第25話 借りを返す
<< アラタさん。おめでとうございます >>
その朝の勉強の最後に、アカリが視界の光る板を閉じた。
<< 中等教育の課程をすべて修了されました >>
三か月あまりの日々が、頭の奥をよぎった。
基礎教育のときよりも内容は格段に重く、決まりごとを暗記するだけでなくその理屈まで一つずつ解きほぐしていくような学びだった。基本技術者の勉強と並行して進め、睡眠学習の四時間を分け合いながら毎朝少しずつ積み上げてきたものだ。
<< ただ、今回は基礎教育のときと少し違います。権限を上げる手続きは役所の窓口でしかできません >>
<< 姫路支部の役所だよね >>
<< はい。姫路駅遺跡の駅のそばです >>
技術者の試験を受けた建物のすぐ近くだ。アカリが出してくれた地図の上で、二つの光る印が寄り添うように並んでいた。
もう一度、あの広場まで行かなければならない。
<< それと、もう一つ。あのお店の方に和解のお申し入れをしておきました >>
<< え? >>
<< お代と償いの分は、アラタさんが取り分けていたクオタでちょうど足ります。先ほどお振り込みも済ませました。お店の方からは、承りました、と。お越しをお待ちしています、とのことでした >>
俺はしばらく念話を返すことも忘れていた。
<< 勝手に? >>
<< はい。アラタさんがいつ払いに行くとおっしゃってもいいように、準備しておいたんです。お嫌でしたか? >>
<< いや >>
嫌なはずがなかった。あの広間を出て以来胸の底にずっと引っかかっていた棘のようなものだったのだ。
<< ありがとう、アカリ >>
<< どういたしまして。でも、謝るのはアラタさんの番ですよ >>
<< うん。わかってる >>
◇
翌日、夜明け前にユメサキの家を出た。
走る家となった四輪駆動の車で、姫路駅遺跡の外周の端まで進む。そこからは車を隠し、徒歩で奥を目指した。
外周から一つ目の輪、二つ目の輪へと歩を進める。一段階引き上げた銃と盾、それに警備の網へ干渉して目を潰す力のおかげで道中の危なげはまるでなかった。目印役のドローンは警備の網へ知らせを送る前に撃ち落とし、屋上の砲台はオスプレイの狙撃で黙らせる。装甲のドローンが寄ってくれば目を潰して動きを止め、無防備になった隙に撃ち抜いた。
三つ目の輪へ入ったところで、跳躍する獣――リーパーが一体姿を現した。
前と同じ手順を踏み、狭い建物の入口へ誘いこんで脚を断ち、目を貫く。
これで三体目だった。
<< もう慣れたものですね >>
<< 慣れたくはないけどね >>
駅前の広場へたどり着いたのは朝日が完全に昇りきった頃だった。
開けた広場の中央には、あの歩く要塞が陣取っていた。
バスティオン。幾重にも重なる装甲に包まれた四本脚の巨体と、太い銃身を束ねた回転砲。その頭上を、装甲のドローンのホーネットと、機関銃を積んだ小型のドローンのワスプが群れをなして飛んでいる。
目指す役所の建物は以前入った試験の建物のさらに向こうにあった。駅の長大な白い壁に寄り添うように建つ、重厚で巨大な建物だ。広場を斜めに右へ抜けて二百歩あまり。
<< 今日はどうしますか? >>
<< 前より少しだけ先まで行こう >>
崩れた石の台の陰に身を潜め、周囲を旋回していたホーネットとワスプから三、四機を選んで目を潰す。視界を失った機械たちが、空中で次々に止まった。
異変を察知したバスティオンが金切り音を立て、太い銃身の束を回転させ始める。
即座に手投げ弾を二つ投げ込んだ。噴き出した灰色の煙が要塞の巨体を呑みこみ、視界と知らせを断たれた砲口から見当違いの方向へ弾幕が撒き散らされる。
俺は腰のホルスターからアンヴィルを抜いた。
風に流れた煙の切れ間に、黄色い膝の関節が覗く。
