第2話 アカリ
声が途切れると、部屋は元の静けさに戻った。
俺は右手首を押さえたまましばらく動けなかった。
今のは何だ。誰の声だ。すぐそばから聞こえた。だがこの部屋には俺しかいないはずだ。
落ち着け。遺跡の中だ。慌てた奴から死ぬ。
息を吐いて顔を上げる。
目の前に女が立っていた。
反射で銃を構えていた。引き金に指がかかる。
女は動かなかった。
二十歳を少し過ぎたくらいに見える。黒い髪を肩のあたりで切りそろえて、白いシャツに紺の上着を着ていた。皺ひとつない洗い立てのような服だ。強化服も着ていないし銃も持っていない。背嚢すら背負っていない。
何百年分もの埃が積もった部屋の真ん中に、そんな格好の女がにこにこと立っている。
おかしい。何もかもおかしい。
ここは遺跡の奥だ。装備なしで来られる場所じゃない。足跡もなかった。さっきまでこの部屋には誰もいなかった。
「誰ですか、あなた」
銃口を向けたまま俺は聞いた。
『はい。ご挨拶が遅れました』
女は両手を体の前でそろえて軽く頭を下げた。
『住民サポートAIのアカリです。日本地区・姫路支部を担当しています』
さっきと同じ声だった。女の口の動きとぴたりと合っている。目の前の女が喋っている。そうとしか聞こえない。
「人じゃないってことですか」
『はい。住民の皆さまには、お一人に一つずつサポートAIがお付きします。わたしはこれからあなたのサポートを担当させていただきます。本日は窓口の担当も兼ねております』
アカリと名乗った女はもう一度にっこり笑った。
『それでは住民登録の手続きを進めてまいりましょう』
「ちょっと待って。待ってください」
俺は銃を下ろさないまま片手を上げた。
「住民登録って何のことですか。何の住民に俺は登録されたんです?」
『旧……失礼しました。この地区の住民として、です。登録されると住民としての各種サービスをご利用いただけるようになります』
答えになっているような、なっていないような答えだった。
「本当にエーアイなんですか。人間にしか見えないんだけど」
『ありがとうございます』
「いや、褒めたつもりはないんですけど」
『そうでしたか』
アカリは少しも悪びれずに首をかしげた。
「そこに本当にいるんですか」
『いいえ。わたしは実在していません』
アカリは自分の胸に手を当てた。
『先ほどあなたが触れたカードを通して、あなたの視神経に直接アクセスし、視界の中に表示しています。声も同じです。今は耳の神経に音を入れています。ですからわたしの姿と声は、あなたにしか見えませんし聞こえません』
そう言うとアカリの体がすうっと透けた。
向こう側の壁がアカリの胸の向こうに見える。埃をかぶった箱型の機械も、その上の黒い画面も。アカリの輪郭だけが薄い光のようにそこに残っていた。
『このとおりです』
しばらくしてアカリの体はまた元の濃さに戻った。
俺はようやく銃を下ろした。
撃っても意味がない。それだけはわかった。
『では、改めまして』
アカリは何事もなかったように続けた。
『住民情報のご登録をお願いします。お名前、生年月日、ご職業などを――あ』
アカリの視線が俺の腰に下がった。
『情報端末をお持ちですね。そちらから読み取らせていただいてもよろしいですか。お時間の節約になります』
ハンター用の端末だ。手のひらに収まる板で、買い取りの記録や仕事の履歴や身分の証明がまとめて入っている。
「これのことわかるんですか」
『はい。この地区に来られる方は皆さん同じような物をお持ちですので』
この地区に来られる方。ハンターのことだ。
俺は少し迷ってから端末を取り出した。
『手首の印に端末をかざしてください』
言われたとおり右手首の内側に端末を近づける。四角が三つ重なったマークが一度だけ強く光った。端末の画面が勝手に何度か切り替わる。
『読み取りました。同期を完了します』
アカリは目を閉じてすぐに開いた。
『お名前、アラタさん。三十二歳。ご職業、ハンター。ユメサキにお住まいで、十五歳のときからこのお仕事を続けておられる』
端末に入っている情報だ。それでも初めて会った相手に自分の来歴を読み上げられるのは、妙な気分だった。
『以上で住民登録が完了しました』
アカリは背筋を伸ばして頭を下げた。
『アラタさん。住民登録、ありがとうございます』
◇
「あの」
頭を下げたままのアカリに俺は声をかけた。
「さっき567年って言いましたよね。あれはどういう意味なんですか」
『はい。最後の住民登録から567年が経過しています』
さっきと一字一句同じ答えだった。
「それは聞きました。そうじゃなくて」
俺は言葉を探した。
