わってないな」
ぶっきらぼうな返しに、ラウラはむっとする。
その横で、エリオットが楽しそうに笑った。
「二人とも、挨拶みたいになってるね」
「なってません」
「違う」
ぴたりと重なった声に、ハーヴェル公爵が満足そうに目を細める。
「やはり面白いな」
面白がられる筋合いはない。
ラウラはそう思ったが、口に出す前に、別の客人がやってきた。
今日は近しい貴族たちも招かれて、小さなお茶会になるらしい。
応接室から庭へ場所が移され、ラウラたちは春の花が咲く庭園の一角へ出た。
白いテーブルクロス。
銀のティーセット。
小さな焼き菓子。
穏やかな午後のはずなのに、ラウラはあまり穏やかではない。
なぜなら、席に着くなり、年上の伯爵夫人がにこにこと言ったからだ。
「まあ、お二人並ぶと本当に可愛らしいこと」
ラウラの動きが止まる。
隣ではセドリックも露骨に嫌そうな顔になった。
「お二人って……」
ラウラが小さく呟くと、夫人は笑顔のまま続ける。
「婚約者同士でしょう?」
「神獣たちまで寄り添っていて、まるで絵物語のようですわ」
見れば、シーフはラウラの足元に当然のように伏せている。
アルトは近くの枝に止まっていた。
しかも今日は、庭の別の場所で遊ばせていたはずなのに、いつの間にか揃っている。
ラウラは思わず言った。
「違います」
「違わないだろ」
隣からセドリックが低く返す。
ラウラはすぐにそちらを見た。
「どっちなんですか」
「婚約者なのは事実だ」
「言い方が嫌です」
「知らない」
夫人たちは、そんな二人を見てますます楽しそうになった。
「まあまあ、もう息ぴったりですこと」
「将来が楽しみですわね」
ラウラは紅茶を飲む前から疲れてきた。
隣のセドリックも似たようなものらしく、明らかに機嫌が悪い。
そのときだった。
少し年上の若い子息が、笑いながらラウラに話しかけてきた。
「神獣に好かれるなんてすごいですね、ラウラ様」
「一度、近くで見せていただいても?」
ラウラは少し戸惑った。
悪い意味ではないのだろうが、その視線が神獣だけでなく、自分にも向けられているのがわかったからだ。
返事に迷っていると、隣から低い声が落ちた。
「やめておけ」
一瞬、空気が止まる。
セドリックだった。
青い瞳が、まっすぐ相手を見ている。
「シーフもアルトも気まぐれだ」
「勝手に近づくと面倒なことになる」
言い方はやはり可愛くない。
だが、子息は一瞬たじろいで、それ以上は言わなかった。
「そ、そうか」
「失礼しました」
そう言って下がっていく。
ラウラは少しだけ目を瞬いた。
たぶん、助けられたのだ。
けれど、言い方がやっぱり感じ悪い。
ラウラは小声で言った。
「……もっと言い方あるでしょう」
セドリックはそっぽを向く。
「面倒だっただけだ」
「感じ悪いです」
「お前もな」
その返しに、ラウラはむっとした。
でも、さっきの年上の子息はもうこちらを見ていない。
そのことに、ほんの少しだけ胸がざわつく。
エリオットはそんな二人を見て、やっぱり面白そうだった。
「セドリック、ちゃんと婚約者みたいだったよ」
セドリックは即座に返す。
「違う」
「違わないだろう」
ハーヴェル公爵が愉快そうに口を挟む。
「人前では、少しくらいそれらしくしておけ」
セドリックは露骨に嫌そうな顔になった。
ラウラも同じ気持ちだった。
「私まで巻き込まないでください」
「巻き込まれてるのはこっちだ」
「なんですって」
「事実だろ」
夫人たちがまた笑う。
「ほんとうに、仲がよろしいのねえ」
「よくありません!」
「違う!」
また声が重なる。
その瞬間、足元のシーフが機嫌よく尻尾を振り、枝の上のアルトも羽を揺らした。
まるで、それで正しいと言わんばかりに。
ラウラは思わず空を仰いだ。
(なんで皆、そうなるの……)
お茶会のあいだじゅう、周囲はことあるごとに二人をひとまとめに扱った。
「お二人で」
「将来は」
「仲良く」
