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出来損ないの天使  作者: ぺっぺろ


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3/5

落ち方

 老人は、その日も訓練場の端に立っていた。白い石床の向こう、光の柱が斜めに差し込む場所で、何をするでもなく空を見上げている。その姿には相変わらず羽がなく、光輪もなく、ただ長い時間だけをまとったような静けさがあった。


 天使は歩きながら、無意識に翼を小さく動かした。羽根の先を薄い空気が撫でていく。昨日までなら気にも留めなかった感覚だった。風はただそこにあるだけのもので、飛ぶことのできない自分にとっては、うまく掴めない何かでしかなかった。


 だが今日は違う。


 訓練場を抜けていく流れに、妙な輪郭があった。頬をかすめる冷たさと、翼の内側へ入り込んでくる柔らかな圧力が、ばらばらではなく一つの動きとして感じられる。昨日、落ちながら触れたものが、まだ身体のどこかに残っていた。


 飛べなかった。結局また落ちた。それなのに、あの失敗だけは、これまでの失敗と同じ場所へ沈んでいかなかった。落下の途中、自分の身体がほんの一瞬だけ何かへ預けられた感覚があったのだ。押し返されるのではなく、運ばれるような感覚だった。


「考えたか」


 老人が言う。


 天使は顔を上げる。


「……少しだけ」


 自分でも曖昧な答えだと思った。だが老人はそれ以上を求めなかった。問いを急がない沈黙だった。


 老人はゆっくりと歩き、彼のすぐ横で足を止める。


「お前は、飛ぶことを難しく考えすぎている」


 天使は眉を寄せた。


「難しく……?」


「空へ行こうとするからだ」


 その言葉は奇妙だった。飛ぶのだから、空へ向かうのは当然のはずだった。天界の誰もがそうしている。羽を広げ、上へ昇り、光の中を滑るように飛んでいく。自分だけができない。だから何度も羽ばたいた。何度失敗しても、同じように。


「では、どうすればいいんですか」


 老人は答えず、訓練場を流れていく空気へ目を向けた。


「お前は、風を越えようとしている」


 その言葉を、天使はすぐには理解できなかった。風は越えるものなのか。そもそも、考えたことすらない。


「飛べる者はな」


 老人の声が静かに続く。


「風に逆らわん」


 その瞬間、昨日の感覚が胸の奥でわずかに揺れた。落ちる直前、自分の身体を通り抜けていった流れ。あれは押し返してくるものではなかったのかもしれない。


 天使はゆっくりと翼を広げた。白い羽根が光を受け、柔らかく明滅する。胸の奥で鼓動が鳴っている。


 怖かった。


 また落ちる気がした。いや、きっと落ちる。だが、今はそれでもよかった。飛びたいのではない。知りたかった。自分が今まで何を見落としていたのかを。


 彼は静かに息を吸い込む。


 訓練場を流れる空気が、翼の隙間へ入り込んでくる。今までなら、無理やり押し返していた感覚だった。だが今日は違う。身体を流れていく動きを、そのまま受け止める。


 羽ばたく。


 身体が浮く。


 視界が揺れる。


 そして次の瞬間、重力が彼を引いた。


 落ちる。


 だが、落下の感覚が昨日までとは違った。身体が空気の中へ沈んでいく。その流れの形が、ほんの少しだけ分かる。翼の下を抜けていく圧力。身体を横へ運ぼうとする動き。今まで無秩序に感じていたものが、一瞬だけ繋がった。


 落下が遅れる。


 本当にわずかな時間だった。


 だが彼は確かに、自分の身体が風へ触れたのを感じた。


「……今」


 着地したあと、声が掠れる。胸が熱かった。何かが変わり始めている。だが、それが何なのかはまだ分からない。


 老人は彼を見つめたまま、小さく言った。


「ようやく、お前は落ち方を知り始めた」


 その言葉の意味を、天使はすぐには理解できなかった。飛ぶための訓練をしているはずなのに、老人は飛び方ではなく、落ち方ばかりを語る。けれど不思議と、間違っているとは思えなかった。


 天使はゆっくりと空を見上げる。


 流れていく雲の形が、昨日までより少しだけ近く感じられた。

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