「567年前っていうと、だいたい超文明が滅びた頃ですよね。人がいなくなった頃だ。それと関係があるんですか。何があったんです?」
『申し訳ありません』
アカリの表情は少しも変わらなかった。
『そのご質問には現在の権限ではお答えできません』
「どういう意味ですか」
『アラタさんの現在の権限は一般市民です』
一般市民。旧時代の、ということだろうか。わからないことが答えを聞くたびに増えていく。
そのとき廊下の奥で何かが軋む音がした。
俺は反射的に灯りをそちらに向けた。何もいない。建物が鳴っただけだ。
それでも頭が冷えた。
ここは遺跡の奥だ。わけのわからない話をのんびり聞いていていい場所じゃない。日はまだ高いが、帰り道には警備機械がうろついている。
「一度引き上げます」
『かしこまりました』
「話は歩きながらでもできますか」
『はい。どちらにいらしても、わたしはアラタさんと一緒です』
「一緒って、ついてくるってこと? これからずっと?」
『はい。これからアラタさんの生活をサポートさせていただきます』
アカリは当たり前のことのように言った。
俺は何も言い返せなかった。
◇
外していた手甲を着け直して瓦礫の隙間をくぐる。表の窓口に戻り、空箱を出る。
外の光がまぶしかった。
アカリは俺の少し後ろをついてきていた。草の生えた道を歩いているのに足音がしない。草も揺れない。それを見るたびに、こいつは本当にいないのだと思い知らされる。
帰り道は来た道を逆にたどる。行きに見張りのドローン、スニッチを落とした四つ角を、今度は大回りに避ける。警報で呼ばれた機械がまだそのあたりをうろついているかもしれない。
しばらくは周りに気を配るので精一杯だった。アカリも話しかけてはこなかった。遺跡の中では黙っていてくれるらしい。
浅いところまで戻ってようやく少し肩の力が抜けた。
「ねえ、アカリ」
『はい』
「アカリは何ができるの? 生活のサポートって言ってたけど」
『はい。現在の権限でご利用いただけるのは主に二つです』
アカリは歩きながら指を一本立てた。
『一つは身体能力の最適化です。現在の権限では低い段階のものになりますが、アラタさんのお体を最適な状態に整えることができます』
思わず自分の手を見下ろした。
『もう一つは物の作成と改造です。素材をご用意いただければ、配分されたクオタを使って物を作ったり手を加えたりできます。この地区の住民が使っていた物も権限の範囲でお作りできます』
クオタ。また知らない言葉だ。
物を作るというのはわかる。素材があれば作れる。旧時代の人間が使っていた物を。
俺は思わず足を止めた。
「旧時代の物を作れるの?」
『権限の範囲で、になりますが』
「戦いの手伝いは? 機械を倒すのに何か使えたりする?」
『戦闘のサポートは一般市民の権限ではご利用いただけません』
アカリは申し訳なさそうな顔ひとつせずに言った。
『ただ、作れる物の中にはアラタさんのお仕事のお役に立つ物もあると思います』
俺はまた歩き出した。
頭の中でさっきの勘定がもう一度動き出していた。弾代。シールドセル。強化服の修理代。俺が毎回ゲンの店に置いてくる金。
もしその一部でも自分で作れたら。
車庫の陰に隠しておいたバイクは来たときのままそこにあった。
◇
ユメサキに戻ったのは日が傾きはじめた頃だった。
部屋に寄らずにそのままゲンの店に向かう。背嚢の中身は早いうちに金に換えておくに限る。
『ここが、ユメサキですか』
バイクを停めると、アカリが通りを見回していた。物珍しそうに、行き交う人や軒先の看板や道ばたの露店を、一つずつ目で追っている。
俺は返事をしなかった。人の多い通りで何もない所に話しかけている男にはなりたくない。
店の戸を開けるとゲンが奥から顔を上げた。
「おう。早かったな」
「いい当たりがあったんですよ」
カウンターに背嚢の中身を並べていく。サーベイヤーという逃げ足の速い装甲の球から抜いた、中枢の容れ物。剥がれた装甲板。スニッチのセンサー。墜としたドローンの部品。
ゲンは中枢の容れ物を手に取って灯りにかざした。ひっくり返して継ぎ目を一つずつ確かめる。
「傷ひとつないな」
「交信の隙を待って駆動軸を抜きました」
「見張りは」
「先に落としました。ただ、落ちる前に一回だけ鳴かれちゃって。呼ばれたドローンにシールドを削られて、セルを一本使いました」
「一本で済んだなら上等だ」
ゲンは帳面を開いて品物を一つずつ書きつけていった。最後に算盤のような古い計算機を弾いて数字を見せてくる。
悪くない。セル一本と今日の弾代を差し引いても十分に黒字だ。
「腕は落ちてないな」
「まだ三十二ですよ」
「もう三十二だろう」
ゲンは笑いながら代金を俺の端末に振りこもうとした。
そのときだった。
