第3章 第20話 近さ
第3章 第20話 近さ
夜は、思ったより静かだった。
焚き火の火が小さく揺れている。
赤くなった薪がときどき音を立ててはぜ、そのたびに火の粉がひとつ、ふたつと浮かんでは消えた。
周囲にはまだ人の気配がある。
見張りの交代を相談する声。革袋を置く音。遠くで誰かが咳をした。
けれど、昼の戦いのあとのざわつきは、もう落ち着いていた。
コーイチは火のそばに座り、膝の上で手を組んでいた。
震えはさっきより収まっていたが、完全には消えていない。指先の奥に、まだ細い揺れが残っている。
その隣に、ミアが座っていた。
向かいの席ではない。
同じ焚き火を囲む、すぐ横だ。
ミアはしばらく何も言わなかった。
焚き火を見ているのか、火の向こうの闇を見ているのか、分からない横顔だった。
やがて、ぽつりと聞く。
「どうだった?」
短い問いだった。
何のことか、聞き返す必要はなかった。
今日のことだ。
矢。
突進。
剣。
火球。
近くを通った熱。
あと少しで終わっていたかもしれない距離。
コーイチは少し考えてから、答えた。
「……怖かったです」
それだけ言って、言葉が止まる。
ミアは急かさなかった。
焚き火を見たまま、次の言葉を待っている。
コーイチは、もう一度口を開いた。
「逃げたくなりました」
自分で言ってから、少しだけ俯く。
強がる気にはなれなかった。
平気だったとは、とても言えない。
ミアは、ふっと息を漏らした。
笑ったようにも聞こえたが、からかった感じはなかった。
「うん」
それから、焚き火を見たまま言う。
「怖くない人はね」
そこで一度、言葉を切る。
「自分が何してるか、わかってないことが多い」
コーイチは黙って聞いていた。
ミアは少しだけ視線を落とした。
火の赤が、その頬を薄く照らしている。
「そういう人と一緒にいるの、私は怖い」
静かな声だった。
責めるような言い方ではない。決めつけでもない。
ただ、そう思っているのだと分かる声だった。
コーイチは、すぐには何も言えなかった。
自分は前に出たかったわけじゃない。
気づけば、そういう場所にいた。
怖いのも本音だ。
逃げたいと思った瞬間だってある。
それでも、今ミアはそれを否定していない。
むしろ、そこを見ている。
コーイチは火へ視線を戻した。
薪の先が崩れ、赤い炭がひとつ落ちた。
小さな火花が跳ねる。
「……そういうものですか」
ようやく出た言葉は、それだった。
ミアは肩をすくめる。
「私はね」
その言い方が、妙に柔らかかった。
しばらく、また沈黙が落ちる。
気まずくはなかった。
酒場で向かい合っているときとも違うが、やはり黙っていられる沈黙だった。
コーイチは、火の熱を頬に感じながら、昼の火球を思い出した。
あの熱とは違う。これは暖かいだけだ。
当たり前のことなのに、少しほっとする。
そのとき、不意にミアが言った。
「帰ったらさ」
コーイチはそちらを見る。
ミアはもう、焚き火ではなくコーイチを見ていた。
「普通のこと、しよう」
「普通のこと?」
「うん」
ミアは少し笑う。
「一緒にごはん食べよう」
「えっ」
思わず声が出た。
あまりに自然だった。
軽く言われたのに、妙に胸に残る言い方だった。
ミアは眉を上げる。
「なに、その反応」
「いえ、その……」
コーイチは言葉に詰まった。
断る理由はない。ないのだが、こういう誘いにどう返すのが正解なのかが分からない。
黙っていると、ミアが小さく首をかしげた。
「いや?」
その問いは軽かった。
けれど、コーイチには妙に重く響いた。
「いやじゃないです」
慌てて答える。
ミアの口元が少し緩む。
「はっきりしないなぁ」
笑いながら言う。
コーイチは、自分でもそう思った。
否定ではない。拒絶でもない。だが、喜んで飛びつくような反応もできない。
どう返しても、少し遅れる。
ミアはそんな様子を見て、楽しそうに目を細めた。
「私はコーイチとごはんしたい」
言い切った。
夜気の中で、その言葉だけが妙にはっきり残った。
コーイチは、思わず黙る。
焚き火が、ぱち、と鳴る。
頭のどこかで、今の言葉を別の形に置き換えていた。
一緒にごはんを食べる。帰ったら。二人で。
それはつまり――
ミアは、コーイチの顔を見たまま、少しだけ笑った。
「デートのお誘い」
あっさりと言う。
コーイチの喉が、ひくりと動いた。
「……そういうことを、さらっと言うんですね」
「言わないと伝わらないでしょ?」
その通りだった。
コーイチは何も言い返せなかった。
ミアは、返事を急がせることもなく、また焚き火へ視線を戻した。
その横顔は、どこか満足そうだった。
コーイチは、自分の膝の上に置いた手を見る。
さっきまで残っていた震えは、いつの間にか少しだけ薄れていた。
火の音がする。
人の気配がする。
隣に、ミアがいる。
怖かった一日の終わりにしては、妙に静かだった。
「……わかりました」
少し遅れて、そう言う。
ミアが振り向く。
「うん」
短く笑う。
「じゃあ、約束ね」
コーイチは、焚き火の向こうを見た。
闇は深い。だが、火の周りだけは明るい。
近い、と思った。
距離のことかもしれない。
言葉のことかもしれない。
席のことかもしれない。
まだ、うまく言えない。
でも、この人となら。
もう一度、前に出てもいいかもしれないと思った。




