第九話 私は私である
私は激怒していなかった。
たぶん。
少なくとも、今は。
空は青かった。
風も穏やかだった。
草も美味かった。
春だった。
そして。
私は生きていた。
「母上」
「なんだ」
母上は草を食っていた。
引退して何年経っても変わらない。
本当に変わらない。
天皇賞を勝っても草を食う。
英雄であっても草を食う。
伝説になっても草を食う。
たぶん死ぬまで食う。
馬だからである。
私は母上の隣に立った。
風が吹いた。
白い鬣が揺れた。
昔より少しだけ白くなった気がした。
気のせいかもしれない。
「母上」
「なんだ」
「勝った」
「そうか」
反応が薄い。
相変わらずだった。
私は少し笑った。
勝ったのである。
天皇賞・春。
七歳。
最後の挑戦。
最後の直線。
誰もが脚を止める中。
私は走った。
ただ前へ。
ただ一歩ずつ。
ただ母上が歩いた道の先へ。
そして。
ゴール板を先頭で駆け抜けた。
歓声が聞こえた。
人間たちが泣いていた。
調教師も泣いていた。
騎手も泣いていた。
なぜか私も泣いていた。
よく分からなかった。
「母上」
「なんだ」
「私は天皇賞馬になった」
「そうであるな」
風が吹いた。
草が揺れた。
私は少しだけ迷った。
そして。
ずっと聞きたかったことを聞いた。
「母上」
「なんだ」
私は息を吸った。
「私は」
言葉が震えた。
情けないと思った。
七歳にもなって。
天皇賞を勝って。
それでも。
まだ聞きたかった。
「私は母上を超えたか」
沈黙。
風だけが吹いていた。
母上は草を噛んでいた。
しばらく。
本当にしばらく。
そして。
「知らん」
私は激怒した。
「またそれか!」
「またそれである」
母上は平然としていた。
私は呆れた。
最後までこれだった。
本当に最後までこれだった。
だが。
「吾輩は」
珍しく。
母上が先に話した。
「お前にはなれん」
私は固まった。
「お前も吾輩にはなれん」
風が吹いた。
「吾輩は吾輩である」
母上が言った。
「お前はお前である」
私は黙った。
「だから」
母上は空を見た。
「比べても仕方ないのである」
私は何も言えなかった。
長い沈黙だった。
二歳だった。
柵を壊そうとした。
三歳だった。
自分を主人公だと思っていた。
四歳だった。
負けて怒った。
五歳だった。
距離に出会った。
六歳だった。
届かなかった。
七歳だった。
怖かった。
そして。
走った。
全部。
母上の背中を追いかけていた。
ずっと。
本当にずっと。
「だが」
母上が言った。
「立派であった」
私は固まった。
風が吹いた。
何かを言おうとした。
だが言葉にならなかった。
私は天皇賞を勝った。
GⅠを勝った。
記録も残した。
名前も残した。
だが。
その一言の方が。
ずっと嬉しかった。
「母上」
声が少し震えた。
情けない。
本当に情けない。
「なんだ」
私は少し考えた。
そして。
「草が美味い」
と言った。
母上はしばらく黙っていた。
そして。
「そうであるな」
と言った。
風が吹いた。
草が揺れた。
空は青かった。
私は競馬を知らぬ。
だが。
もう母上になりたいとは思わなかった。
母上は母上である。
私は私である。
それで良かった。
吾輩は馬である。
名前は――スノードロップ。
もう、誰かの娘ではない。
私は、私である。