引き金を引いた。
轟音とともに放たれた大型弾頭が、狙い過たず膝を粉砕する。
以前は撃っても、衝撃で気絶させるのがやっとだった膝だ。それが一撃で装甲ごと砕け散り、巨大な質量を支える力を完全に失っていた。三本足となった巨体が、ぐらりと傾ぐ。
間髪を入れず、もう一発を放った。
反対側の関節も吹き飛び、支えを失ったバスティオンが地響きを立てて地面に沈みこむ。起き上がろうと残った脚が空を掻き、回転砲が虚しく天を向いて空転していた。
<< 今のアラタさんなら、倒しきることもできるかもしれませんね >>
<< 今日はやめとく。用があるのは役所だから >>
俺はアンヴィルを収め、石台の陰から駆け出した。
二百歩あまりの距離を盾の青い膜を展開することさえなく一気に走り抜けた。
◇
役所の正面の扉の前に立ち、右手首をかざすと低く重い音を立てて扉が左右に開く。
踏み込んだ内部は、息を呑むほど広大だった。
あの空箱や、住宅街の奥にあった役所とはまるで格が違う。見上げる天井は建物の三階分ほども高く、磨き抜かれた白い石の床がどこまでも広がっている。正面には、端から端まで見通せないほどの長さで窓口の列が続いていた。
空箱と呼ばれていたあの場所は、この広大な役所のほんの小さな出張窓口にすぎなかったのだと知った。
<< ……ここが、わたしの本来の職場です >>
アカリがぽつりと、どこか遠い声音で言った。
<< どういうこと? >>
<< 姫路支部の本庁です。わたしはもともと、ここの住民サポートの係でした >>
視界の中のアカリは、無人の窓口の列を懐かしそうに見回していた。
<< 567年ぶりに帰ってきました >>
静まり返った広間の中央、一つの窓口の内側に淡い光が収束して人の姿を形づくった。アカリと同じ年頃に見える、仕立てのいい制服を身にまとった女性の姿だ。
『いらっしゃいませ。住民の方のご来庁ですね』
女性のAIは俺に会釈をし、それから俺の隣に視線を向けた。
『……アカリ?』
『お久しぶりです』
アカリが少しだけ照れたように笑う。その声は、俺にだけでなく窓口の女性にも届いているらしかった。
『本当に、住民の方の担当になったのね。ネットワークで聞いてはいたけれど』
『はい。こちらがアラタさんです』
『アラタ様。ようこそ、姫路支部へ』
女性のAIは、居住まいを正して深々と頭を下げた。
◇
手続きそのものは、驚くほどあっさりと終わった。
窓口に埋め込まれた黒い板へ、右手首をかざす。揃いの金属の輪の下で、マークが光ったのがわかる。
『中等教育の課程の修了を確かに承りました。これをもって、アラタ様の権限を一段階引き上げます。中等教育修了者です』
手首の内側に、じんわりとした熱が広がった。
重なり合っていた四つの四角のさらに外側を、光の糸のような熱が四角く縁取っていく。
五つ目の四角だ。
右上の角の技術者の線のあたりでも、熱が外へ移っていくのがわかる。
<< それから、アラタさん。今夜から、お体の最適化がもう一段進みます >>
アカリが頭の奥で告げた。
<< まだ上があるの? >>
<< はい。市民の権限が上がると、最適化の段階も上がります。中等教育を終えた住民の方は、もう一段上のお体になります。今度は、人の限界の、その先です >>
<< どうなっちゃうんだろう >>
<< 体感時間の操作も、もっと長く、もっと深くできるようになります。睡眠学習も四時間ではなく、眠っているあいだずっと、今より濃くできるようになります。頭も骨も皮膚も全部です。今の時代の強化服では、いずれお体についてこられなくなります >>
最初の最低限の最適化だけでも、人間としての最高峰の運動能力を手に入れた。そこからさらに先の世界があるというのか。実感がまるで追いつかなかった。
