第19話 決意を新たに
首飾りを盗んだ翌朝、目を覚ましても気分は晴れなかった。
体はもう元どおりだった。昨日あれだけ砲撃の中を逃げ回ったのに、最適化された体には一晩眠れば疲れ一つ残っていない。残っていたのは、別のものだった。
あの店のAIの声だ。
『ですから、今日はとても嬉しいのです。お客様がいらしてくださいましたから』
567年ものあいだ、誰も来ない店を毎日整えてきたAI。久しぶりに訪れた客を、あんなに喜んで迎えてくれたのだ。その客が首飾りを持って逃げた。
『お会計のお済みでない品物がございます』
あのときの声の温度を思い出す。
寝台の上で、俺は長いこと天井を見つめていた。
<< おはようございます、アラタさん >>
<< ……おはよう >>
<< お元気がありませんね >>
<< うん。ちょっとね >>
アカリはそれ以上は聞いてこなかった。聞かれたくないことは聞いてこない。それがアカリだった。
だから、俺の方から切り出した。
<< ねえ、アカリ。あの店、もう行けないよね >>
<< はい。今行かれたら、お店の方はすぐに駅の警備に知らせると思います。アラタさんは、品物を持ち出したお客様として記録されていますから >>
<< だよね >>
わかっていたことだった。
一着で中枢三つ分もする服が、何百着も並んでいる店だ。クオタさえ貯めれば、少しずつでもまっとうに買い続けられたはずだった。その店に、俺は自分で二度と入れなくしてしまったのだ。首飾り一つと引き換えに。
<< もう一度入れるようになる方法って、ある? >>
<< あります >>
アカリは声を明るくした。
<< 持ち出した品物のお代と、それから償いの分をお店にお支払いすれば、和解できます。そうすれば、またお客様としてお店に入れるようになります >>
<< 何で払うの? >>
<< クオタで、です >>
<< いくらくらい? >>
アカリが伝えてきた数字に、俺は思わず目を閉じた。首飾りの値札にあった額に、償いの分が上乗せされている。毎日配られるクオタを、弾にもシールドセルにも使わずに全部貯めこんでも、何か月もかかる量だった。
<< すぐには無理だね >>
<< はい。すぐには難しいと思います >>
払えないわけではない。いつかは払える。ただ、それは今ではない。
<< いつか払うよ。ちゃんと謝りに行く >>
<< はい。お店の方もきっと待っていてくださると思います >>
567年も待ち続けたAIだ。もう少しくらいなら、待ってくれるかもしれない。
◇
朝の勉強を終えてから、居間の卓の上に姫路駅遺跡の地図を広げた。
<< これからのことなんだけど >>
<< はい >>
<< しばらく建物の中には入らないことにする。機械を狩って、部品を売って稼ぐ。それに戻る >>
店の中の稼ぎは大きかった。だが、店には店を守るAIがいる。持ち主がいる品物は、代金を払わなければ持ち出せない。払えないなら盗むしかなく、盗めば昨日のような目に遭う。
機械を狩るのは違う。警備機械は、アカリたちの解釈では持ち主のいない物だ。壊して部品を持ち帰っても、誰にも追われない。駅のAIは怒るだろうが、それはいつものことだった。
<< はい。それがいいと思います >>
<< それと、もう一つ >>
俺は地図の奥を指さした。二つ目の輪のさらに奥、まだ空白の多い場所だ。その奥に二つの印がある。技術者の試験を受ける建物と、姫路支部の役所だ。
<< 真面目に勉強する。中等教育を終わらせる。それと、技術者の勉強も >>
<< 両方一度にですか? >>
<< うん。試験を受けるなら、中身を知らないと受からないでしょ。中等教育とどっちも進めたい >>
アカリは少し考えるような気配を見せた。
<< 睡眠学習は、今の頭では一日四時間までです。その四時間を中等教育と技術者の勉強に分けることになります。朝の勉強もその分長くなりますよ >>
<< いいよ。遺跡の日も休みの日も、勉強はする >>
<< では、わたしの方で二つを組み合わせた勉強の順番を考えますね >>
◇
<< ねえ、アカリ。技術者になったら何ができるようになるんだっけ >>
<< たくさんあります >>
アカリは指を折って数えはじめた。
<< まずは警備の網に入って、機械を止めたり、目を潰したりできます。それから、作れる物がぐっと増えます。今は今ある物を改造するだけですが、技術者になれば、もっと手のこんだ物を素材から組み上げられるようになります >>
<< 装備も? >>
<< はい。強化服も盾も、今よりずっと良い物が作れます。それから >>
アカリは居間を見回した。
<< このお家です >>
<< この家に何か付くの? >>
<< はい。ジェネレーターと水の仕組みを組みこめるようになります。お風呂も壁の中の管も、旧時代の基準に作り直せます。車の中にも組みこめます >>
俺も居間を見回した。広い家だ。前の部屋とは比べものにならない。だが、家の設備はまだ今の時代の水準のままだった。電気は街から引いているし、水も街の管から来る。風呂は狭くて湯の出が悪い。住宅街の奥の家から持ち帰ったジェネレーターと水の仕組みは、背嚢の中で眠ったままだ。
