第4話 フローラS、藻岩山特別
3歳になったキリシマノカゼの収得賞金は1200万円。
この賞金順位では、春のクラシック第一冠である皐月賞や、牝馬三冠の桜花賞に出走登録しても、大手クラブの賞金上位馬に弾かれ、抽選または非当選除外になる可能性が極めて高かった。
桜花賞のマイルは、向井要の中でとうに選択肢から消えていた。
キリシマノカゼに、現代の桜花賞で求められる高速ラップを刻む脚はない。
狙うとすれば、距離が延びペースが落ち着くオークスだけだ。
そのためのステップとして、向井が選んだのは4月のオークストライアル、フローラS。
東京競馬場の開幕週。
芝は絶好のコンディション。
キリシマノカゼにとっては最も不利とされる良馬場。
高速決着が予想される舞台。
4月22日、東京競馬場。
キリシマノカゼの馬体重は462キロ。
前年末から10キロ増えていたが、栗東のハードな調教に耐えて筋肉量が増した結果だ。
鞍上には、約束通り竹豊。
単勝オッズは28.4倍の9番人気。
ゲートが開き、芝2000メートルのレースが始まった。
開幕週の軽い芝を意識し、先行各馬が内ラチ沿いのポジションを取り合うなか、竹はキリシマノカゼを中団前目、7番手あたりに収めた。
前半5ハロンの通過タイムは1分00秒2。
スローペース。
3コーナー、まだ他馬が瞬発力を溜めているタイミング。
竹はキリシマノカゼの手綱を緩め、早めのロングスパートを開始した。
「また早いな、あの馬」
隣り合ったトラックマン同士が、双眼鏡越しに顔を見合わせる。
中京、万両賞と、すでに二度見せている脚質だ。
奇襲としての効果は、もう失われつつあった。
早めに動いたキリシマノカゼが、4コーナーを迎える頃にはすでに先頭列に取りついていた。
しかし、東京の長い直線、残り400メートル。
まだ十分に脚を溜めていた良血馬たちが、一斉にギヤを上げて瞬発力勝負に持ち込んだ。
そのなかに、1頭だけ違う動きをした馬がいた。
道中、他の馬より一段下がった位置につけていた牝馬が、この局面で外から一気に脚を伸ばしてきた。
まるで、キリシマノカゼが早く動くことを見越し、計算された仕掛けだった。
上がり3ハロンの時計は33秒6。
キリシマノカゼも先頭列から脚を伸ばした。
が、上がり3ハロンの時計は34秒4。
早めに動いた貯金を使い切っても、コンマ8秒のキレ味の差は如何ともしがたく。
5着でゴール板を駆け抜けた。
オークスの優先出走権を逃した瞬間だった。
「東京の軽い芝の2000メートルでは、これが精一杯です」
検量室で、竹は向井にそう告げた。
「早めに動いても、最後の瞬発力勝負になったら、勝った馬たちの方が上でした。距離が足りない。2400でも足りないです」
3歳春の牝馬クラシック戦線から、キリシマノカゼの名は完全に消えた。
---
フローラステークスで5着に敗れたことで、キリシマノカゼの収得賞金は1200万円のまま据え置きとなった。
3歳秋以降では、極めて危険なボーダーラインだ。
秋に開催される菊花賞は、近年、牝馬の出走も認められている。
キリシマノカゼのスタミナなら、2000mの秋華賞よりも3000mの菊花賞の方が適性があることは、向井と竹豊の間でも意見が一致していた。
しかし出走ボーダーラインは、例年であれば収得賞金1600万円以上。
あと400万円、積み上げなければスタートラインにすら立てない。
「夏の北海道で勝って、賞金を積むしかない」
そう決めた向井だが、登録の直前、珍しく拓也に電話をかけた。
「藻岩山、本当にあそこでいいと思うか」
拓也は少し戸惑った。
向井がこうして迷いを口にするのは、これまでほとんどなかったことだ。
「先生が決めたことなら……」
「いや、聞いてる。同じ賞金を積みに来る素質馬が、今年は例年より多い」
短い沈黙のあと、向井は結局、予定通り8月の藻岩山特別への登録を出した。
迷いは、決断を変えるほどのものにはならなかった。
札幌の芝2600mは、キリシマノカゼにとって絶好の舞台に見えた。
しかし、同じように秋を見据えて賞金を積みにきたノーザンファーム生産の3歳素質馬が、3頭も同じレースに顔を揃えていた。
レースは終始、スローペースで流れた。
キリシマノカゼは中団前目から早めのロングスパートを仕掛け、一時は先頭列に取りついた。
しかし、そのうちの1頭のジョッキーが、道中からずっとキリシマノカゼの動きだけを見ていた。
——早仕掛けなら、こっちは好位置をキープし、最後に刺せばいい。
前走のフローラSと同じ発想だった。
すでに、彼女の武器は「読み筋」として、一部の陣営の間で共有され始めていた。
エリート馬たちが、最後の直線だけで11秒2ー11秒0という、2歳戦並みの超高速スプリント勝負を展開する。
早仕掛けの貯金だけでは対応しきれず、前の馬を捕まえきれないまま3着に敗れた。
検量室の裏で、拓也は何も言えなかった。
ただ、手元のレースプログラムをゆっくりと畳み、鞄にしまった。
声を荒げる気力すら、もう残っていなかった。
3着では本賞金は1円も加算されない。
10月の菊花賞は、やはり賞金不足で非当選除外。
12月のステイヤーズステークスすらも、登録馬の段階で古馬たちが枠を埋めており、1200万円の3歳牝馬が入る隙間はなかった。
走る場所がない。
心肺機能は国内トップクラス。
しかし、競馬の賞金制度というシステムが、キリシマノカゼの前に巨大な壁となって立ちはだかっていた。
厩舎への帰り道、拓也がぽつりと言った。
「先生。悔しいですけど……向こうも、もう本気で警戒してますよね、この馬のこと」
向井は前を向いたまま、短く答えた。
「無視されてるうちは、まだ本物じゃない。潰しにくるようになったら、そこからだ」
走る場所は、まだない。
だが、彼女はもう、誰にも見向きもされない馬ではなくなっていた。




