22話 悪役令嬢は婚約破棄を許さない
物心ついた時から、わたくしがシャンス伯爵家に嫁ぐことは決まっていた。
文句はなかったわ。貴族の娘として生まれた以上、政略結婚は義務だもの。
シャンス家と縁を結ぶことで我が家が発展するなら、拒む理由などないわ。
たとえ、相手が父のように他人を道具としか見ない人であったとしても。
幸運なことに、婚約者――ジョルジュは父とは正反対の人だった。
常に穏やかで笑みを絶やさず、誰に対しても心遣いを忘れない人。
父は「頼りない」と言っていたけれど、わたくしは彼を愛していた。
確かに、伯爵家の当主としては少し頼りないかもしれない。
けれど、人としては父よりもずっと尊敬できるもの。
『二人で共に歩んでいこう、イザベル』
なにより、彼はわたくしを慈しみ、尊重してくれた。
顔を合わせるたびに「ロッシュ伯爵家の駒であれ」と言い聞かされてきたわたくしにとって、彼の言葉はとても嬉しかったの。
だからわたくしも、彼がくれたのと同じだけ愛と尊敬を返した。
物語のように燃え上がるような恋は出来ないかもしれない。
でも、家族として穏やかな愛を育むことはできる。
そう、思っていたのに。
「アンナは可愛いね」
いつしか、彼の愛は他の女にも注がれるようになっていた。
氷の美貌を持つと謳われたわたくしとは対照的な、小動物のように愛くるしい娘。
初めて会った時、彼と同じく観劇が趣味なのだと話していたのを覚えている。
初めは目を瞑れた。
送られる手紙の数も言葉の優しさも、これまでと変わらなかったから。
お母様もよく「男は火遊びを好むものよ」とおっしゃっていたもの。
婚約者と少し毛色が違って話の合う少女を気に入っただけ。
そのうち飽きて、わたくしのもとへ戻ってくるわ。
だって――わたくしは、彼の婚約者なのだから。
「僕がただのジョルジュだったら、君に愛を誓えたのに」
けれどそのうち、手紙が減った。
お茶会に誘っても何かと理由をつけて断られるようになった。
理知的な光を宿した藍色の瞳が、わたくしを見なくなった。
「愛しているんだ、アンナ」
それを聞いたのは、王家主催の舞踏会が開かれた夜。
一曲踊った後、早々に姿を消してしまった彼を探して庭園を歩いていた時だった。
「イザベルとは政略で結ばれるだけだ。
長年仲違いをしてきた二つの家を繋ぐ礎としてね。
僕が本当に愛しているのは君だけだよ」
「嬉しいわ、ジョルジュ……」
月明かりの下、真紅の薔薇に囲まれて愛を囁き合う二人はまるで、舞台の一場面を切り取ったかのように美しかった。
彼らがしていることはわたくしへの裏切りなのに。
「でも……わたくしは婚約者よ」
微笑みを交わす彼らを眺めながら、ひっそりと呟く。
そう、この事実だけは何があろうと決して変わらない。
貴族の婚約は家同士の契約だもの。
一方的に婚約を破棄すれば、シャンス伯爵家は多大な損害を被る。
聡明な彼なら、わたくしとの婚約を破棄するはずがない。
……いつも通りの彼なら。
彼は賢い人だった。
わたくしたちが結ばれることの重要性を理解していた。
両家の関係が修復されることをよく思わない人々が付け込む隙を見せないよう、常にわたくしへの敬意と愛情を示してくれていた。
けれど、今は違う。
エスコートの回数は減り、対応は素っ気なくなり、今日のような場でさえ愛人との逢瀬に使うようになった。
今の彼なら、愛する少女と結ばれたいが為にわたくしとの婚約を破棄すると言い出してもおかしくない。
もしそうなれば、両家の関係は修復不可能なほどに悪化するでしょう。
その前に彼が「病死」させられても不思議ではない。
「両家を繋ぐ礎」に必要なのはロッシュ家とシャンス家の子ども。
わたくしには兄が、彼には妹がまだいる。
年が近いからわたくしと彼が婚約者に選ばれただけで、替えはあるもの。
家のことを考えれば、それでいいのかもしれない。
けれど……わたくしはまだ、希望を捨てきれなかった。
政略による婚約だとしても、十年以上を共に過ごしてきたのよ。
たった数か月おかしくなっただけで見捨てられるはずがない。
明日にでも元の優しい彼に戻ってくれるかもしれないもの。
思えば、彼がおかしくなったのはあの女と出会ってからだった。
それなら、原因を遠ざければ元に戻るのではないかしら。
「でも……どうすればいいの?」
屋敷に戻った後、自室で一人呟いた。
答えを返してくれる人などいないと分かっているのに。
伯爵家の人間とはいえ、わたくしは娘。
わたくし自身が自由に使えるお金や権力は一切ないし、もしそれらを使えばお父様に事態を知られてしまいかねない。