<< 技術者になれば、あれが使えるんだ >>
<< はい。旧時代の暮らしにもう一歩近づけます >>
あの店の上の階にあった、子供服の売り場や毛布の売り場を思い出した。旧時代の人たちが当たり前に暮らしていた、あの暮らし。その一歩手前まで手が届くのだ。
<< なら、目標は決まりだね >>
俺は地図の上、試験の建物の印に指を置いた。
<< 中等教育を終わらせる。技術者の勉強を終わらせる。それから、ここまで行って試験に受かる >>
外周から一つ目の輪、二つ目の輪へと指を滑らせる。その先の空白を抜けて、目的の印まで。
<< そのために、ここまでの道を突破できるようになる >>
<< はい。三つとも揃える必要があります >>
<< うん。全部やる >>
勉強と腕と道のり。どれか一つが欠けても、試験の建物にはたどり着けないし、たどり着いたところで受からない。一つずつ片付けていくしかなかった。
◇
その日の午後、トレーニングの部屋で旧時代の器具に向き合った。
重い。歯を食いしばって押す。押しきる。
この一か月で体はまた少し強くなっていた。器具の負荷を二段上げられるようになっている。アカリの言ったとおりだった。最適化は整えるところまでで、そこから先は鍛えれば伸びる。
汗を拭いて裏庭に出た。
盾を広げる。消す。広げる。ナイフの刃を伸ばす。縮める。伸ばす。杭に立てかけた金属の棒を、踏みこんで一閃した。
次にあの塔の群れの奥へ行くとき、俺は跳ぶ獣と向き合うことになる。四本脚で塔から塔へ跳び渡っていた、あのリーパーだ。
あいつを越えなければ、試験の建物には届かない。
裏庭の杭の影が、西日を受けて長く伸びていた。
◇
技術者の勉強を始めて、最初に習ったのは警備の網の仕組みだった。
旧時代の地区の警備機械は、一台一台が勝手に動いているわけではない。地区の警備の網で繋がっていて、見たもの、聞いたものを網の中で分け合っている。見張りの機械が何かを見つければ、その知らせが網を伝って近くの機械に届く。届いた機械は知らせの中身に応じて動く。
光る板の上に網の図が描かれていた。いくつもの点と、それを結ぶ細い線。点の一つが光ると、その光が線を伝って隣の点へ、また隣の点へと広がっていく。
<< これ、目印役と砲撃のやつだ >>
<< はい。同じ仕組みです >>
目印役のスポッターが俺の足元に細い光を当てる。その光の位置が網を伝って遠くの砲撃の機械に届く。だから、どこにいるのかもわからない機械が、正確に俺の足元を撃ってこられるのだ。
<< じゃあ、目印役が知らせを送る前に落とせば >>
<< 砲撃は来ません。それから、目印役は知らせを送る前に、一度、狙う相手に光を合わせ直す癖があります。網に送る中身を確かめるためです >>
思い返してみれば確かにそうだった。あの細い光は一度俺の足元を撫でて、少しだけ止まって、それから空が鳴った。あの一瞬の止まりが、知らせを送る前の確かめだったのだ。
◇
三日後、二つ目の輪でそれを試した。
塔の陰の狭い道を抜けて、広い通りの手前で空を窺う。目印役のドローンが一機、こちらへ向かって飛んでくるのが見えた。
まだ撃たない。
細い光が俺の足元を撫でた。そして、少しだけ止まる。
今だ。
狙撃銃のオスプレイで撃ち抜く。目印役は光を止めたまま、空から落ちていった。
空は鳴らなかった。遠くからの砲撃はどこからも飛んでこない。
<< 知らせは送られる前に止まりました >>
<< うん。勉強って役に立つんだね >>
<< はい。わたしは最初からそう申し上げていますよ >>
その日はいつもよりずっと楽に二つ目の輪の機械を狩れた。目印役を知らせの前に落とす。砲撃を呼ばせなければ、屋上の砲台も装甲のドローンも火を噴くドローンも、落ち着いて一つずつ相手にできる。一つずつなら、今の俺の敵じゃない。
部品をナイフで外して背嚢に詰める。
帰り道、塔の陰の道を縫っていくと、ふと見覚えのある通りに出た。
あの店の前の通りだ。
俺は足を止めた。
店の扉は閉じている。一面のガラスの壁の向こうに、灯りのともった広間が見える。磨かれた石の床。その両側に整然と並んだ売り場。
その真ん中に、店のAIが立っていた。
両手を体の前でそろえて、背筋を伸ばして。誰も来ない広間で、今日も客を待っている。
俺に気づいていないのか、気づいていてこちらを見ないのか。ガラス越しではわからなかった。
中には入れない。入れば店のAIは駅の警備に知らせる。それがあのAIの務めだ。
俺はガラスの外から小さく頭を下げた。
必ず払いに来ます。
声には出さなかった。念話でもない。届くはずのない言葉だった。
<< アラタさん >>
<< 行こう >>
店に背を向けて、塔の陰の道に戻る。
盗んだ首飾りの代金は、端末の口座の数字に紛れてしまって、もう見分けがつかない。
あの店への借りだけが、胸に残っている。
いつかちゃんと返しに行く。
そのためにも、まずは強くならなければならなかった。




