第7話 天皇賞(春)
4月最終日曜日。
京都競馬場。
伝統の長距離G1天皇賞・春の当日。
朝からの予報通り、京都盆地には低い雨雲が立ち込め、大粒の雨が芝コースを濡らし始めていた。
発走時刻の15時40分。
馬場状態は重まで悪化。
スピードと瞬発力を最大の武器とする、ノーザンファーム生産の有力馬たちの陣営からは、一様に苦渋の表情が漏れていた。
軽い芝でこそ生きる彼らの鋭いキレ味は、このぬかるんだ泥によって完全に削ぎ落とされるからだ。
しかし、京都競馬場の装鞍所にいた向井要と拓也は、静かにキリシマノカゼの蹄を見つめていた。
霧島の火山灰の混ざる硬い砂の上で、自らの意志でバランスを取りながら走り込んできた黒く分厚い蹄。
そして、どれだけタフな条件でも肩で息をしない野生の肺。
カゼ、お前のための舞台が整ったぞ。
少し離れた場所で、源次郎もまた、雨に打たれるパドックをじっと見つめていた。
ここまでの道のりを、誰よりも近くで見てきた男の目だ。
出走馬は18頭。
キリシマノカゼの単勝オッズは15.2倍の5番人気まで上がっていた。
阪神大賞典を首差で逃げ切った実績に加え、この激しい雨が重馬場が得意という彼女の過去のデータを競馬ファンに思い出させたためだ。
パドックに竹豊が現れ、キリシマノカゼに跨る。
レジェンドの目は冷徹だ。
「今日は、逃げます」
竹は短く告げると、雨のなか、キリシマノカゼを京都のターフへと誘導した。
ファンファーレが鳴り響き、地を這うような大歓声のなか、3200メートルのゲートが開いた。
竹はキリシマノカゼを迷わず先頭へ押し出した。
1周目のスタンド前を通過する。
雨が芝を叩き、後方の馬たちが跳ね上げる泥水を気にする必要もなく、彼女は先頭で最も綺麗な進路を選び続けていた。
前半の1600メートル通過ラップは1分41秒2。
重馬場としては非常に厳しいハイペースだった。
普段のレースなら、これだけ突っ張れば、後半に脚を溜めていた瞬発力組に必ず捕まる。
しかしこの日は違った。
2周目の向こう正面。
京都名物の3コーナーの坂を迎える。
ここで、後方に構えていたはずの有力馬たちの手が、次々と激しく動き始めた。
雨と泥が、彼らの脚を根こそぎ奪っていく。
瞬発力を武器にする馬ほど、この馬場では自分の脚を信じて溜めた分だけ、動けなくなっていた。
「誰も、上がってこない」
竹は手綱を通じて伝わる背後の気配の薄さに、静かな確信を得ていた。
最後の直線、残り400メートル。
泥に足を取られたエリートたちが、次々と失速していく。
いつもならここで襲いかかってくるはずの瞬発力が、この日はどこからも来なかった。
残り200メートル。
竹豊の鞭が、キリシマノカゼの臀部に軽く入れられた。
念のための一打。
キリシマノカゼは加速したわけではなかった。
ただ、いつもと同じ12秒2のイーブンペースを、最後の1歩まで淡々と刻み続けた。
それだけで、十分すぎた。
残り50メートル。
2着に1馬身半の差をつけ、キリシマノカゼがトップでゴール板を駆け抜けた。
勝ち時計は3分18秒5。
雨の重馬場にふさわしい、泥臭く、極めてタフな決着時計。
「……勝った。本当に勝ちおった」
スタンドの最前列で、源次郎は雨に濡れるのも構わず、手元の出走表を握りしめて静かに涙を流していた。
これまで、幾頭の馬を見送ってきただろうか。
期待して迎え入れながら、一度も勝てないまま静かに繋養先を変えた馬。
故障で、まだ若いうちに競走馬人生を終えた馬。
走る場所を探し続けても見つからなかった馬。
中央競馬という世界の隅で、光を浴びることなく去っていった、いくつもの顔が、雨に煙るゴール板の向こうに重なって見えた。
華やかな勝利の裏側で、その何倍もの馬たちが、静かにこの世界から姿を消していく。
それが、零細馬主として長年見てきた現実だった。
隣で拓也が声を上げて泣いていた。
少し離れた場所で、向井だけが黙って腕を組み、雨に煙るゴール板を見つめていた。
中央の巨大資本が何十億円を投じても手に入らない、春の盾。
それを、鹿児島・霧島の小さな牧場で生まれた九州産馬が、自らの蹄と心臓だけで掴み取ったのだ。
検量室前に戻ってきたキリシマノカゼは、全身泥まみれになりながらも、やはりいつものようにケロリとした顔で、竹の愛撫に応えていた。
下馬した竹は、向井の手を強く握り締め、満面の笑みを浮かべた。
向井は珍しく口元を緩め、小さく頷いた。
泥にまみれたキリシマノカゼは、何事もなかったかのように耳を動かし、竹の手に鼻先を寄せる。
その姿は、まるで「走ることなど当たり前だ」とでも言いたげだった。
やがて、京都競馬場の電光掲示板に結果が映し出される。
1着 キリシマノカゼ
その六文字が灯った瞬間、スタンドを埋め尽くした数万人が、どよめきと拍手に包まれた。
鹿児島・霧島の小さな牧場で生まれた九州産馬。
大手牧場のエリートでもなければ、何億円もの値が付く良血でもない。
火山灰の混じる大地を駆け、鍛え上げた蹄と心臓だけを武器に、この国で最も過酷な三二〇〇メートルを走り切った。
その日、春の盾は初めて、九州へ渡った。
翌朝、全国のスポーツ紙は一斉に一頭の栗毛を一面に載せた。
「霧島の奇跡」
「九州産馬、天皇賞・春制覇」
「無名の牧場から、日本一へ」
見出しは違っても、伝えていることは一つだった。
――競馬に、不可能はない。
厩舎に戻ったキリシマノカゼは、そんな騒がしさなど気にも留めず、いつも通り黙々と飼い葉を食んでいた。
何が変わったわけでもない。
ただ、いつも通りの走りをしただけ。
それが、たまたまこの日、誰にも追いつかれなかった。




