不慮
久美の持論は無根拠で強引な、ゴリ押し論でしかない。
それでも、明るくて賑やかな場所へ出られなくなるまで追い詰められた美紀の心を一瞬でほぐすには、充分な頼もしさだった。
『朝はあーしが迎えに行く。ガッコー着いてからもなるべく一緒に居たげるし。ど?』
「……うん」
久美の言う通りではある。いつまでも部屋に閉じこもってはいられない。
いつか財布を落とした子とその取り巻きが『困ってるのに無視された』等と被害者面を続けるせいで他の女子からも一瞬で仲間外れにされてしまった美紀に、変わらない距離感で接し続けてきたのも久美だった。
また、あの声を聴くかもしれないけど。
悪いことが起きても、一人じゃないだけマシ、って思えるようにはなるかも。
「……分かった、ちょっとだけ外、出てみる。ありがと、久美」
『いいってぇ。も~ホントあんたはあーしがいないとダメなんだから』
「あんたは私の親か何かかい」
子供の世話をする母親めいた口調は、美紀の口元を二度綻ばせた。
爆笑までいかない、吐息程度の可笑しさが零れるだけでも、凝り固まった思考は柔らかくなることを美紀は知ることができた。
* * *
「もしもし。ああ久美? おはよぉ」
休日を挟んで、新しい週がまた始まる。
片手がスマホで塞がっているが、美紀は構わず支度を再開した。
久美と登下校するようになってから半月。
自宅学習に切り替えた際に全て持ち帰った教材も、今は教室の机の中という定位置に元通り収まっている。
置き勉という文化をまだ知らなかった入学したての頃を思い出す、ずしりと肩に掛かる重みに苦労した再登校の日が、今や懐かしい。
「……うん、大丈夫。あれから全然聞こえなくなってさ。やっぱり幻聴だったのかな」
例の『声』のことを聞かれた美紀の声が、神妙に小さくなる。
頻繁に脅かされていた筈なのに、あの声は、ある日を境にぱたりと美紀の傍で囁かれなくなった。
同時に、声を合図に起こっていた細やかなアクシデントも起こらなくなった。
間が空いての不意打ちを偶に食らっていた美紀は、平和が続いている事実すら受け入れられなくて暫くは警戒を解けなかった。
しかし、五日十日とじりじり開いていくことで、段々と恐れは薄れていった。
美紀が己の記憶を遡って辿り着く『転機』といえば、久美が電話を掛けてきたあの日。
彼女の前向きパワーが悪いものを追い払ったのかもしれない。
或いは、ただの偶然なのかもしれない。それとも、いちいち気にしまくっていたせいで神経が過敏になっていただけかも。
理由も分からないうちに聞こえなくなったそれについて、美紀が出せる結論といえばその辺りが限界だった。
詳細なんて別に知りたくなかった。しつこく調べれば、また味わいたくない出来事が戻ってきそうな予感もしたから。
「今どこら辺? ……何だ、もう近くまで来てんだ」
姿見の前で身なりの最終チェックをしてから、美紀は自室を出た。
「りょーかい。今これから外出るし」
通話を繋げたままぱたぱたと廊下を走り、階段に差し掛かる。
するり。
と、靴下が床を滑って――。
「あっ」




