第6話 阪神大賞典
3月を迎えた。
向井要が登録を出したのは、3月17日に阪神競馬場で行われる阪神大賞典。
勝てば天皇賞・春への優先出走権が得られる。
2着以下でも重賞のため収得賞金は加算されるが、優先出走権そのものは勝たなければ手に入らない。
しかし、G2ともなれば、賞金を持つ古馬の強豪たちがこぞって春の始動戦に選ぶため、2勝クラスのキリシマノカゼは、通常であれば非当選除外の対象だった。
だが、近年の阪神大賞典は、実のところ登録頭数そのものが伸び悩む傾向にあった。
大手生産グループの有力馬は、3000mという長丁場そのものを敬遠し、2000mの大阪杯(G1)や海外のドバイミーティングへ分散する。
さらに、その年の登録馬のうち2頭が、直前の調教で軽いハ行を起こして回避を発表した。
木曜日の午後、JRAから発表された出走確定馬の名簿。
全17頭。フルゲート18頭に満たない。
キリシマノカゼの名前が、最下段に滑り込んでいた。
「ゲートが開くぞ、拓也」
向井は事務所のファックスから出てきた名簿を見つめ、低く言った。
天候は晴れ。
阪神の芝は絶好の良馬場。
陣営が望む雨の助けはない。
装鞍所で、竹豊は前走の万葉Sを振り返っていた。
3000メートルをほぼ独りで引っ張り、最後の最後に交わされた。
あの僅差なら、あと少しペースの配分を工夫すれば、逃げ切れる目算が立つ。
「豊さん、馬場は軽いです」
拓也がそう告げると、竹は静かに頷いた。
「分かってます。だから今日も、逃げます。ただ、前回より果敢にハナを奪ってペースを握る形にします」
3月17日、阪神競馬場第11レース。
単勝オッズは、前年の菊花賞4着馬が1.6倍の1番人気。
キリシマノカゼは45.8倍の11番人気。
他陣営の調教師たちは、なぜ2勝クラスの九州産馬がここにいるんだ、と一瞥する程度。
午後15時35分。
ファンファーレが鳴り響き、17頭がゲートを飛び出した。
竹はキリシマノカゼを迷わず先頭に立たせ、果敢にハナを切った。
阪神の3000mは、内回りのコースを2周する。
1周目のホームストレッチを通過する時点でのラップは、1ハロン12秒6〜12秒8。
「これなら後ろも簡単には来られない……」
スタンドの拓也が拳を握る。
竹はキリシマノカゼの息遣いを確かめながら、無理に飛ばさず、しかし後続を寄せ付けない程度のペースを維持した。
2周目の向こう正面。
残り1000メートルの標識を過ぎたところで、後方に控えていた1番人気馬がしびれを切らして外から進出を開始した。
全体のラップが一気に11秒5へと跳ね上がる。
ロングスパート合戦の始まりだった。
竹は動じなかった。
先頭を守りながら、キリシマノカゼの息づかいを確かめる。
まだ、余力は十分残っている。
最後の直線、残り350メートル。
良馬場の高速決着。
外から良血馬たちが上がり34秒台の脚で抜け出そうとする。
しかし、逃げながらも脚を溜めていたキリシマノカゼは、他馬がすでに消費し尽くしたスタミナを、そのまま先頭で受け止める形になった。
11秒9のラップを刻んだまま、粘りに粘る。
残り150メートル。
外から菊花賞4着馬が最後の脚を振り絞り、じりじりと迫ってきた。
「……いける、いけるぞ!」
スタンドで拓也が声を張り上げる。
ゴール寸前、菊花賞4着馬の鼻面が並びかけてくる。
竹の叱咤に応えたキリシマノカゼは、最後の一完歩で鼻先を伸ばした。
電光掲示板に着順が表示される。
【 1着:キリシマノカゼ 2着:菊花賞4着馬 】
頭差。
わずかにキリシマノカゼが凌ぎ切った。
「……やった……やったぞ!!」
拓也が両拳を握り締め、叫んだ。
重賞初勝利。
しかも積極的な逃げでの逃げ切り勝利。
これにより、キリシマノカゼには優先出走権が刻まれた。
3勝クラスを飛び越え、オープン馬の仲間入りである。
誰にも譲らずに掴んだ、天皇賞・春への切符だった。
検量室に戻った竹は、泥を拭いながら向井と固い握手を交わした。
「向井先生、やりましたね。果敢に逃げて、粘って、首差で凌ぎ切った。この馬は本当にどこまでもバテない。最後の瞬発力だけが足りないだけで……裏を返せば、瞬発力を封じられる条件さえ整えば、勝ち負けが変わります」
向井はしばらく黙っていた。
「封じられる条件、か」
「雨、ですかね。京都の3200メートル、雨さえ降れば……」
竹の言葉に、向井は静かに頷いた。
「分からんな。天皇賞まで、あと1か月ちょっとある。晴れるか降るか、それこそ神様に聞かんと分からん。ただ——」
向井は一度言葉を切り、それでも続けた。
「もし降ったら、それは本気で勝負できる話だ」
確信ではなかった。
しかし、先ほどまでは細い一本の望みだったものが、今は確かに太い道筋へと変わっていた。
誰もが場違いと笑った九州産馬が、自力で平地最高峰のG1天皇賞・春のゲートをこじ開けた瞬間だった。
あとは、天に任せるしかなかった。




