第八話 私は行く
私は激怒していなかった。
激怒する余裕がなかった。
春だった。空は高かった。風は穏やかだった。草も美味かった。
だから困った。こういう日は。余計なことを考える。
「母上」
「なんだ」
母上は草を食っていた。いつも通りだった。本当にいつも通りだった。私は少し安心した。
「もうすぐだ」
「そうか」
「天皇賞だ」
「そうか」
「春だ」
「春であるな」
話が続かなかった。私は黙った。母上も黙った。風だけが吹いていた。
しばらくして。私は言った。
「母上」
「なんだ」
「私は怖い」
母上は何も言わなかった。否定もしなかった。笑いもしなかった。ただ。聞いていた。
だから私は続けた。
「負けるかもしれん」
「そうであるな」
「勝てないかもしれん」
「そうであるな」
「終わるかもしれん」
「そうであるな」
私は少し驚いた。昔の私なら怒っていた。
なぜ否定しないのだ。なぜ励まさないのだ。そう思っただろう。
だが。今は違った。母上は。嘘を言わない。だから。その言葉は少し楽だった。
「母上」
「なんだ」
「勝てると思うか」
母上は考えた。かなり考えた。そして。
「分からん」
と言った。私は笑った。やはりそれだった。結局それだった。
「そうか」
「競馬である」
「うむ」
「分からん」
風が吹いた。私は空を見上げた。
二歳だった。
三歳だった。
四歳だった。
五歳だった。
六歳だった。
気付けば七歳だった。
長かった。本当に長かった。
私は競馬を知らぬ。だが。ここまで来るのは長かった。それだけは分かる。
「母上」
「なんだ」
「私は」
そこで言葉が止まった。私は何を言いたかったのだろう。
三冠馬になる。世界を変える。運命に選ばれた。主人公である。昔ならそう言った。
だが。今は違った。私は少し考えて。
「私は母上みたいになれたか」
と言った。
沈黙。風が吹いた。母上は草を食うのをやめた。そして。
「知らん」
と言った。私は激怒した。
「またそれか!」
「吾輩は吾輩である」
「うむ」
「お前はお前である」
「うむ」
「だから知らん」
私は黙った。なんとなく。反論できなかった。
しばらくして。私は立ち上がった。
風が気持ち良かった。空も高かった。春だった。
「母上」
「なんだ」
「私は行く」
「そうか」
「勝つかもしれん」
「そうか」
「負けるかもしれん」
「そうであるな」
「終わるかもしれん」
「そうであるな」
私は頷いた。そして。
「それでも行く」
と言った。
母上は少しだけこちらを見た。本当に少しだけ。そして。
「行け」
と言った。短かった。だが。十分だった。
私は歩き出した。もう振り返らなかった。
振り返ったら。何かが終わってしまう気がした。だから前だけ見た。
春へ向かって。天皇賞へ向かって。長い長い道の先へ向かって。私は歩いた。
母上は見送らなかった。たぶん草を食っていた。いつも通りである。それで良かった。
私は競馬を知らぬ。だが。母上だけは分かる。
そして。それだけで十分だった。




