5.二匹、問う
鼻先に触れる熱は徐々に失せてゆく。
四つの蹄だけでは、腹の膨れた娘を抱き上げることはできなかった。
もとは神馬、穢れて物の怪、切られた脚はすぐ直ったが、か弱き人の子はそうもゆかぬ。
傷は膿んで、じゅくじゅくといつまでも腐った臭いを放つ。
はじめは社の奴ばらを八つ裂きにせんと思ったが、今にも息絶えんばかりの娘を置いてはゆけぬ。
腹に我が子もあればなおのこと。
すると娘が、色の失せた唇を開けた。
「百年、待ってて」
息からは山桃が香っていた。
ここに来る前、社で実を口にしていた、それだろう。
「百年経ったら、会いに来ます。そうして一緒になりましょう」
言ったきり、腹の子とともに絶えてしまった。
以来、待ち続けている。
百年がいつなのか、わからねども娘が待てと言うなら待たねばならぬ。
いつどこから現れてもすぐさま見つけられるよう、ありったけの目玉を体に付けた。
次は娘を抱き上げられるよう、人の手も付けた。
腐ったところには新しい肉を足し、そのうち、どんどん体は膨れて、身の内は妖気と瘴気に満ち満ちた。
今宵も、百目は死骸の下より這い出づる。
地上に生者の気配がしたため、そやつにまた時を尋ねようと思った。
見やれば、山桃の木の下に、巫姿の女が立っていた。
黒き髪と瞳。白き肌。
いと清げな娘であった。
薄闇に佇み、百目に微笑みかけている。
そのおぞまし姿をものともせずに。
二足で立ち上がって、百目は嗤った。
「キクリのつもりか、狐」
「おっと。見かけによらず敏いな」
口を開けば途端に、下卑た本性が顕れる。
「まったく似とらん」
「すまん。あの婆め、姿絵をまともに取っておらなんだでな、奴の若い頃を予想しまねてみた。が、似とらんか」
「この身と魂は落ちぶれど、もとは神使。化かせると思うな。狸、お前もだ」
藪に隠れ、弓を引き絞っているいち子へ牽制する。
そちらへの百目の殺気を逸らすよう、殊更に太郎は声を張り上げた。
「なあ、良いこと教えてやろう! キクリが死んで千年経ったぞ!」
ぴたりと、百目は動きを止めた。
「・・・なんだと?」
まこと信じ難きことであった。
しかも狐狸とは平気で嘘を吐く。
謀り、誑かし、煙に巻くことを生業とする。到底、信じられる者ではない。
「何を言う。そんなことがあるものか」
「なぜだ。なぜないと思う」
「キクリは百年待てと言った。百年きりだっ。それで会えると!」
百目が拳を振り上げる。
間際に太郎は変化を解いて、逃げていた。
「まさか百年経たば、キクリとやらは蘇るとでも?」
「そうだ!」
「なわけあるかあ!」
次に声張ったのはいち子である。
藪を跳び、走りながら破魔矢を放つ。
「あんたは女が死ぬる様を見たのじゃろう? その目の前で死んだのじゃろう? そんならわかれっ、あんな冷たくなったもんが、生き返るわけなかろうが!」
破魔矢ははずれて闇に消える。
だがあと一本、矢筒にあった。
「キクリは会いに来ると言った!」
「ほうか! ほんなら、もっぺん女の骨を見てみいや! キクリはどこで死んだ! さ、ほら、骨はどこにある!」
どこで死んだか。
そんなの、百目は迷うべくもない。
山桃の香りのするところ。キクリはそこで子と果てた。
「ここだ!」
山桃の木の根元に蹄を立てる。
すると、逃げる最中の太郎が、不意に顔色変えた。
「待て百目。その山桃の木はいつからあった?」
「ああ?」
問う者が変わって、今度は百目が首を傾げる番である。
「知らん、わからん」
「では、キクリはその木の根元で果てたのか?」
「いや、いいや、違う」
百目は思い出す。
山桃の大木などはじめはなかった。そもそも藪の窪地に、木などもとは一つもなかった。
「おい百目。キクリは山桃の実を呑んで死んだか?」
暴れる百目の手足が止まった。
合わせて太郎も止まり、にやりとした。
「解けたぞ百目! キクリはとっくにぬしの目の前におる。百年待たせて、残りの九百年は、ぬしの前にそびえておった。その山桃がキクリであるぞ!」
呆然と。
巨人は立ち尽くす。
彼を抱き込めるよに、枝葉を広げた巨木を前にして。
「キクリ・・・お前、キクリか?」
ざわりと、風もないのに葉が擦れた。
それが百目にどう聞こえたか。
二の足を折り、頽れた。
その頃には、背後で合流した二匹のことも何もかも、どうでも良くなっていた。
すでに百目から殺気は失せている。
木にしがみつき、啼いている。ただそれだけだ。
「おい百目」
しばらく待って、太郎が静かに問いかけた。
「殺してやろうか」
百目は、こくんと頷いた。
「殺せ。キクリに会えた。ならばここで果てるのみ」
「わかった。いち子、貸せ。俺がやる」
矢をつがえ、力いっぱい弓を引き絞る。
やがて、ひょう、と放った破魔矢は、前にいち子が突いた、背中の格別大きな目玉に刺さった。
途端に噴き出す毒霧が、紫色の炎となってめらめら燃え出す。
間もなく、全身に広まった。
木を抱いたまま、百目は静かに燃えていた。
溶けた目玉どもが、ぼたり、ぼたりと身から落ちてゆく。
皮が剥け、骨が露わとなる。すると骨も燃えてゆく。
藪の外より半妖二匹に見守られ、百目と山桃は、三晩の後に燃え尽きた。