そのたびにラウラはむっとし、セドリックは不機嫌になった。
けれど気づけば、何か言われるたびに、セドリックは半歩だけラウラの前に出ていた。
目立つほどではない。
本人も無意識なのかもしれない。
ただ、質問がラウラに集中しそうになると、先に短く答えてしまう。
笑いものになりそうな流れになると、低い声で切る。
どれも言い方は感じが悪い。
でも、妙に庇われているようにも見えた。
ラウラはそれに気づきそうになって、やめた。
(いや、ないない)
たぶんただ機嫌が悪いだけだ。
面倒だから黙らせているだけに決まっている。
その方が、ずっとセドリックらしい。
お茶会が終わりに近づき、客人たちが少しずつ席を立ち始めるころ。
ラウラはようやく、ほっと息をついた。
すると、すぐ隣から低い声がした。
「疲れた顔してるな」
ラウラは振り向く。
「誰のせいだと思ってるんですか」
「俺じゃない」
「あなたも十分原因です」
「お前もだろ」
言い返しながらも、セドリックの顔は少しだけいつもよりやわらかかった。
いや、やわらかいというより――
さっきまでみたいに、むやみに人を寄せつけない顔ではない。
ラウラは少しだけ首をかしげた。
「……なに」
「別に」
「またそれですか」
「本当に別にだ」
やっぱり感じが悪い。
でも、その返しにどこか見慣れた安心感が混ざっているのを、ラウラは認めたくなかった。
そのとき、エリオットが帰り支度をしながら、ふっと笑った。
「噂って、広がるの早いね」
ラウラはむっとする。
「広がらなくていいです」
「そう?」
エリオットはわざとらしく首をかしげた。
「でも、今日見てた人たちは、ますます信じたと思うよ」
「何をですか」
「二人がちゃんと婚約者らしいってこと」
ラウラは眉を寄せた。
「どこがですか」
エリオットはにこっと笑う。
「本人たちだけが気づいてないところかな」
意味がわからない。
ラウラが不満そうにしていると、セドリックが小さく舌打ちした。
「余計なことを言うな」
「だって本当だろ」
「違う」
即答だった。
でも、その声はほんの少しだけ遅れた。
ラウラはそのわずかな間に気づかなかった。
気づいたのは、たぶんエリオットだけだ。
やがてハーヴェル公爵家の馬車が用意され、帰る時間になる。
シーフはすでにセドリックのそばへ戻っていた。
アルトもふわりとエリオットの肩へ降りる。
ラウラは玄関先まで見送りに出た。
夕暮れが近づいて、空が少しだけやわらかな色になっている。
セドリックは馬車に乗る前、ちらりとラウラを見た。
「……変な顔するな」
ラウラは目を瞬く。
「してません」
「してる」
「どんな顔ですか」
セドリックは少しだけ間を置いた。
それから、ぶっきらぼうに言う。
「疲れてる顔だ」
ラウラはきょとんとする。
そんなことを言うとは思わなかった。
けれど次の瞬間には、またいつもの顔に戻る。
「早く寝ろ」
「……それ、心配してるんですか?」
「してない」
「感じ悪い」
「うるさい」
いつものやりとりだった。
でも、ラウラは少しだけ目を丸くしたまま、セドリックを見る。
今日の彼はずっと感じが悪かった。
でも、ずっと少しだけ、自分の前に立っていた気もする。
それを認めるのは、なんだか悔しい。
だからラウラは小さく言った。
「おやすみなさい」
するとセドリックは一瞬だけ黙って、
「……ああ」
とだけ返した。
短い返事。
やっぱり可愛くない。
それでもラウラは、馬車が見えなくなるまでその場に立っていた。
屋敷へ戻る途中、侍女がそっと笑う。
「今日はますます噂になりますね」
ラウラはすぐに言い返した。
「なりません」
「なりますわ」
「ならないです」
そう否定しながらも、胸の奥に残っている小さなざわめきまでは消せなかった。
春の夕暮れの風が、庭の花々をやさしく揺らしていく。
噂なんて、広がらなくていい。
そう思うのに。
セドリックが最後に言った
「早く寝ろ」
が、なぜだか妙に耳に残っていた。




