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第26話 人の限界の、その先

 目が覚めて最初に届いたのは、遠くで店の戸を開ける音だった。


 何本も通りを隔てた先にある、朝の早いパン屋だ。建て付けの悪い木戸が擦れる微かな軋みまで、耳元で鳴ったかのようにはっきりと拾える。これまでこの家で暮らしていて、そんなものが聞こえたことなど一度もなかった。


 その音に引きずられるように、街の気配が次々と耳へ流れこんできた。隣家で誰かが水を使っている。表の通りを朝積みの荷車がゆっくりと過ぎていく。どこかの屋根瓦の上で、小鳥が羽を畳むかすかな風切り音すら判別できた。


 目を静かに開ける。


 視界に入ったのは、天井を照らす旧時代の灯りの柔らかな光だった。その光の筋の中を、細かな埃が漂っている。いつもなら見過ごしてしまうような一粒一粒が、ゆっくりと弧を描きながら落ちていくのが見えた。まるで時間が引き伸ばされ、空中で静止しているかのように思えるほどの遅さだ。


 前にも似たような朝があった。


 あのときはハンター向けの狭い賃貸の部屋で、天井の染みが細い線の重なりに見え、自分の目を疑ったものだ。だが今朝は、疑う気にもなれない。


 ただ、自分の体に何が起きたのかを思うと、少しだけ背筋が冷たくなった。


<< おはようございます、アラタさん >>


 寝台の脇にアカリが立っていた。


<< お体の具合はいかがですか >>


<< うん。たぶん、大丈夫だと思う >>


 寝起きの倦怠感など欠片もない体を起こし、寝台から足を下ろした。寝室を出ようと扉の金属の取っ手を握る。その瞬間、掌の中でみしりと鈍い音がした。


 指を離すと、厚みのある取っ手の金属に、俺の指の形がありありとへこんでいた。


<< あ >>


<< やりましたね >>


 アカリが困ったように眉を下げて笑った。


<< 力の加減が、まだお体に追いついていないんです。今のアラタさんは、昨日までの感覚のまま動こうとしています。でも、お体の方はもう完全に別物ですから >>


<< 道理で、軽く握ったつもりでも力が入りすぎるわけだ >>


<< はい。人の限界の、その先ですからね >>


 俺はへこんでしまった取っ手に触れないよう、そっと扉を押し開けた。


 ◇


 その朝は、とにかく色々な物を壊すことになる。


 歯を磨こうとして柄を握りつぶして折り、顔を拭こうと引いた手拭いは中央からあっけなく裂けた。台所で水を飲もうと杯を手に取れば、ぴしりと鋭いひびが走って中身が零れる。


 それでも、決して慌てはしなかった。


 物を一つ壊すごとに一度動きを止め、深く息を吸う。それから、次に触れる物にはさっきの半分の力だけを込める。それでも強すぎるなら、さらにその半分。慎重に、指先の感触を確かめながら触れる。


<< 上手です、アラタさん。そうやってお体に新しい物差しを覚えさせていくんです >>


<< 覚えさせるって、頭で意識するだけでいいの? >>


<< どれくらいの力を込めれば、どれだけ動くのか。頭の中にある出力の物差しを、新しく作り直したお体に合わせて引き直す作業ですね。最初の最適化のときよりも変化の幅がずっと大きいですから、少し根気が要りますよ >>


 初めて最適化を施された朝のことを思い出す。


 あの朝は、床で軽く跳んだだけで天井に手が届きそうになった。だが、部屋の物を手当たり次第に壊すようなことはなかったはずだ。増えた力に対して、体の方が自然に帳尻を合わせてくれていたのだろう。今回はその帳尻が合わないほど、体そのものが作り変えられてしまったのだ。


 腹の奥が、ぎゅうと音を立てて鳴った。


 昨晩、アカリに急かされるまま自動調理器を何度も動かし、詰めこめるだけの料理を平らげてから眠ったはずだった。それなのに、腹の中はまるで何日も絶食したかのように空っぽだ。


