再度
「あっ」
反射的に、足が止まる。
何ともなく振り向いた美紀の隣には、もちろん誰もいなかった。
自販機からカフェラテの缶を取り出して、プルタブに指を引っ掛けながら歩き出した矢先のことだった。
男とも女ともとれる声だった。
一文字分だけだと子供か大人かまでは分からないが、どちらだったとしても今周辺に人の気配はない。
強いて当たりを付けるなら、豆粒に見える程遠方を歩く人影二つが漏らした可能性くらいだが。
――でも。
聞こえるわけないよ。あんな遠くで『あっ』て言われたって。
かきり、と開けたプルタブの穴を口に付けて、美紀はカフェラテを一口あおった。
イヤフォンが原因の耳の不調ってやつかな。そんな細やかなひらめきを採用して、気にしないことにすべくカフェラテの味へと気を散らす。
そんな矢先。
ぶびびぃ。
と、そこそこデカめな虫の羽音が頭上から迫り来た。
「――うぎゃ!」
猿みたいな悲鳴を上げた美紀の手から、缶がするりと滑り落ちる。
手の甲にとまった虫に驚いたせいか、空いた左手でそれを叩き払った衝撃からか、原因など彼女からすりゃどっちでも良かった。
かこん、びしゃ。
と、アスファルトの固さに負けてひしゃげた缶が、カフェラテをぶちまけながら美紀の足元に転がった。
次いでその横に、焦げ茶色の平べったい昆虫も弾き落とされる。
ひっくり返って足をわきわき動かしているそいつのフォルムは、見紛う事なきゴキブリであった。
「なんっ、キモ、何でいるの、も゛ー!」
手の甲を這われた感触を上書きするように、美紀は利き手を服で擦り拭く。
どこぞのご家庭から飛び逃げてきた個体かもしれない。成虫よりは小さなサイズ且つ大分弱っていたという点は、美紀にとっては幸運といえるだろう。
……とはいえそれも、それを『幸運だ』と思える余裕が彼女にあれば、の話である。
「何でわざわざ手にとまるの、ったく……」
コーヒーひと缶も気軽には買えなくなってきたこのご時世。
ほんの一口分を味わう為だけに小銭を支払ったわけではない。美紀にとっては不幸以外の何物でもないアクシデントだった。




