第4話 アラタの休日
目が覚めて最初に見えたのは、いつもの天井の染みだった。
いつもの、のはずだった。
染みの縁がやけにくっきりしている。ただの茶色い滲みだと思っていたものが、細かな線の重なりでできているのがわかった。その線の一本一本が木の年輪のように波打っている。天井板の継ぎ目に溜まった埃の粒まで数えられそうだった。
俺は目をこすった。
もう一度見る。変わらない。
これまで目が悪いと思ったことはなかった。遠くの機械も見えたし看板の字も読めた。けれど今、目の前にあるのはまるで別の世界だ。今までの俺は薄い膜越しに物を見ていたのかもしれない。
体を起こす。
軽かった。
羽のようにという言い方がある。大げさな言葉だと思っていた。だが本当にそうとしか言いようがない。腕に力を入れる前にもう上半身が起きていた。
昨日の疲れがない。昨日の分だけじゃない。十七年分、少しずつ溜めこんできた体の重さが、一晩で溶けて消えていた。
腰に手を当てる。
鳴らない。
毎朝起き上がるたびに小さく鳴っていた腰が何も言わない。どこも痛くない。どこも突っ張らない。
寝台から下りて床に立つ。そのまま軽く跳んでみた。
天井に手が届きそうになった。
慌てて着地する。足の裏が床を捉える感覚が恐ろしいほど正確だった。どこにどれだけの力をかければいいのか、考える前に体がわかっている。
拳を握る。開く。握る。
力が体の奥から湧いてくる。腕にも脚にも背中にも詰めこまれているような感じがする。今なら何でもできる気がした。物語に出てくる空を飛ぶ英雄にでもなった気分だった。
<< おはようございます、アラタさん >>
アカリが窓辺に立っていた。
<< お体の具合はいかがですか >>
<< ……具合も何も >>
言葉が見つからなかった。
<< ねえ。これで低い段階なんだよね。最適化ってやつの >>
<< はい。これが市民としての最低限の身体最適化です >>
最低限。
俺はもう一度自分の手を見た。
これで最低限なのだ。旧時代の人間は生まれたときから、これより上の体で暮らしていた。
超文明。何百年も昔に消えたすごい文明。今までそれは遺物の値段でしか知らなかった。高く売れる部品。手の届かない装備。その程度のものだった。
今初めて、その文明の底の深さが体に染みてわかった気がした。
◇
昨日は遺跡に潜ったから今日は休みだ。
俺の暮らしは三日で一巡りする。一日目に遺跡に潜って稼ぐ。二日目は休んで好きなことをする。武器の手入れもこの日にやる。三日目は体を鍛えて、遺跡の噂や情報を集める。そしてまた一日目に戻る。
十七年かけてそういう形に落ち着いた。体が資本の仕事だ。無理をして潜り続ける奴から先に壊れていく。
休みの日の朝はゲームをすると決めている。
部屋の隅の卓に置いたパソコンの電源を入れる。中古の部品で組んだ、決して新しくはない機械だ。画面が明るくなって、いつもの銃撃戦のゲームが立ち上がる。
ネットの向こうの誰かと撃ち合う遊びだ。ハンターの仕事と似ているようでまるで違う。撃たれても死なない。負けても何も失わない。
子供の頃からこれだけは続けてきた。
これでも腕には自信がある。
一番調子が良かったのは二十二、三の頃だ。腕試しのつもりで出た大会で、ゲームで食っているプロの連中を相手に優勝の賞金をもぎ取ったことがある。プロになったことはない。本業はあくまでハンターだ。
あの賞金で装備をまとめて買い替えた。浅いところでその日暮らしをしていた駆け出しが、少し奥まで潜れるようになった。ハンターとして中堅に上がれたのは、あの金がきっかけだったと思う。
今はもう大会には出ていないが、遊びの対戦ならまだまだ負ける気はしない。
<< これは何ですか? >>
アカリが画面を覗きこんできた。
<< 遊びだよ。撃ち合いのね >>
<< ハンターのお仕事の練習ですか >>
<< いや。ただの趣味 >>
アカリは不思議そうに首をかしげたが、それ以上は聞いてこなかった。
対戦が始まる。
右手でマウスを握り、左手をキーボードに置く。画面の中の街並みを走り出す。
角を曲がった瞬間、敵が見えた。
止まっていた。
いや、止まってはいない。動いている。ただ、その動きが手に取るようにわかる。どちらに走っているか。どこで止まるか。銃口がどこを向こうとしているか。
マウスを動かす。照準が敵の頭に吸いつくように重なった。
撃つ。
倒れた。
次の敵。また見える。また合わせる。また倒れる。
手と目と画面が一本の線で繋がっているようだった。思ったとおりに照準が動く。思った瞬間にもう指が動いている。マウスが自分の手の延長になっていた。
物陰から二人同時に飛び出してくる。
まずいと思った。
その瞬間、世界がゆっくりになった。
飛び出してくる二人の動きが水の中のように鈍くなる。一人目の頭に照準を合わせて撃つ。二人目に流して撃つ。その間、俺の頭だけが普段の速さで動いていた。
気づけば二人とも倒れている。世界の速さが元に戻っていた。
<< 今の何? >>
<< 体感時間の操作です。強く集中すると周りがゆっくりに感じられます。今の段階ではまだ軽いものですけれど >>
