21 咲いた花
それから、三日後の朝だった。
リンドグレイ伯爵家の庭には、やわらかな春の光が満ちていた。
ラウラはいつものように花壇を見に来て、ふと足を止める。
「……あ」
小さく声が漏れた。
あのとき蕾だった花が、ひとつだけ咲いていたのだ。
白い花弁の先に、ほんのりと淡い桃色が差している。
朝露をまとって、やさしく光っていた。
ラウラは思わずしゃがみこむ。
「咲いた……」
うれしくて、何度も見てしまう。
まだ咲いたばかりの、やわらかな花。
毎年見ているはずなのに、今年は少しだけ特別に見えた。
その理由を考えて、ラウラははっとする。
(……教えるって言ったんだっけ)
思い出したのは、庭で交わしたあのやりとりだ。
『……その花、咲いたら見に来る』
『……咲いたら、教えてあげてもいいです』
ラウラは花を見つめたまま、少しだけ眉を寄せた。
(ほんとに言うの?)
相手はあのセドリックだ。
感じが悪くて、ぶっきらぼうで、言い方も優しくない。
なのに。
約束したのだから知らせないのも違う気がして、ラウラは小さく息をついた。
「……仕方ない」
そう呟いて立ち上がる。
けれど実際に伝えるとなると、なんだか妙に落ち着かなかった。
部屋へ戻ってからも、ラウラは机の前でしばらく便箋を見つめていた。
何を書けばいいのかわからない。
長く書くのも変だし、短すぎるのも変だ。
悩んだ末に、結局書けたのはほんの数行だけだった。
約束の花が咲きました。
見に来るなら、今日の午後がいちばんきれいだと思います。
書いてから、ラウラは自分で少し顔をしかめる。
(なんか変……)
けれど、これ以上どう書けばいいのかわからない。
結局そのまま封をして、使用人に託した。
「ハーヴェル公爵家へお願いします」
使用人は丁寧に一礼する。
「かしこまりました」
手紙が運ばれていくのを見送りながら、ラウラは妙にそわそわした気持ちになった。
来るかどうかもわからないのに、落ち着かない。
来なくても別にいい。
いいはずなのに。
その日の午後。
ラウラはまた庭に出ていた。
花は朝よりも少しだけ開いていて、陽を浴びてさらにきれいに見える。
シーフはいない。
アルトもいない。
今日はひとりだった。
風に揺れる花を見ながら、ラウラはそっと息をつく。
(来ないのかな)
そう思ったときだった。
屋敷の門のほうから、馬の足音が聞こえてきた。
ラウラは振り向く。
しばらくして、使用人が庭へ急ぎ足でやってくる。
「お嬢様」
「ハーヴェル公爵家のセドリック様がお見えです」
ラウラはぱちりと目を瞬いた。
「……ほんとに来たんだ」
その言葉が聞こえたわけでもないだろうに、次の瞬間、小道の向こうから低い声が返ってきた。
「呼んだのはそっちだろ」
ラウラが顔を上げる。
そこにはセドリックが立っていた。
黒い髪。
青い瞳。
相変わらず、少し不機嫌そうな顔。
けれどちゃんと来たのだ。
ラウラは立ち上がる。
「早かったですね」
セドリックはそっけなく言う。
「たまたまだ」
「公爵家って、たまたまでこんなに早く来られるんですか?」
「うるさい」
相変わらず感じが悪い。
ラウラは少しだけ唇を尖らせた。
「やっぱり感じ悪い」
「お前は会ってすぐそれだな」
「だって感じ悪いので」
そんなふうに言い返しながらも、ラウラの胸の奥は少しだけくすぐったかった。
ちゃんと約束を覚えていて、ちゃんと来たのだ。
セドリックはラウラの前まで来ると、視線を花壇へ向けた。
「……どれだ」
ラウラは、咲いた花を指さす。
「これです」
二人で並んで花壇を見る。
白い花弁に、淡い桃色。
風が吹くたび、やさしく揺れた。
セドリックはしばらく黙って見ていた。
ラウラはその横顔をちらりと見る。
ちゃんと見ている。
思っていたよりずっと真面目に。
それが少しだけ意外で、ラウラは小さく笑った。
「どうですか」
セドリックはすぐには答えなかった。
しばらくしてから、ぽつりと言う。