<< お体を作り変えるのに、たくさん使いましたからね。今日はいつもの三倍は召し上がってください >>


<< そんなに全部入るかな >>


<< 入ります。お体の方が、材料をくれと悲鳴を上げていますから >>


 自動調理器の前に立つ。湯気の立つ旧時代の料理が次から次へと吐き出されていく。卓の上に並べた皿は、置いたそばから空になって片づけられていった。


 腹の虫がようやく静まり、最後の一皿を平らげた頃には、すでに昼の光が窓から差しこんでいる。


 ◇


 午後は、家の中で一番広いトレーニングの部屋に籠もった。


 旧時代の家具の骨組みと警備機械の装甲を素材にして作り変えた器具が並んでいる。鉄の重りを積む代わりに、旧時代の仕組みで負荷をかけるように作ったものだ。


 まずは普段通りの負荷に設定し、レバーに手をかけて押し出してみる。


 何の抵抗も感じなかった。まるで空の箱を押し出したかのような軽さだ。目盛りを二段階、三段階と引き上げる。さらに上げ、とうとう一番上まで押しこんだ。


 それでも、重いとは感じられなかった。重りが付いているのかどうかさえ、ほとんどわからない。


<< これ、器具の方がもう足りてないね >>


<< はい。作り直しましょう。もっと高い負荷をかけられる構造に設計し直します >>


 次に、部屋の中央で足を肩幅に開き、目を閉じて意識を研ぎ澄ませた。


 頭の芯が冷たく冴えわたり、世界が急激に減速していく。


 これまで使っていた感覚とはまるで違っていた。ゆっくり流れるどころではなく、世界の動きが完全に止まりかけている。窓の外で風に舞っていた木の葉が一枚、空中でほとんど静止していた。自分自身の心音と、長く長く引き伸ばされた呼吸の音だけが部屋に満ちている。


 その極限の静寂の中で、右腕を軽く振ってみた。


 腕が、思った位置より遥か先まで突き抜けた。止めようとしたところで関節が止まらず、体幹が半歩分、慣性に引っ張られて流れる。


 集中を解くと、木の葉は何事もなかったかのように落ちていった。


<< 今のは? >>


<< 体感時間の操作が、前よりずっと深くなっています。でも、深くなった分だけ、その中でのお体の動かし方も変わります。頭が遅い世界に浸っているあいだに、手足は前よりずっと速く動けてしまうので、ずれるんです >>


 半歩のずれ。実戦の最中なら、敵の弾幕の中に自ら飛びこむ致命的な狂いになりかねない。


 俺は壁に掛けてある強化服に目を向けた。


 芯を姫路駅の機械の装甲で一段上に組み直した、中堅ハンターには上等すぎるほどの服だ。少し前までは、身に余る性能だと感じていた。


 袖を通し、バックルを締めて軽く踏み込んでみる。


 動いた瞬間に、はっきりと違和感を覚えた。


 遅い。


 強化服が、俺自身の動きに追いついてこないのだ。腕を素早く振れば、服の方が一拍遅れて引っ張られるように付いてくる。脚を踏み出せば、服の膝が俺の膝より遅れて曲がり、俺の動きにブレーキをかける。ほんのわずかな遅れだが、背中を後ろから掴まれているような強い鬱陶しさがあった。


<< 前に言ってた通りだね >>


<< はい。今の時代の強化服では、もうお体の方が先に行ってしまいます。まだ使えますが、この先は足を引っ張ることになりますね >>


 強化服を脱ぎ、静かに壁へと戻した。


 十五歳から十七年間、俺の命を拾い続けてくれたのは、いつだってこういった強化服だった。それが今や、生身の動きを邪魔する重りに成り下がっている。


 強くなった。それは間違いない。だが、今の借り物の体のような状態のまま遺跡に潜れば、昨日までの自分よりも無様に撃ち倒される可能性すらあった。


<< しばらく、遺跡に潜るのはやめよう。この体に完全に馴染むまで >>


<< はい、それが賢明だと思います >>


<< どのくらいで感覚、戻せるかな >>


<< 生活の中で物を壊さなくなるまでに三、四日。実戦で戦えるレベルまで体を制御するには、もう少しでしょうか。でも、アラタさんならすぐに感覚を掴めますよ。最初のときも、あっという間でしたから >>