そうなれば、わたくしと彼の婚約は解消されてしまうわ。
お父さまからしてみれば、その方が楽だもの。
「お悩みですか?」
頭が重くなるのを感じて深々と息を吐いた時、知らない声が部屋に響いた。
鈴を鳴らすように可憐な声に警戒を忘れ、そちらを振り向く。
「あなたは……?」
窓枠に腰掛けていたのは、周囲が輝いて見えるほど美しい少女だった。
淡い紫色の髪が風に揺れるたび、仄かに甘い香りが鼻をくすぐる。
絵本によく描かれる、夢の妖精かしら。
現実離れしたことを考えかけてようやく、目の前の光景が異常であると悟った。
悲鳴を上げかけたわたくしの唇に、いつのまにか近くにいた少女がそっと指を添える。
「ダメですよ、夜中に騒いでは。
ね、イザベルさん」
幼い頃、わがままを言う度に宥めてくれた乳母を思わせる優しい声に、自然と警戒がほどけていった。
口を閉じたわたくしを見て、少女がくすりと微笑む。
「いい子ですね。
今日は、イザベルさんにとっておきの提案をお持ちしました」
「てい、あん……?」
「ええ。貴女も、貴女の愛する人もしあわせになれる提案ですよ。
聞いてみませんか?」
甘い言葉を拒む気力は、わたくしの中に残っていなかった。
+++++
「我が名はトレーラント。
イザベル・アメリー・ユゲット・ド・ロッシュ。汝の望みを述べよ」
魔法が使えなくなるという稀有な(だが、全く嬉しくない)体験をした翌日。
俺とトレーラントは、この日もいつも通り契約を行っていた。
昨日の出来事があったから若干の不安は残るが、だからといって事が解決するまで休むわけにもいかない。
悪魔にとって、契約は生命線。長期間契約をしないと消滅するからな。
サジェスやエスペランサなら数十年は耐えられるだろうが、俺たちには無理だ。
流出した第一エリアの素材がすべて回収されるまでは、警戒を強めながら事に当たっていくしかないだろうな。
まあ、あんな希少な素材が大量に持ち出されているとは考えづらいから、昨日のような事態に陥ることはそうそうないだろうが……。
今回の召喚者はイザベル・アメリー・ユゲット・ド・ロッシュ。
ロージエ王国の伯爵令嬢だ。
召喚されてすぐにこっそり探知魔法を発動してみたが、特に問題なく周囲を探知できたので警戒の必要はなさそうだな。
ない胸をほっと撫で下ろしながら、召喚陣の中に佇む女に視線を向ける。
緑の瞳を揺らがせて、女が口を開いた。
「わたくしの望みは、婚約者からアンナを引き離すこと。
ただし、アンナを殺害したり、危害を加えることは認めません」
珍しいな。恋敵の殺害や加害を望まないなんて。
悪魔を召喚するほど強く恋敵を排除したがっている奴なら、だいたいは殺害を希望してくるんだが。
「報酬は」
「わたくしの装飾品やドレスは全てロッシュ家のもの。
悪魔への支払いは契約者の所有物でしか出来ないのでしょう。
だから……情を、恋心を差し上げるわ。わたくしにはもう、不要だもの。
殺害を望まないのなら、これでも十分でしょう?」
ああ、なるほど。節約のためか。だが、悪い条件じゃない。
人間の感情、特に恋心を結晶化させたものはなかなか面白い嗜好品になる。
少しの刺激でころころと色や模様が変わるからだ。
個体によって変化する条件や色合いが異なるから、専門の蒐集家もいるらしい。
俺は取りこぼしを避けたい性格だから、手を出したことはないけどな。
「では、契約を」
トレーラントが差し出した白い手に、女の手が重なった。
これで契約成立だ。あとは女の望みを叶えるだけだな。
殺害や加害を許さないという条件はあるが、大した障害じゃない。
むしろ魔力の節約になって都合がいいくらいだ。
婚約者に横恋慕してくる女を排除するだけならやり方はいくらでもあるからな。
例えば、別の男に惚れさせる……とか。
「一件目から簡単な仕事に当たるなんて、今日は運がいいっすね!」
「ああ。だが、気は抜くなよ。
お前が見た目で嫌われることはないだろうが、好みはあるだろうからな」
「そうっすね。演技力を磨くチャンスだと思って、頑張るっす」
魔法で赤薔薇に変えた俺を胸ポケットに差し込みながら、トレーラントが控えめに微笑んだ。
服装もいつの間にか黒を基調としたシックなものに変わっている。
どうやら、今回は物腰柔らかな好青年として振舞うつもりらしい。
万人受けする性格だ。まず嫌われることはないだろう。
細かな部分はアンナの反応を見ながら調整すればいい。
今回、俺の出番はなさそうだ。
特等席で後輩の頑張りを眺めるとするか。
来週は用事があるのでお休みです。