軽いもので、これか。
その対戦は俺の一人勝ちだった。
次の対戦も。その次も。
一度も負けなかった。画面の端に相手からの悪態がいくつも流れてきた。
昔、大会で優勝した頃でさえ、こんなふうに撃てたことはない。
<< 最適化ってこんなことまでできるんだ >>
<< 目と頭と手の働きを整えただけですよ >>
だけと言われても困る。
俺は笑いながらもう一戦、対戦の開始を押した。
◇
昼前にゲームを切り上げた。
ここからは休みの日のもう一つの仕事だ。武器の手入れと消耗品の確かめ。
卓の上に三挺の銃を並べる。小型弾頭の拳銃。中型弾頭のライフル。大型弾頭の大口径拳銃。それから昨日アカリと作った改良済みの小型弾頭の箱。
<< アカリ。昨日の弾、このまま今の銃で撃てる? >>
<< 撃てます。ただ、銃の方が弾に追いついていません。何発か撃つうちに銃身が傷んでしまうと思います >>
<< だよね >>
<< 銃も改造しましょう。クオタも一日たって回復しています >>
昨日使い切ったはずのクオタがもう戻っている。毎日配分されるというのは本当らしい。
<< ただ素材が足りません。金属の素材と樹脂の素材と、それからオイルが要ります。あと背嚢を動かすためのエネルギーパックも一つ買っておきましょう >>
またかと思った。
だが昨日の夜のことを思えば、文句を言う気にはならなかった。
◇
「よう」
ゲンの店の戸を開けるとゲンが帳面から顔を上げた。
「今日は休みの日だろう。どうした」
「ちょっと買い足しに来ました」
アカリの言うとおりに、金属の部品と素材、樹脂の素材、それにオイルを何種類か頼む。最後に空間拡張の背嚢に使うエネルギーパックを一つ。
ゲンは黙って品を下ろし、昨日と同じように一度だけ俺の顔をじっと見た。それから何も言わずに計算機を弾いた。
「毎度」
店を出るとき背中に視線を感じた。昨日より長く。
◇
部屋に戻って卓の上に銃と素材を並べる。
<< では始めましょう。まずは小型弾頭の拳銃から >>
右手をかざす。手首のマークが光る。金属と樹脂とオイルが銀の粒になって拳銃の中に吸いこまれていく。
銃身の内側が内側から磨かれていくように光った。
<< 何をしたの? >>
<< 銃全体の耐久力を上げました。それから銃身の精度を上げています。中の溝を一本ずつ最適な形に削り直しました。改良した弾と合わせれば、狙った所にほぼそのまま飛びます >>
続けてライフルと大口径の拳銃にも同じことをした。
見た目はほとんど変わらない。だが手に取るとわかる。重さの釣り合いが前と違う。握ったときに銃が手の中で落ち着く。
<< これも一般市民の改造なの? >>
<< はい。今ある銃に、旧時代の一般の住民が使えた加工の技術で手を加えただけです >>
手を加えただけ。
今のユメサキでこれ以上の銃を持っている奴が何人いるだろう。
<< 最後にエネルギーパックです >>
ゲンの店で買ってきたエネルギーパックを卓に置く。空間拡張の背嚢を動かすためのごく普通の品だ。
右手をかざすと、パックが一度だけ銀の粒にほどけて、すぐにまた同じ形にまとまった。見た目は何も変わっていない。
<< 中身を旧時代の基準に作り直しました。これで背嚢を動かせます >>
パックを背嚢の差し込み口にはめる。背嚢がかすかに唸った。持ち上げてみると中に何も入っていないかのように軽い。
<< これでどのくらい持つの? >>
<< 普段どおりに使って一年ほどです。背嚢を守るシールドも同じエネルギーを使いますので、撃たれることが多ければ減りは早くなります。それでも半年は持ちます >>
普通のエネルギーパックならひと月も持たない。
俺はもう驚くのをやめることにした。
◇
ユメサキの東の外れにハンター向けの射撃場がある。
金を払えば誰でも使える。的を置いて撃つだけの殺風景な場所だ。休みの日のこの時間はたいてい空いている。
俺は一番奥の、人目につかない区画を借りた。
まずは改造した拳銃に改良した小型弾頭を込める。二十歩ほど先の的を狙う。
撃つ。
的の真ん中に穴が開いた。
もう一発。同じ穴を少しだけ広げた。
もう一発。また同じ穴。
五発撃って、穴は一つしか開いていなかった。
俺はしばらく的を見ていた。
距離を倍にする。同じだった。さらに倍にする。穴が二つになった。最初の穴のすぐ隣に。
狙ったところに飛んでいく。アカリの言葉どおりだった。腕が良くなったのか、目が良くなったのか、銃が良くなったのか、弾が良くなったのか。たぶん全部だ。
最後に、射撃場の隅に積まれている試し撃ち用の装甲板を的にした。警備機械から剥がした本物の装甲板だ。普段なら中型弾頭でようやく削れる厚さだ。
小型弾頭を一発。
装甲板の真ん中にきれいな穴が開く。向こう側の土嚢まで抜けていた。
俺はゆっくりと拳銃を下ろした。
手が少しだけ震えている。怖かったからじゃない。
これがあれば稼げる。
姫路住宅街遺跡のもっと奥へ行ける。もっと高い部品を、もっと少ない弾で、もっと確実に抜ける。
<< アラタさん >>
<< 何? >>
<< 楽しそうですね >>
言われて初めて気づいた。
俺は笑っていた。