 視界の端で、アカリが確信に満ちた笑顔を浮かべていた。


 ◇


 完全に感覚を取り戻すまでには、丸五日がかかる。


 五日目の朝、俺は取っ手をへこませることなく寝室の扉を開け、歯ブラシを折らずに磨き、杯を割ることなく水を飲み干した。


 当たり前の動作を、当たり前の力加減で行える。それだけのことが、奇妙なほど嬉しい。


 その日の午後、俺は首に巻く布を背嚢の底に入れ、久しぶりにユメサキの街へと出かけた。


 ◇


 ゲンの店は、いつ訪れても変わらない空気が漂っていた。


 薄暗い店内の棚には、埃をかぶった弾薬箱と整備油の缶、それに色あせた帳面が積まれている。カウンターの奥で、白髪交じりのゲンがいつもの前掛け姿で帳面をめくっていた。


「しばらく顔を見ないと思ったら、生きてたか」


 帳面から視線を外さぬまま、ゲンが低い声を出した。


「少し体を休めてたんですよ」


「休んでた奴の顔じゃないな」


 ゲンはようやく顔を上げ、細めた目で俺の顔をじっと見据えた。いつもより数秒、長い沈黙だった。


「何か変わったか」


「何も変わってませんよ」


 俺は苦笑交じりに肩をすくめると、背嚢から布を取り出し、カウンターの木肌の上に置いた。


 落ち着いた灰青色の、しっとりとした手触りの柔らかな布だ。旧時代の、男物の首巻きだった。


「これ、ゲンさんに使ってほしくて」


 ゲンは布を一瞥した。


 すぐには手を伸ばさず、顎を引いてカウンターの上の布をしばらく無言で見下ろしていた。


「……どこで見つけた」


「遺跡で。たまたまです」


「そうか」


 ゲンはそれ以上、拾った場所も状況も追及してこなかった。この男に対して「たまたま」という言い訳が通用するのも、そろそろ限界かもしれないとは思いながら。


 ゲンが太い指先で布をそっと持ち上げた。生地の縁を親指の腹で確かめ、それから店の灯りにかざす。灯りに透かすと、継ぎ目一つない細かな織り目が見えた。


「新品だな」


「ええ」


「新品の旧時代の服なんぞ、坂の上の連中が目の色を変えて欲しがる代物だ。売ればいい値がつく」


「知ってますよ」


「知ってて、儂に寄越すのか」


「いつも世話になってますからね。たまにはいい物を身につけてください」


 ゲンは返事をせず、布を両手で広げた。


 不器用な手つきで首元に回し、一度、二度と重ねて巻くと、端を前掛けの襟元へと押しこむ。新品の布地が、薄汚れたゲンの首回りに驚くほど滑らかに収まった。


「似合わんだろう」


「いえ、案外似合ってますよ」


「嘘をつけ」


 ゲンはふんと短く鼻を鳴らしたが、巻いた布を外そうとはしなかった。


 ◇


「東へ行こうと思ってます」


 俺は切り出した。


 帳面をめくろうとしていたゲンの指先が、ぴたりと止まった。


「神戸遺跡に通うつもりです。家はこっちの壁際に置いたまま、車で行き来しようかと」


「毎日、神戸まで通う気か」


「毎日じゃありませんよ。今の車なら、行けない距離じゃないので」


 ゲンは手元の帳面を、音を立てて閉じた。


 店内に静寂が落ちる。表の通りを、誰かが笑い声を立てて通り過ぎていった。


「お前の親父とお袋がな」


 ゲンが押し殺したような低い声で言った。


「最後に出た合同任務の行き先は、神戸遺跡の奥だった」


 胸の奥を、冷たい鉄の棒で突かれたような気がした。


 どこかの合同任務に出て、それきり帰ってこなかった。俺が知っていたのは、それだけだ。十七年間、それ以上のことを知らなくても生きていくのには困らなかった。いや、足りていることにしていたのかもしれない。


「……知りませんでした」


「言わなかったからな、儂が」


 ゲンは首に巻いたばかりの布の端を、親指で弄んだ。


「言えば、お前は行っただろう。十五のガキが親の装備を引きずって、神戸の奥まで。あの頃のお前は、そういう顔をしてた」


 反論はできなかった。


 あの頃の自分なら、生き残る技術も装備もないまま親の足跡を追って突っ込み、帰ってこなかっただろう。


「あの任務から生きて戻ってきた奴が、何人かいる」


 ゲンは帳面の端に何かを走り書きすると、それを破り取ってカウンターに滑らせてきた。


 紙片には、名前と街の名前が一つずつ記されていた。


 トキワ。ミナトベ都市。


「ミナトベ都市。神戸遺跡のそばの、大きい都市ですよね」


「そうだ。そいつはお前の親父とお袋と同じ組で潜ってた。今もミナトベ都市でハンターを続けてるはずだ」


 ゲンが顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめた。


「お前の親父とお袋が、どうやって死んだのか。それを知ってるのは、そいつだ」


 俺は紙片を指でつまみ上げた。


 お世辞にも上手いとは言えない、ゲンの不格好な文字だった。


「会ってこい」


 ゲンはそれだけ言うと、再び顔を伏せ、閉じた帳面を開き直した。


「ありがとうございます、ゲンさん」


「礼を言われることじゃない。十七年、黙ってただけだ」


 店を出ようと背を向けたとき、背後から不意に声が飛んできた。


「アラタ」


 振り返る。


 ゲンは帳面に目を落としたまま言った。


「運が悪いのも腕のうちだ。忘れるな」


「ええ。忘れてませんよ」


 扉を押して外へ出ると、日はもう傾きはじめていて、冷たい風が頬を撫でた。


<< アラタさん >>


 いつの間にか、アカリが並んで歩いていた。


<< 大丈夫ですか? >>


<< うん >>


 大丈夫だった。たぶん。


 握りしめた紙片を見つめる。トキワ。ミナトベ都市。


 東へ行く理由は、すでにいくつもあった。新しい住民登録のカード。もっと上の素材。軍人の資格の試験。そして、567年前に何が起きたのかという答え。


 だが今、その道筋の先にもう一つ、決して避けては通れない理由が加わった。


 親父とお袋が最後に見たものを、この目で確かめに行く。


<< 明日、出よう。東へ向かうよ >>


<< はい。行きましょう、アラタさん >>


 傾いた夕日が、ユメサキを囲む防壁を赤く染め上げていた。その壁の向こう側、遥か東の空には、すでに夜の色が降りはじめていた。

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