第3話 万両賞
「竹君に頼め」
向井は電話口で即答した。
竹 豊。
日本競馬界の生ける伝説。
特に3000メートルを超える長距離戦において、馬を完全にリラックスさせて走らせる折り合いの技術に関しては国内随一とされるベテランだった。
普段は大手クラブの超良血馬に跨ることが多い彼が、なぜ地方の弱小厩舎が預かる九州産馬に興味を示したのか、拓也には分からなかった。
「あの男は、馬の呼吸を数えられる数少ない乗り手だ。カゼの、早めに脚を使っても息が乱れないという特徴を、あの男なら一番正しく扱える」
向井はその晩、源次郎にも一報を入れた。
「竹豊が乗ってくれることになりました」
「あの竹さんが……うちの馬に?」
電話越しの源次郎の声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。
向井は短く「はい」とだけ答え、それ以上の説明はしなかった。
12月。
寒風が吹き抜ける阪神競馬場。
2歳オープン特別「万両賞(芝1400m)」のパドックに、キリシマノカゼの姿があった。
馬場状態は「良」。
中京の時のような雨の助けはない。
スピード自慢の良血馬たちが揃うなか、キリシマノカゼの単勝オッズは14.5倍の6番人気だった。
「初めまして、向井先生。大迫さんも」
独特の柔らかい物腰で、竹がパドックの向井と源次郎の前に現れ、キリシマノカゼに跨った。
竹は手綱を握ると、一度だけ小さく頷いた。
キリシマノカゼは、周囲の2歳馬たちが寒さと緊張で小刻みに震えるなか、耳を後ろに倒し、竹の指示を静かに待っていた。
「新馬戦と前走のビデオを観ました。面白い馬ですね。早めに脚を使う競馬、悪くない」
竹はそう言い残し、馬場へとキリシマノカゼを歩かせた。
良馬場の高速決着が予想される阪神1400メートル。
長距離の魔術師と呼ばれるレジェンドが、このスピード不足の九州産馬をどう導くのか。
2歳オープン戦のファンファーレが鳴り響いた。
12月23日、阪神競馬場。
芝コースは前週からのAコース使用により、内側の傷みが進んでいたが、全体としては乾燥した良馬場だった。
スピードタイプの良血馬にとっては絶好のコンディションである。
午後14時00分、ゲートが開いた。
竹豊はキリシマノカゼのスタートを五分に出すと、中団前目、6番手あたりにポジションを収めた。
最初の3ハロンの通過ラップは34秒5。
良馬場なりの締まったペースである。
竹は道中、キリシマノカゼの蹄が芝を捉える感触から、その特異性を察知していた。
普通の馬なら、スピード勝負のなかで体力を削られていく時間帯。
だが、この馬は1ハロン11秒台後半のラップを、まるで平地を歩くような低い心拍数のまま、淡々と刻み続けている。
3コーナー、まだ他馬が瞬発力を溜めているタイミングで、竹は早くも仕掛けを開始した。
キリシマノカゼが外から進出し、4コーナーを迎える頃には、すでに先頭列に取りついていた。
最後の直線、残り356メートル。
しかし、他の良血馬たちも、まだ十分な脚を残していた。
外から1番人気馬が鋭い瞬発力で抜け出し、上がり3ハロン34秒1の脚で一気に後続を引き離しにかかる。
キリシマノカゼも先頭列から脚を伸ばしたが、良馬場の直線で見せた彼女の上がりタイムは34秒9。
早めに動いた分の貯金があっても、瞬発力そのものの差は、如何ともしがたかった。
結果は4着。
勝った馬からは0.5秒離されたが、ゴール板を過ぎた後も、キリシマノカゼの脚色は全く衰えていなかった。
むしろ、他馬がゴール直後にガクリと速度を落とすなか、彼女だけがまだ同じペースで走り続けようとしており、竹が手綱を引いて止めるまでにかなりの距離を要した。
引き上げてくる道中、竹は手綱を引きながら、キリシマノカゼの首筋を軽く叩いた。
「早めに動いてもバテて止まっているわけじゃない。ただ、1400のスピード競馬では、最後の瞬発力で足りないだけだ。……距離は、延びれば延びるほどいい」
独り言に近い呟きだった。
傍らを歩く厩務員に向けたものでも、まだ検量室で待つ向井に向けたものでもない。
ただ、手の中の感触から確信したことを、そのまま声にしただけだった。
検量室での報告は、拓也が向井に伝えた一言で済んだ。
「豊さん、『距離は延びるほどいい』と」
向井は黙って頷いた。
傍らで源次郎が、まだ半信半疑の表情のまま、その言葉を噛みしめていた。
良馬場のスピード勝負で4着に敗れたことで、周囲は「やはり九州産馬の限界」と判断した。
しかし、日本のトップジョッキーだけは、その敗戦のデータからステイヤーとしての圧倒的な資質を見抜いていた。
収得賞金は1200万円のまま、キリシマノカゼは2歳のシーズンを終え、3歳の春へと向かう。




