第3章 第19話 歪み
第3章 第19話 歪み
野営地に戻ったあとも、コーイチの手の震えはなかなか止まらなかった。
火のそばに座っているのに、体の芯が冷えている。
指先だけではない。肘の内側、膝の裏、背中のあたりまで、見えない細い震えが残っていた。焚き火の熱は皮膚の表面を温めるだけで、その奥までは届かない。
薪がはぜる。
火花がひとつ、夜気に弾けて消える。
「大丈夫か?」
声をかけられて、ようやく顔を上げた。
返事をしようとして、喉が詰まる。口の中が乾いていた。
「……はい」
嘘ではない。
生きている。怪我もない。血も流れていない。
それだけなら、確かに大丈夫だった。
だが、それだけだった。
ほんの少し前まで、自分の顔のあった場所を矢が抜けていった。
火球は頬の脇を通り、木を焦がした。
剣も、牙も、爪も、何度も届く距離まで来ていた。
その一つでも、本来なら当たっていたはずだ。
なのに、今こうして火のそばに座っている。
自分でも、そのことがうまく呑み込めなかった。
周囲の視線が、妙だった。
露骨ではない。
じろじろ見るわけでもない。
だが、何人かが意識的にコーイチの近くへ座っている。
火の位置。
見張りの立ち位置。
荷の置き方。
水袋をまとめて置く場所まで、ほんの少しずつ変わっていた。
気のせいかもしれない。
そう思おうとした。
だが、そう片づけるには回数が多すぎた。
正面には前衛の男がいる。
右には弓手。
少し離れてミア。
まるで、中心を空けるように人が座っている。
誰も「守る」とは言わない。
誰も「真ん中にいろ」とも言わない。
それでも、形だけができていた。
コーイチは火を見つめた。
薪の端が赤くなり、黒く崩れていく。単純な現象のはずなのに、今夜はそれすら落ち着いて眺めることができなかった。
「さっきさ」
若い冒険者が、酒袋を回しながら言った。
「お前、あれ避けたよな?」
コーイチは首をかしげる。
「……避けた、というか」
そこで言葉が止まる。
自分でも、その続きが分からなかったからだ。
若い冒険者は酒袋を膝の上で揺らした。
「いや、絶対だ。後ろからだぞ?」
別の男が口を挟む。
「普通、気づかねぇ」
「最初の矢もそうだし、猪もそうだ」
「火球もだな」
「あと、あの短槍のやつ」
静かに、話題が集まってくる。
誰も責めていない。問い詰めてもいない。ただ、確かめている。
それが余計に、コーイチには重かった。
説明できない。
自分で分かっていないものを、どう説明すればいいのか分からない。
「気づいたら……いなかっただけです」
言ってから、自分でも変な答えだと思った。
だが、それ以上の言い方がなかった。
沈黙が落ちる。
誰かが笑って流すかと思った。
適当に「運がいいな」で終わるかと思った。
だが、誰も笑わなかった。
焚き火の音だけが残る。
「そうか」
年嵩の冒険者が、短く言った。
「じゃあ、次も頼むわ」
軽い調子だった。
だが、冗談ではない。
頼む。
その一言の意味が、妙に重く響いた。
コーイチの胸が、きしんだ。
自分は何かを請け負えるような人間ではない。
自分の力で誰かを守れるとも思っていない。
それでも、周囲は少しずつそう扱い始めている。
名前を呼ばれ。
隊列に組み込まれ。
危ない場所の近くに置かれる。
その流れが、もう始まっている。
翌日から、配置が変わった。
誰かが明確に命じたわけではない。
相談も、確認もない。
だが、いつの間にかコーイチは、敵が来そうな場所、崩れそうな場所、危険になりそうな場所の“近く”に立たされるようになっていた。
前衛の真横ではない。
囮のように先頭に立つわけでもない。
だが、後ろで荷物の陰に隠れている位置でもない。
ひとつ前。
ひとつ横。
そういう場所だ。
