落ち方
老人は、その日も訓練場の端に立っていた。白い石床の向こう、光の柱が斜めに差し込む場所で、何をするでもなく空を見上げている。その姿には相変わらず羽がなく、光輪もなく、ただ長い時間だけをまとったような静けさがあった。
天使は歩きながら、無意識に翼を小さく動かした。羽根の先を薄い空気が撫でていく。昨日までなら気にも留めなかった感覚だった。風はただそこにあるだけのもので、飛ぶことのできない自分にとっては、うまく掴めない何かでしかなかった。
だが今日は違う。
訓練場を抜けていく流れに、妙な輪郭があった。頬をかすめる冷たさと、翼の内側へ入り込んでくる柔らかな圧力が、ばらばらではなく一つの動きとして感じられる。昨日、落ちながら触れたものが、まだ身体のどこかに残っていた。
飛べなかった。結局また落ちた。それなのに、あの失敗だけは、これまでの失敗と同じ場所へ沈んでいかなかった。落下の途中、自分の身体がほんの一瞬だけ何かへ預けられた感覚があったのだ。押し返されるのではなく、運ばれるような感覚だった。
「考えたか」
老人が言う。
天使は顔を上げる。
「……少しだけ」
自分でも曖昧な答えだと思った。だが老人はそれ以上を求めなかった。問いを急がない沈黙だった。
老人はゆっくりと歩き、彼のすぐ横で足を止める。
「お前は、飛ぶことを難しく考えすぎている」
天使は眉を寄せた。
「難しく……?」
「空へ行こうとするからだ」
その言葉は奇妙だった。飛ぶのだから、空へ向かうのは当然のはずだった。天界の誰もがそうしている。羽を広げ、上へ昇り、光の中を滑るように飛んでいく。自分だけができない。だから何度も羽ばたいた。何度失敗しても、同じように。
「では、どうすればいいんですか」
老人は答えず、訓練場を流れていく空気へ目を向けた。
「お前は、風を越えようとしている」
その言葉を、天使はすぐには理解できなかった。風は越えるものなのか。そもそも、考えたことすらない。
「飛べる者はな」
老人の声が静かに続く。
「風に逆らわん」
その瞬間、昨日の感覚が胸の奥でわずかに揺れた。落ちる直前、自分の身体を通り抜けていった流れ。あれは押し返してくるものではなかったのかもしれない。
天使はゆっくりと翼を広げた。白い羽根が光を受け、柔らかく明滅する。胸の奥で鼓動が鳴っている。
怖かった。
また落ちる気がした。いや、きっと落ちる。だが、今はそれでもよかった。飛びたいのではない。知りたかった。自分が今まで何を見落としていたのかを。
彼は静かに息を吸い込む。
訓練場を流れる空気が、翼の隙間へ入り込んでくる。今までなら、無理やり押し返していた感覚だった。だが今日は違う。身体を流れていく動きを、そのまま受け止める。
羽ばたく。
身体が浮く。
視界が揺れる。
そして次の瞬間、重力が彼を引いた。
落ちる。
だが、落下の感覚が昨日までとは違った。身体が空気の中へ沈んでいく。その流れの形が、ほんの少しだけ分かる。翼の下を抜けていく圧力。身体を横へ運ぼうとする動き。今まで無秩序に感じていたものが、一瞬だけ繋がった。
落下が遅れる。
本当にわずかな時間だった。
だが彼は確かに、自分の身体が風へ触れたのを感じた。
「……今」
着地したあと、声が掠れる。胸が熱かった。何かが変わり始めている。だが、それが何なのかはまだ分からない。
老人は彼を見つめたまま、小さく言った。
「ようやく、お前は落ち方を知り始めた」
その言葉の意味を、天使はすぐには理解できなかった。飛ぶための訓練をしているはずなのに、老人は飛び方ではなく、落ち方ばかりを語る。けれど不思議と、間違っているとは思えなかった。
天使はゆっくりと空を見上げる。
流れていく雲の形が、昨日までより少しだけ近く感じられた。




