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【悲報】吾輩、九州産のポンコツ栗毛に転生するも、心臓がバケモノすぎてバテるという概念が存在しない  作者: 猫の造形美
九州産馬キリシマノカゼ

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9/13

第7話 天皇賞(春)

4月最終日曜日。


京都競馬場。


伝統の長距離G1天皇賞・春の当日。


朝からの予報通り、京都盆地には低い雨雲が立ち込め、大粒の雨が芝コースを濡らし始めていた。


発走時刻の15時40分。


馬場状態は重まで悪化。


スピードと瞬発力を最大の武器とする、ノーザンファーム生産の有力馬たちの陣営からは、一様に苦渋の表情が漏れていた。


軽い芝でこそ生きる彼らの鋭いキレ味は、このぬかるんだ泥によって完全に削ぎ落とされるからだ。


しかし、京都競馬場の装鞍所にいた向井要と拓也は、静かにキリシマノカゼの蹄を見つめていた。


霧島の火山灰の混ざる硬い砂の上で、自らの意志でバランスを取りながら走り込んできた黒く分厚い蹄。


そして、どれだけタフな条件でも肩で息をしない野生の肺。


カゼ、お前のための舞台が整ったぞ。


少し離れた場所で、源次郎もまた、雨に打たれるパドックをじっと見つめていた。


ここまでの道のりを、誰よりも近くで見てきた男の目だ。


出走馬は18頭。


キリシマノカゼの単勝オッズは15.2倍の5番人気まで上がっていた。


阪神大賞典を首差で逃げ切った実績に加え、この激しい雨が重馬場が得意という彼女の過去のデータを競馬ファンに思い出させたためだ。


パドックに竹豊が現れ、キリシマノカゼに跨る。


レジェンドの目は冷徹だ。


「今日は、逃げます」


竹は短く告げると、雨のなか、キリシマノカゼを京都のターフへと誘導した。


ファンファーレが鳴り響き、地を這うような大歓声のなか、3200メートルのゲートが開いた。


竹はキリシマノカゼを迷わず先頭へ押し出した。


1周目のスタンド前を通過する。


雨が芝を叩き、後方の馬たちが跳ね上げる泥水を気にする必要もなく、彼女は先頭で最も綺麗な進路を選び続けていた。


前半の1600メートル通過ラップは1分41秒2。


重馬場としては非常に厳しいハイペースだった。


普段のレースなら、これだけ突っ張れば、後半に脚を溜めていた瞬発力組に必ず捕まる。


しかしこの日は違った。


2周目の向こう正面。


京都名物の3コーナーの坂を迎える。


ここで、後方に構えていたはずの有力馬たちの手が、次々と激しく動き始めた。


雨と泥が、彼らの脚を根こそぎ奪っていく。


瞬発力を武器にする馬ほど、この馬場では自分の脚を信じて溜めた分だけ、動けなくなっていた。


「誰も、上がってこない」


竹は手綱を通じて伝わる背後の気配の薄さに、静かな確信を得ていた。


最後の直線、残り400メートル。


泥に足を取られたエリートたちが、次々と失速していく。


いつもならここで襲いかかってくるはずの瞬発力が、この日はどこからも来なかった。


残り200メートル。


竹豊の鞭が、キリシマノカゼの臀部に軽く入れられた。


念のための一打。


キリシマノカゼは加速したわけではなかった。


ただ、いつもと同じ12秒2のイーブンペースを、最後の1歩まで淡々と刻み続けた。


それだけで、十分すぎた。


残り50メートル。


2着に1馬身半の差をつけ、キリシマノカゼがトップでゴール板を駆け抜けた。


勝ち時計は3分18秒5。


雨の重馬場にふさわしい、泥臭く、極めてタフな決着時計。


「……勝った。本当に勝ちおった」


スタンドの最前列で、源次郎は雨に濡れるのも構わず、手元の出走表を握りしめて静かに涙を流していた。


これまで、幾頭の馬を見送ってきただろうか。


期待して迎え入れながら、一度も勝てないまま静かに繋養先を変えた馬。


故障で、まだ若いうちに競走馬人生を終えた馬。


走る場所を探し続けても見つからなかった馬。


中央競馬という世界の隅で、光を浴びることなく去っていった、いくつもの顔が、雨に煙るゴール板の向こうに重なって見えた。


華やかな勝利の裏側で、その何倍もの馬たちが、静かにこの世界から姿を消していく。


それが、零細馬主として長年見てきた現実だった。


隣で拓也が声を上げて泣いていた。


少し離れた場所で、向井だけが黙って腕を組み、雨に煙るゴール板を見つめていた。


中央の巨大資本が何十億円を投じても手に入らない、春の盾。


それを、鹿児島・霧島の小さな牧場で生まれた九州産馬が、自らの蹄と心臓だけで掴み取ったのだ。


検量室前に戻ってきたキリシマノカゼは、全身泥まみれになりながらも、やはりいつものようにケロリとした顔で、竹の愛撫に応えていた。


下馬した竹は、向井の手を強く握り締め、満面の笑みを浮かべた。


向井は珍しく口元を緩め、小さく頷いた。


泥にまみれたキリシマノカゼは、何事もなかったかのように耳を動かし、竹の手に鼻先を寄せる。


その姿は、まるで「走ることなど当たり前だ」とでも言いたげだった。


やがて、京都競馬場の電光掲示板に結果が映し出される。


1着 キリシマノカゼ


その六文字が灯った瞬間、スタンドを埋め尽くした数万人が、どよめきと拍手に包まれた。


鹿児島・霧島の小さな牧場で生まれた九州産馬。


大手牧場のエリートでもなければ、何億円もの値が付く良血でもない。


火山灰の混じる大地を駆け、鍛え上げた蹄と心臓だけを武器に、この国で最も過酷な三二〇〇メートルを走り切った。


その日、春の盾は初めて、九州へ渡った。


翌朝、全国のスポーツ紙は一斉に一頭の栗毛を一面に載せた。


「霧島の奇跡」


「九州産馬、天皇賞・春制覇」


「無名の牧場から、日本一へ」


見出しは違っても、伝えていることは一つだった。


――競馬に、不可能はない。


厩舎に戻ったキリシマノカゼは、そんな騒がしさなど気にも留めず、いつも通り黙々と飼い葉を食んでいた。


何が変わったわけでもない。


ただ、いつも通りの走りをしただけ。


それが、たまたまこの日、誰にも追いつかれなかった。

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