理由は語られない。
ただ、そうなっていく。
小競り合いが、二度あった。
一度目は、森の縁だった。
木々の間から矢が飛んできた。
風を切る鋭い音がした時には、もうコーイチの身体は半歩ずれていた。
矢は、背後の木に突き刺さった。
その瞬間、隣にいた男がすぐ前へ出た。
コーイチをかばったというより、その動きが当たり前になっているようだった。
「やっぱりな」
誰かがそう言った。
感心とも、安堵ともつかない声だった。
二度目は、岩場の脇だった。
魔物が横から飛び出した。
体格差は圧倒的だった。まともにぶつかれば、踏み潰されてもおかしくない。
コーイチは、逃げようとした。
そうしたつもりだった。
だが気づけば、魔物の突進はコーイチの脇を抜け、空を裂いていた。
そのまま体勢を崩した魔物に、側面から仲間の槍が入った。
「……楽だな」
誰かが、ぽつりと漏らした。
悪気はない。
むしろ、心底安心した声だった。
コーイチには、その言葉が重かった。
自分は、何もしていない。
剣を振り回したわけでも、号令をかけたわけでもない。
戦場を支配したわけでもない。
それなのに――
自分がいるだけで、被害が減っている。
そんなふうに、周囲が思い始めている。
夜。
焚き火の火が少し落ちて、赤い炭の色が目立ち始めたころ、ミアが隣に座った。
最初からそこにいたみたいに自然だった。
距離も、近すぎず遠すぎず、酒場の向かいの席より少し静かな位置だった。
「ねえ」
低い声だった。
昼間の軽さを少しだけ落とした声。
「すごかったね。どうやって避けたの?」
コーイチは、少し考えた。
矢。
火球。
突進。
剣。
どれも、迫ってきた記憶はある。
死ぬ、と思った記憶もある。
けれど、どうやったかと聞かれると、何も答えられなかった。
「……わからないです」
「そう」
ミアはそれだけ言った。
追及はしない。
笑いもしない。
疑いもしない。
「わからないんだ」
その言い方には、妙な納得があった。
ミアは、少しだけ笑った。
からかうような笑いではない。何かを見つけて、ひとりで頷く時の笑いだった。
「コーイチって、不思議」
そう言ってから、ミアは黙った。
焚き火の向こう側では、別の冒険者たちが低い声で翌日の順路を話している。誰かが乾いたパンを割り、誰かが水を回す。夜の野営地らしい、小さな音がいくつも重なっていた。
その中で、ミアだけがじっとコーイチの顔を見ていた。
理由は言わない。
ただ、それだけで納得したようだった。
火が爆ぜる。
闇が、たいまつを中心にゆっくり溶けていく。
森の奥はまだ暗い。見えないものの方が多い。
気づけば、ミアの肩がコーイチに触れていた。
ほんの少しだった。
重く寄りかかるわけでもない。温度が伝わるかどうか、ぎりぎりの距離。
コーイチは何も言わなかった。
言えなかった、の方が近い。
その静けさを壊す理由が見つからなかった。
周囲では、まだ誰かがこちらを見ている気配がある。
昼間の戦いを思い返しているのか、次の配置を考えているのか、それともただ警戒しているだけなのか。そこまでは分からない。
ただ一つだけ、もう誤魔化せないことがあった。
隊の中で、自分の位置が変わり始めている。
後ろに置いてもらえる荷物持ちではなく、
前に立ってもらう剣士でもなく、
気づけば危ない場所の近くにいる人間。
そして、そのことを皆が薄々共有し始めている。
コーイチは焚き火を見つめた。
赤い火の奥で、薪の形が少しずつ崩れていく。
目に見えない力で押されるように、配置が変わり、空気が変わる。
まだ小さい。
だが、確かに生まれている。
歪み。
それはまだ、名前をつけるほど大きくはなかった。
けれど、もう元の形には戻らない。
そんな気がしていた。




