38 国立農業研究所
馬車は街道から森に入り、森の中をしばらく走っていたと思ったら、いつのまにか広い草原の中にいた。
御者に手を引かれて馬車を下りて見上げると、草原の中に一軒の屋敷があった。
どうやら目的地であるマンションの移設先についたようだ。クラウドが言った。
「ようこそ、国立農業研究所へ」
「お、お邪魔します」
農業研究所というので公共的な施設を想像していたが、外観は完全に貴族の別荘で、ここは避暑地のようだった。
「どうぞ中へ」
「はい」
招かれて玄関に一歩足を踏み入れると、強い土と草、藁の匂いがした。
使用人や研究者とみられる人達が、あわただしく右へ左へ動いている。
どうやら外に出していた機材や植物が屋内に運ばれているようで、クラウドがそのまま作業を続けるように指示を出す。移設が明日の夜になったことは既に連絡済みのようだ。
玄関先に大きな棚がいくつかしつらえてあり、数多くの植物が植えられた鉢や苗が置かれている。
一つ一つに木札が刺してあり、木札には何かの数字が書かれている。栄養などの割合だろうか。
カーペットが敷かれていたジャンクション家とは異なり、床はタイル張りとなっている。
泥がついても掃除しやすいように工夫されているのだろう。
「すみません、ここはあまり綺麗な場所ではないんですよ。使用人も殆ど居ませんし、研究者ばかりなので」
「いえ、大丈夫ですよ。お構いなく」
中の小部屋に案内され、木製の椅子に座ると、来客を確認した使用人らしき人からお茶が出された。
カモミールのような花の香りだ。
クラウドが木のテーブルに資料と地図を広げる。
「作業が明日の夜ですので、先にこちらの資料をご確認ください。あと、これを」
「ありがとうございます」
紐のネックストラップが渡された。
紐の先に研究所のモチーフが入ったタグが付いていて、臨時職員と書かれている。
簡易的な身分証のようだ。首にかける。
資料にはジャンクション家で見たものよりも詳細な周辺地図が書かれている。
資材の移動に関する色々な書き込みが入っている。
「移設先はこの辺りにお願いしたいです。これから見に行きます」
クラウドが開けた草原の中でもやや森寄りの場所を指し示す。
石材が多い場所で、元々は鉱石が植物に与える影響の調査をしていた場所らしい。
「……湖が近いですね。ユーイさん、ええと、うちのマンションの管理人なんですが、水脈がある場所は地盤が緩いかもしれないとのことでして、一度連絡を入れるように言われているんですよ。地盤調査をする必要があるみたいで」
「……あの大きさの建造物ですものね。どうします? 一度ご自宅まで戻られますか?」
「いえ、ちょっと電話して聞いてみます。少し失礼しますね」
「デンワ?」
リーフィアから渡されたイヤリングを取り出す。
コンシェルジュカウンターと連絡がとれる通信用の魔道具だ。耳に付けて風の魔力をin。
レイが回線を繋ぎ、少し待つとイヤリングからノイジーな音がし始める。
レイが話しても大丈夫という合図をくれる。
「もしもしー、聞こえますか? ハルカですー」
『ああ、はい。こんにちは、ハルカさん。ユーイです。どうされましたか?』
イヤリングからユーイの渋い声が耳元ゼロ距離で響いてきた。
背筋を這うような感覚に鳥肌が立ち、どのような表情をしていいか困惑していると、
クラウドが奇怪なものを見るような目で見てきた。
こっち見んな。
よく考えると、傍から見たら突然独り言を話し始めた危ない人だということに気づいた。
ますますこっち見んな。
咳払いを一つしてごまかす。
「こ、こんにちはユーイさん。ええと、移設先なんですが、国立農業研究所のある場所に移設することになりました。明日の夜でも大丈夫らしいんですが、実は移設先が湖の近くでして。もしかしたら下に水脈が通っているかもしれないんです」
『ああ、なるほど。それなら地盤調査と、可能でしたら地盤の強化をした方がいいかもしれませんね。近くに移設先の責任者の方は居ますか?』
「います。クラウド・ジャンクションさんですね。農業研究所の所長さんです」
『代わっていただけますか?』
「わかりました」