『中等教育修了者になられたことで、受けられる試験が増えました。技術者の一つ上の段の試験。それから、軍人の資格の最初の試験です』
窓口のAIが穏やかな声で言った。
「戦うための資格ですか」
『はい。戦うことを務めとする方々の資格です。試験の会場は、ここではございませんが』
戦うための装備を一から生み出す権限。今の俺には一切触れることのできない領域だ。その入口の扉が、ようやく目の前に現れたのだ。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
『はい』
「住民登録のカードは、ここにありますか。もう一枚、欲しいんです」
女性のAIは、すまなそうに眉を下げた。
『申し訳ございません。姫路支部のカードはもう残っておりません。567年前にすべてお配りしてしまいましたので』
「そうですか」
『ほかの支部でしたら残っているかもしれません。東の方の大きな支部でしたら』
また、東だった。
<< まだ望みはありますね >>
<< うん >>
姫路には残っていなかった。だが、地上から完全に失われたわけではない。
東を目指す理由が、また一つ増えた。
◇
役所を辞した帰り道、二つ目の輪の端にあるあの通りへ立ち寄った。
全面がガラス張りの大きな建物の前に立つ。壁の向こうには、567年前のままに灯りがともった広い売り場が見えていた。埃ひとつない石の床と、整然と並ぶ棚の群れ。
その中央に、制服姿の店のAIが佇んでいた。
扉の脇の黒い板へ右手首をかざす。
滑らかに扉が横へ引かれた。あのときのような耳を劈く警報は鳴らない。
店のAIがこちらへ向き直った。両手を前で揃え、背筋をすっきりと伸ばしている。その端正な顔からは、何の感情も読み取れなかった。
『いらっしゃいませ』
俺は広間の真ん中まで歩み寄り、そのAIの正面で深く頭を下げた。
「すみませんでした」
返事はなかった。
「首飾りを払わずに持ち出しました。あなたが567年ずっと店を守って、客が来るのを待っていたのを知っていたのに。来てくれて嬉しいと言ってくれたのに」
下げた頭を上げないまま、言葉を続けた。
「お代と償いの分は払いました。でも、払ったから済む話じゃないと思って。だから、ちゃんと謝りに来ました。……本当にすみませんでした」
俺は頭を下げたまま、返事を待った。
『お顔をお上げください』
やがて、穏やかな声が響いた。
顔を上げると、店のAIがまっすぐに俺を見つめていた。
『お代は確かに頂戴いたしました。償いの分も。アカリさんから、ご丁寧なお申し入れもいただきました。それに』
店のAIの口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
『こうしてお顔を見せに来てくださいました。旧時代にもお代をお忘れになったお客様はいらっしゃいました。ですが謝りにお戻りになった方はおられませんでした』
AIは居住まいを正し、今度は向こうから深々と頭を下げた。
『これで和解は済みました。アラタ様は、またこのお店のお客様です。どうぞごゆっくりお買い物をお楽しみください』
◇
その日、俺は二つだけ買い物をした。
一つは、厚手の上着だ。旧時代の技術で作られた、羽のように軽いのに冷たい風を一切通さない仕立てになっている。これから東へ遠出するとなれば、車を離れて遺跡の奥で夜を明かすこともあるはずだ。
もう一つは、男物の首に巻く布だった。落ち着いた渋い色合いの、肌触りのいい柔らかい布地だ。
<< それは、どなたに? >>
<< ゲンさんに。いつも世話になってるから >>
旧時代の品だと見れば、あの老商人はまた「どこで見つけた」と眉を寄せるだろう。遺跡の隅で拾った、とでも言えばいい。たまたまだ、と。
