20 初めての約束
庭のお茶会が終わるころには、春の陽射しは少しずつ傾き始めていた。
ティーカップは下げられ、焼き菓子の皿も空になりつつある。
花壇の向こうから吹いてくる風はやわらかいのに、ラウラの胸の奥はまだ少しだけ落ち着かなかった。
婚約。
婚約者。
その言葉が、まだ耳に残っている。
ラウラはそっと紅茶の最後の一口を飲み込んで、小さく息をついた。
その様子を見ていた伯爵が、穏やかな声で口を開く。
「今日はこのあたりにしよう」
ハーヴェル公爵も頷いた。
「そうだな」
そして、当然のように続ける。
「次は日を改めて、こちらから招こう」
ラウラの動きが止まった。
「……次?」
嫌な予感しかしない。
公爵は楽しそうに笑った。
「婚約した以上、顔を合わせる機会は必要だろう」
伯爵もやんわりと頷く。
「急に親しくなれとは言わん。ただ、少しずつ慣れていけばいい」
ラウラは眉を寄せた。
「慣れる前提なんですね……」
その隣で、セドリックも露骨に嫌そうな顔をしていた。
「面倒だ」
「同感です」
思わずラウラが返すと、セドリックがちらりとこちらを見る。
一瞬だけ目が合って、すぐに逸れた。
エリオットがくすくす笑った。
「やっぱり、そういうところは合うんだよね」
「合ってません」
「違う」
またぴたりと重なる。
ハーヴェル公爵はますます面白そうだった。
「では一週間後あたりでどうだ」
話が勝手に進んでいく。
ラウラは止めたかったが、父と公爵がすでに日取りの話を始めてしまっていて、口を挟める空気ではなかった。
気づけば、次の訪問は半ば決まりかけていた。
(ほんとに決めるんだ……)
ラウラはなんとも言えない気持ちで花壇のほうへ目をやる。
その視線の先に、小さな蕾があった。
まだ固く閉じているけれど、淡い色がのぞいている。
ラウラは思わずぽつりと呟いた。
「……あ」
その声に、エリオットが気づく。
「どうしたの?」
ラウラは花壇の端を指さした。
「あれ、たぶんもうすぐ咲くんです」
皆の視線がそちらへ向く。
小さな蕾だった。
ラウラは少しだけ表情をやわらげる。
「毎年、春の終わりごろに咲く花で……咲くとすごくきれいなんです」
エリオットが興味深そうに身を乗り出す。
「へえ。どんな花?」
「白くて、少しだけ薄い桃色が入るんです」
ラウラは蕾を見つめたまま言う。
「まだ咲いてないけど、咲いたらすぐわかります」
その声は、さっきまで婚約の話にむくれていたときより、ずっとやわらかかった。
セドリックは黙ってその横顔を見ていた。
花の話をしているときのラウラは、少しだけ雰囲気が違う。
気づけば、また見ていた。
そのことに自分で気づいて、わずかに眉を寄せる。
(……なんで見てるんだ)
そのとき、ラウラがふいに振り向いた。
視線がぶつかる。
ラウラはほんの少し首をかしげた。
「なに」
「別に」
いつもの返事だった。
ラウラはむっとする。
「またそれですか」
「本当に別にだ」
「感じ悪い」
「お前、それ便利に使ってるだろ」
そう言ったあと、セドリックは花壇へ目を向けた。
そして、ぶっきらぼうに言う。
「……その花」
ラウラは目をぱちぱちさせる。
「え?」
「咲いたら、見に来る」
一瞬、風が止まったような気がした。
ラウラは呆気にとられてセドリックを見る。
今、何を言ったのか、すぐには頭に入ってこなかった。
セドリックも、言ってから少しだけ顔をしかめる。
言葉を足すように、そっけなく続けた。
「どうせまた来ることになってるんだろ」
「だったら、そのときでいい」
ぶっきらぼうで、まるで大したことではないみたいな言い方だった。
けれどラウラは、なぜかすぐに言い返せなかった。
エリオットがふっと笑う。
「へえ」
とても楽しそうな声だった。
ラウラはようやく我に返る。
「……別に、見に来なくてもいいですけど」
思わずそう返すと、セドリックはすぐに眉をひそめた。
「じゃあ行かない」
「そこは拗ねるところですか?」
「拗ねてない」
「感じ悪い」
「お前な」
いつものやりとりなのに、どこか少しだけ違った。
ラウラは花壇の蕾を見る。
それから、もう一度だけセドリックを見る。
感じが悪い。
ぶっきらぼうだし、相変わらず言い方も変だ。
でも——
さっきの言葉は、少しだけうれしかった。
その気持ちを認めるのは、なんだか悔しい。
だからラウラは、できるだけ素っ気ない顔で言った。
「……咲いたら、教えてあげてもいいです」
セドリックが目を向ける。
「上からだな」
「そっちが先です」
「頼んでない」
「じゃあ、いいです」
「いや」
珍しく、返事が少し早かった。
セドリックは一瞬だけ言葉に詰まり、それからぶっきらぼうに言い直す。
「……教えろ」
ラウラは思わず目を丸くする。
その横で、エリオットがとうとう笑いをこらえきれなくなった。
「それ、お願いの態度じゃないよ」
セドリックが睨む。
「うるさい」
ラウラはくすっと笑いそうになって、慌てて口元を引き締めた。
けれど、少しだけ遅かったらしい。
セドリックがその表情を見て、一瞬だけ黙る。
ラウラは咳払いして誤魔化した。
「……じゃあ、咲いたら言います」
「気が向いたら」
「向け」
「感じ悪いです」
「お互い様だろ」
ぽん、とそんなやりとりが交わされる。
それだけで、ふしぎと約束になった気がした。
はっきりと指切りをしたわけでも、きちんと取り決めたわけでもない。
けれど確かに、次に会う理由がひとつできた。
そのことに気づいて、ラウラはほんの少しだけ落ち着かなくなる。
婚約なんて納得していない。
相手は相変わらず感じが悪い。
なのに、次を思う気持ちが、少しだけ生まれてしまった。
シーフがラウラの足元で機嫌よく尻尾を振る。
アルトもまた、枝の上で静かに羽を揺らしていた。
まるで、その約束を聞いていたみたいに。
やがて、帰りの時間が近づき、ハーヴェル公爵家の面々は立ち上がった。
エリオットがにこやかに頭を下げる。
「今日はありがとう。次も楽しみにしてるよ」
「エリオット様は楽しみそうですね……」
「うん、すごく」
即答だった。
その隣で、セドリックは相変わらず不機嫌そうな顔をしている。
けれど馬車へ向かう前、ふと足を止めた。
振り向かずに、低く言う。
「忘れるなよ」
ラウラは一瞬きょとんとして、それからすぐにわかった。
花のことだ。
「……忘れません」
答えると、セドリックはそれ以上何も言わず、そのまま歩き出した。
感じが悪い。
最後までちゃんと感じが悪い。
でも、ラウラはその背中を見送りながら、なぜか少しだけ口元をゆるめてしまう。
春の庭に残された蕾は、まだ閉じたままだった。
けれどその小さな約束は、確かにそこに咲き始めていた。




