3.5章第9話 酔って話した話
その日の夜。
いつもの酒場で、コーイチは少しだけ飲みすぎていた。
正確に言えば、普段より杯の減りが早かった。
ミアが気づいたときには、すでに頬がわずかに赤い。
「……あれ? コーイチ、酔ってる?」
「え……そう、ですか」
自覚がないらしい。
声の調子が、ほんの少しだけ緩んでいる。
ミアは、その変化に内心驚いていた。
コーイチは、いつも落ち着いていて、自分のことをほとんど話さない。
酒で崩れるタイプだとは、思っていなかった。
「今日は、飲むね」
「……たまには」
そう言って、また杯を傾ける。
沈黙が続いたあと、コーイチがぽつりと口を開いた。
「日本にいた頃……」
ミアは、ぴくりと反応した。
“いた頃”という言い方自体が、珍しい。
「学生だったんです」
「え?」
ミアは思わず声を上げた。
「学生!? って、勉強する人でしょ?」
「はい」
「……弟子入してたの?」
「いえ、大学です」
「だいがく?」
聞き慣れない言葉に、ミアは首を傾げる。
「専門の勉強をする場所です。四年……人によっては、もっと」
ミアは、目を見開いた。
「……学者じゃん」
「いや、そこまでは」
「いやいや、だって」
ミアは指を折る。
「読み書きできて」
「計算できて」
「変なこといっぱい知ってて」
「魔法の仕組みを、変な方向から考えて」
最後は少し笑った。
「学者でしょ、それ」
コーイチは、照れたように視線を逸らす。
「……ただの理系です」
「りけい?」
「理屈で考える人、です」
「それが学者でしょ」
即答だった。
ミアは、ようやく腑に落ちたという顔をした。
「道理でさ」
「何でも知ってると思った」
しばらく、酒場の音だけが流れる。
コーイチは、少し間を置いて続けた。
「……でも、日本では、別に特別じゃないです」
「嘘」
「本当です」
「だって、大学出たんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、いい仕事もあったんでしょ」
ミアは、ここで一番聞きたかったことを口にした。
「すごい金持ちの出なのに」
一瞬、コーイチの動きが止まる。
「……金持ち、というほどでは」
「いや、絶対そう」
ミアは断言する。
「字が書けて、勉強できて、危険なことしなくても生きていける人でしょ」
コーイチは、杯を見つめたまま、小さく笑った。
「たしかに……危険なことをする必要は、なかったですね」
「じゃあ、なんで」
ミアは、真っ直ぐに見た。
「なんで、冒険者してるの?」
問いは、軽い。
だが、核心だった。
コーイチは、少し考える。
酔いが、言葉の壁を低くしていた。
「……自分が、何者かわからなくなったから、です」
「何者?」
「役割、というか……」
言葉を探しながら、続ける。
「勉強して」
「働いて」
「期待されて」
「それが、当たり前で」
ミアは、黙って聞いていた。
「でも、ある日、全部なくなって」
「ここに来て」
コーイチは、ミアを見た。
「冒険者って、変ですよね」
「え?」
「できることをやって」
「できないことは、できないって言って」
「危なかったら、逃げて」
少し笑う。
「すごく、正直な仕事だ」
ミアは、ふっと息を吐いた。
「……そうかもね」
「だから、ここにいます」
それ以上は、言わなかった。
ミアは、胸の奥が、少し温かくなるのを感じた。
この人は、話さない。
でも、話すときは、ちゃんと自分の言葉で話す。
杯を置いて、ミアは言った。
「ね」
「はい」
「酔ってる?」
「……たぶん」
「いいよ」
ミアは笑った。
「そのほうが、しゃべるから」
コーイチは、苦笑した。
酒場の灯りが、二人の影をゆっくり揺らしていた。