『アラタさん』
カウンターの横、ゲンのすぐ隣に、いつの間にかアカリが立っていた。棚に並んだ品を端から端まで眺めている。
『こちらで素材を買っていただけますか。金属部品と合成樹脂。高性能スチール。軟質ゴム。それから産業用のバッテリーを一つ』
思わずアカリの方を見そうになった。
こらえた。ゲンの目の前だ。ゲンにはアカリの姿も声も届いていない。
『あとは化学薬品も少し。それから――』
アカリは棚の品を指さしながら次々と名前を挙げていく。どれも俺が普段は買わない物ばかりだ。弾でも薬でもセルでもない。修理屋か作業場の人間が買うような物だ。
俺はその手を軽く止めた。
「ゲンさん。ついでに買いたい物があるんですけど」
「何だ」
「金属部品と、合成樹脂と……」
アカリの言うとおりに品の名前を並べていく。
ゲンの手が一度止まった。
帳面から目を上げて俺の顔をじっと見る。それからカウンターに並んだ戦利品に目を落として、また俺の顔を見た。
何か言われるかと思った。
ゲンは何も言わない。黙って立ち上がり、奥の棚から品を下ろしはじめた。
カウンターに金属の塊や樹脂の板やゴムの束が積み上がっていく。最後に両手で抱えるほどの産業用バッテリーが、どすんと置かれた。
ゲンが計算機を弾く。
見せられた数字に少しだけ目の前が暗くなった。
さっきの黒字がほとんど消えていた。
「これで全部です」
「毎度」
ゲンはそれだけ言って、差し引きの残りを俺の端末に振りこんだ。ほんのわずかな額だった。
品を背嚢に詰め、入りきらない分はバイクの荷台にくくりつける。店を出るとき背中にゲンの視線を感じる。
振り返らなかった。
◇
店から少し離れて人通りが途切れたところで、俺はバイクを押しながら口を開いた。
「ちょっと」
小声で言う。
『はい』
アカリは荷台のバッテリーの横を歩いていた。
「さっきの買い物、何だったの? 何の意味があるのさ。今日の稼ぎがほとんど飛んだよ」
『あれはこれから作る物の素材になります』
「何を作るの?」
『それはできてからのお楽しみです。アラタさんのお役に立つ便利な物ですよ』
アカリは楽しそうに笑った。
◇
部屋に戻ると荷物を床に下ろすだけで、狭い部屋がさらに狭くなった。
金属部品の箱。樹脂の板。ゴムの束。高性能スチールの棒。化学薬品の瓶。そして両手で抱えるほどの産業用バッテリー。寝台と小さな卓と装備を掛ける壁の金具くらいしか目に入らない狭い部屋に、それらがごろごろと転がっている。
『ここが、アラタさんのお住まいですね』
アカリは部屋の真ん中に立ってぐるりと見回していた。壁の染みも寝台の薄い毛布も、窓辺に置いた紅茶もどきの袋も、一つずつ珍しそうに眺めている。
「狭いでしょ」
『人が実際に暮らしている部屋を見るのは初めてです』
アカリは少しだけ嬉しそうに言った。
俺は強化服を脱いで壁に掛け、寝台に腰を下ろした。一日分の疲れがどっと肩にのしかかってくる。
「それで。お楽しみって、何なの?」
『その前にまずは念話を覚えましょう』
何だそれはと聞き返そうとしたときだった。
<< こういうことです >>
声が頭の中に響いた。
思わず腰が浮いた。
耳で聞く声とはまるで違う。外から入ってくるのではない。考えごとをしているときの自分の頭の中の声と同じ場所に、自分のものではない言葉がすっと置かれる。
アカリの口は少しも動いていなかった。
「今の何?」
『アラタさんの脳に直接信号を送りました。これまでは耳の神経に音として入れていましたが、今のは耳を通していません』
アカリは自分のこめかみを指でとんとんと叩いた。
『アラタさんからも同じようにできます。声に出さずに、わたしに伝えたい言葉を思い浮かべてみてください。わたしに話しかけるつもりで』
言われたとおりアカリの顔を見て、頭の中で言葉を思い浮かべる。
<< 聞こえる? >>
<< はい、聞こえています >>
拍子抜けするほどあっさりできた。
声に出していないのに言葉が向こうに届いて、向こうの言葉がこちらに届く。何度かやり取りを繰り返すうちに、それが当たり前のことのように思えてきた。
<< 人のいるところではこれで話しましょう。銃声や大きな音がしても、はっきりお話しできます >>
<< ゲンさんの店で空中に話しかける変な男にならずに済むわけだ >>
<< はい。そういうことです >>
アカリは少しいたずらっぽく笑った。
人のいない所なら口で話しても構わないらしい。ただ、ひとりの部屋でも俺はなんとなく念話の方を使っていた。こっちの方が楽だった。
<< では、アラタさん >>
アカリが床に積まれた素材の山に目を向けた。
<< お待たせしました。お楽しみの時間です >>




