祈り
次の日、訓練場へ向かう途中で、天使は初めて足を止めた。
高く広がる白い回廊の向こう、数人の天使たちが空を横切っていく。翼を一度広げるだけで、彼らの身体はまるで光に持ち上げられるように浮かび、そのまま滑らかに流れていった。
誰一人として、風など見ていない。
少なくとも、彼にはそう見えた。
飛ぶことは、もっと当たり前のものだったはずだ。
呼吸をするように。祈りを捧げるように。考えるまでもなくできるものだった。
それなのに自分は、落ち方を教わっている。
天使は小さく目を伏せた。
訓練場へ着くと、老人はいつもの場所にいた。光の柱の影に寄りかかるように立ち、静かに目を閉じている。
天使は少し迷ってから口を開いた。
「あなたは……何者なんですか」
老人はすぐには答えなかった。
ゆっくりと目を開き、空を見上げる。
「昔、空を飛んでいた者だ」
それだけだった。
曖昧な答えだったが、不思議と嘘には聞こえなかった。
老人は彼へ視線を向ける。
「今日は飛ばん」
天使はわずかに眉を寄せた。
「……では、何を」
「祈れ」
短い言葉だった。
だが、天使は反射的に顔を曇らせる。
祈り。
それは彼が最も苦手とするものの一つだった。
天界の祈りは願いではない。光を編み、魔力を形へ変えるための技術だ。優れた天使ほど祈りは美しく、短く、迷いがない。
だが彼の祈りは、いつも途中で崩れる。
言葉は乱れ、光は散り、魔法陣は最後まで形を保たない。
何度繰り返しても同じだった。
「……無理です」
思わず口から漏れる。
老人は表情を変えなかった。
「何がだ」
「祈りは、飛ぶより苦手です」
老人は静かに訓練場の中央へ歩いていく。
「なら、ちょうどいい」
天使は意味が分からず、その背中を見る。
老人は振り返らないまま言った。
「お前は今まで、“正しく祈ろう”としすぎている」
その言葉に、天使は小さく息を止めた。
飛ぶときと同じだった。
正しく羽ばたこうとして、落ち続けた。
正しく祈ろうとして、壊し続けた。
「祈りとは何だと思う」
問いが落ちる。
天使は答えられなかった。
考えたことがなかった。
祈りとは技術だった。天界で生きるために必要なものだった。誰もが使えて、自分だけがうまく扱えないものだった。
老人は空を見上げたまま、小さく呟く。
「祈りは、本来“届かぬもの”へ向けるものだ」
風が静かに吹き抜ける。
「届かぬから、人は祈る」
その声は、どこか遠い場所を見ているようだった。
天使は老人の横顔を見る。
その瞬間、ふと気づく。
この老人は、天界を見ていない。
もっと別の場所を見ながら話している。
「やってみろ」
老人が言う。
天使はゆっくりと手を前へ出した。
淡い光が指先へ集まる。
祈りの言葉を紡ぐ。
だが途中で、光が揺らいだ。
いつもと同じだった。
形になりきる前に崩れていく。
天使は唇を噛む。
また失敗する。
そう思った瞬間だった。
「止めるな」
老人の声が落ちる。
天使は顔を上げる。
「崩れるなら、崩れるまま流せ」
その言葉は、飛ぶときの感覚に似ていた。
逆らわない。
押し返さない。
流れへ入る。
天使は消えかけた光へ、もう一度意識を向けた。
形を保とうとはしない。
ただ、流れていく光を見る。
揺らぎながら、崩れながら、それでも消えきらずに残っている淡い輝き。
その瞬間、光が静かに繋がった。
魔法陣にもならないほど小さな光だった。
だが確かに、今までより長くそこに在り続けていた。
天使は目を見開く。
指先に残る熱が、まだ消えていない。
「……今の」
掠れた声が漏れる。
老人は静かに目を細めた。
「お前は、ようやく祈りを壊さなくなった」
その言葉は不思議と胸に残った。
成功したわけではない。
まだ何一つ、まともにできていない。
それでも昨日までとは違う。
失敗が、少しだけ変わり始めていた。
訓練場を風が抜けていく。
その流れの中で、指先の小さな光だけが、いつまでも静かに揺れていた。