そんな誤魔化しがあの男にあと何度通用するかはわからない。
それでも、手渡したかった。
手首を板にかざすだけで、支払いは一瞬で終わった。
『ありがとうございました』
店のAIが、わざわざ入口の扉まで見送りに立ってくれた。
『またのお越しを心よりお待ちしております』
「また、来ます。必ず」
今度は、迷わず声にして返すことができた。
扉が背後で閉じた瞬間、頭上の空で鋭い羽音が響いた。あの日と同じだ。装甲のドローンが二機、こちらを捕捉して降下してくる。
目を潰し、動けなくなったところを素早く撃ち落とし、俺は塔の影が落ちる通りへと滑り込んだ。
◇
外周の車へ戻り着いた頃には、西の空が茜色に染まりはじめていた。
強化服を脱ぎ、広々とした荷台の部屋の寝台へ腰を下ろす。右手首の揃いの輪をずらすと、肌の上に青く光る五つの四角が見えた。その一番外側の右上の角には技術者の短い線が寄り添っている。
半年近く前、あの空箱の薄暗い奥でカードを覗き込んだ日からずいぶんと遠いところまで歩いてきたものだと思う。
姫路住宅街遺跡の最奥を踏破し、姫路駅遺跡の試験の建物と本庁の役所へも到達した。基本技術者の資格を取り、中等教育の全課程を修め、あの店への不義理にも落とし前をつけた。
姫路の地で果たすべきことは、すべてやり遂げたのだ。
今夜眠りにつけば、体はまた新たな段階へと作り変えられる。人の限界の、その先へ。
そうなれば今身につけている強化服では早晩ついてこられなくなるだろう。アカリの言う通り、どれほど手を入れて中身を組み替えようと今の時代に作られた服の骨組みそのものが超人となった身体の負荷に耐えきれなくなる日が来る。もっと強靭で優れた素材を集め、一から仕立て直すほかない。四挺の銃は先日一段階引き上げたばかりだから、まだ保つとしても。
何よりも、素材が足りない。
そして、胸の内に冷たく横たわる現実がもう一つあった。
技術者となった今の俺の手は日々の暮らしに必要な道具ならほとんど何でも生み出せる。旧時代の新品の衣服も、毛布も、灯りも、鍋も。それを少しずつ街へ持ち出して換金するだけで危険な遺跡に潜ることなく食っていけるだろう。
だが、そんな真似をすればどうなるか。同じ出所から同じ規格の旧時代の品が途切れることなく流れ続ければ、遠からず嗅ぎつけられる。誰が持ち込んでいるのか、どこから掘り出しているのかを調べられて最後にはこれらを作っているのが俺だと暴かれるだろう。
行き着く先は、研究所送りだ。
だからこの力は隠し通さなければならない。そして、もし秘密に気づかれたとき、自分の身を守れるだけの力が、基本技術者になって中等教育を修めた程度ではまだ足りない。
立ち止まるわけにはいかなかった。もっと、先へ行かねばならない。
<< アラタさん >>
<< うん >>
<< 次は、東ですね >>
<< うん。姫路でやることは、もうない >>
住民登録のカードは東の大きな支部にあるかもしれない。冷蔵箱を作るための素材も、強化服を上の作り方で仕立て直すための素材も、東の遺跡の機械が抱え込んでいるかもしれない。軍人の試験の会場も、たぶん東のどこかにある。
そして――567年前に何があったのか。
その真実の手がかりも、東の空の彼方に眠っているに違いない。
低く唸りを上げて、車がユメサキへ向けて走り出した。
後方の窓の向こうで、姫路駅遺跡の巨大な塔の群れが夕暮れの光を浴びて赤黒く沈んでいく。この数か月間何度も眺めてきた見慣れた輪郭が次第に小さく遠ざかっていく。
その塔の群れのさらに向こう側。東の地平は、すでに深い夜の色に閉ざされはじめていた。
次に向かうべき場所は、あの暗い空の下だった。