「……確かに」
「きれいだな」
その一言に、ラウラは思わず目を丸くした。
素直な言葉だったからだ。
今日のセドリックは、なんだか少しだけ変だ。
いや、変というより——
不機嫌そうなのはいつも通りなのに、言葉の棘が少しだけ少ない。
ラウラは花を見たまま言う。
「でしょう?」
少し誇らしい気持ちになる。
「毎年咲くんですけど、咲き始めがいちばんきれいなんです」
「ふうん」
「興味なさそう」
「ある」
意外な返事に、ラウラはまたそちらを見た。
セドリックは眉を寄せる。
「お前がうるさく言うから、見てるだけだ」
「感じ悪い」
「事実だろ」
やっぱり少し経つとこうなる。
ラウラはむっとする。
けれど、そのやりとりすら妙にいつも通りで、少しだけ安心してしまう自分がいた。
そのときだった。
花壇の向こうの茂みから、銀色の影が飛び出してきた。
「きゃっ」
ラウラが小さく声を上げる。
次の瞬間には、シーフが嬉しそうにラウラの足元へ飛びついていた。
「シーフ!」
いつの間に来たのか、銀狼は機嫌よく尾を振っている。
セドリックが眉をひそめた。
「……お前、またか」
その上、ほどなくして空から白い影が舞い降りる。
アルトだ。
白鷹はひらりと旋回し、今度は迷いなくラウラの肩へ止まった。
ラウラは思わず笑ってしまう。
「二人とも、どこから来たの?」
シーフは足元。
アルトは肩の上。
またしても、神獣に囲まれている。
セドリックはその様子を見て、深くため息をついた。
「やっぱりこうなるのか」
ラウラはくすっと笑う。
「もう慣れたんじゃないですか?」
「慣れたくない」
「感じ悪い」
「何でもそれで済ますな」
そう言いながらも、セドリックの声には前ほどの刺々しさがなかった。
ラウラはふと気づく。
今日、エリオットはいない。
公爵もいない。
使用人たちも、少し離れたところに控えているだけだ。
庭にいるのは、ほとんど自分とセドリックだけ。
それに気づいた瞬間、なんだか急に落ち着かなくなった。
ラウラはごまかすように、もう一度花を見る。
「ちゃんと覚えてたんですね」
「何が」
「約束」
セドリックは一瞬だけ黙る。
それからそっぽを向くようにして言った。
「……忘れるなって言っただろ」
ぶっきらぼうな言い方。
でも、それはつまり。
覚えていたということだ。
ラウラは胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じて、慌てて打ち消した。
こんなの、たまたまだ。
婚約したから来ただけ。
別に特別な意味なんてない。
そう思うのに、口元が少しだけゆるみそうになる。
ラウラはそれを隠すように言った。
「ちゃんと来るなんて思いませんでした」
セドリックが睨む。
「呼んでおいてそれか」
「だって感じ悪いから」
「お前な……」
呆れたように息をつく。
でも、その顔は少しだけ困ったようにも見えた。
ラウラは一瞬だけ目を瞬いた。
ああ、この人。
やっぱり、時々わからない。
感じは悪い。
でもそれだけでもない気がする。
そのとき、シーフがラウラの手に鼻先を押しつけた。
アルトも肩の上で羽を揺らす。
ラウラは笑う。
「ちょっと待って。今、花見てるから」
その笑顔を見て、セドリックはまた一瞬だけ言葉を失った。
春の陽射しの下で笑うその顔が、ひどく目に焼きつく。
花のせいなのか。
風のせいなのか。
それとも別の理由なのか。
自分でもわからないまま、胸の奥が妙に騒いだ。
ラウラはそんなことに気づかず、咲いた花を見つめている。
「来てよかったでしょう?」
楽しそうな声だった。
セドリックはほんの少しだけ目を細める。
「……まあな」
短い答え。
それだけなのに、ラウラはなぜか少しうれしくなった。
春の庭には、やわらかな風が吹いていた。
咲いた花。
寄り添う神獣たち。
そして、まだぎこちない二人。
けれど、あの日交わした小さな約束は、ちゃんとここに咲いていた。