机を挟んで椅子に座ってソワソワしているクラウドに声をかける。
「クラウドさん。こちらのマンションの管理者のユーイさん、ええと、地精霊なんですが、ちょっとお話したいみたいでして、代わっていただけますか?」
突然話しかけられて、クラウドがびくっと身を震わせた。
「え?ええと、どうすれば……よろしいでしょうか?」
「えーと、これ付けてください」
自分の耳につけたイヤリングを外し、戸惑っているクラウドに渡す。
受け取って表情を白黒しているクラウドがなかなかイヤリングを着けようとしないので、やれやれと思いながら代わりに着けてあげることにした。
「ちょっと失礼しますね」
「あ、ああ」
白いフワフワした髪の毛を彼の耳にかけると、耳たぶにイヤリングを付ける。
人に触られるのは慣れていないのか、少年が視線をそらして頬を赤く染めた。
うっ……なんだかこちらが恥ずかしくなる。
「……ど、どうぞ」
「あ、ああ。すまない」
なんだか気恥ずかしくなり私も視線を逸らす。イケメンとの至近距離の接触は心臓によくない。
ドキドキしているとユーイさんの声が微かに聞こえた。
『ええと、こんにちは?』
「あ!ああ、ええと、すまない。待たせた」
『はい、大丈夫ですよ』
クラウドが慌てて居住まいを正す。
レイが通信回線を繋いだからか、私にも会話の内容が聞こえてくる。
うーん、盗み聞きのようで少し居心地が悪い。
「ええと、こちらは、クラウド・ジャンクション魔導士爵です。パトリック・ジャンクション領主代行より建造物の移設についての役を拝命されました」
『それはそれは。お世話になります。風の女神ダフネ様より、ダフネスタワーファンファレアのマンション管理人を拝命されております、地精霊のユーイ・ド・ヴィスタノーム・ダフネ・ガイアスと申します』
「ああ。事情はパトリック領主代行より伺っています。この度は申し訳ないことをしました」
『いいえ、謝罪は別途頂いておりますので』
「そうですか。それで、話とは何でしょうか? 地盤調査なら自由にして頂いて構わないのですが……」
『ああ、そのことなんですが、できれば地盤強化をさせて頂きたくてですね』
「ほう?」
『おそらく地下水脈が流れているため、このまま当マンションをそちらに移設しますと、地盤沈下が起きるかと思いまして』
「ふむ」
『このままでは地下水脈に影響が出ますので、地盤強化が必要かと思われるのですよ』
なるほど、地盤沈下すると湖に影響が出るのかな。
「……そうですね。しかしどのようにされるのか、こちらには知見がございませんでして」
『こちらから地脈を通じて微精霊が地盤強化の手配を行います。申し訳ありませんが、予定していたよりも広範囲で行う必要がありますので、植栽や植物、それから地に住まう者たちに影響が出るかと思います。できましたら可能な限り、屋内や外部への退避をお願い致します』
「ああ、それなら大丈夫です。何が起きても事なきよう、既に屋外の植物は全て屋内に退避させておりますので」
ドアの外は今もパタパタと使用人や研究者の足音で慌ただしい。
『そうでしたか、ありがとうございます。それでは今晩中に地盤強化だけさせて頂きますね』
「ええ、大丈夫です。構いません。移設は明日の夜と伺いましたが、変わりありませんか?」
『ええ。大丈夫ですよ』
「わかりました。それでは、ええと、ハルカさんに代わりますね」
『はい』
クラウドが耳元からイヤリングを外す。
「お話は終わりましたか?」
「ええ。地盤強化をして頂くことになりました。これを」
手渡されたイヤリングを再び耳に着ける。クラウドが何故か頬を赤らめて耳元をじっと見つめる。
「もしもし?」
『はい、聞こえておりますよ』
「これから現地を確認しに行きますが、私が何かやることはありますか?」
『そうですね。現地に着いたら一度ご連絡を頂いてよいでしょうか? 微精霊の地盤強化範囲を明確にする必要がありますので、正確な位置を教えて頂きたいのです』
「わかりました。またご連絡しますね」
『はい』
通信を終えると、連絡を終えたことをクラウドに告げて、残っていたカモミールティーを飲み干した。
建物の移設は色々とやることが多くて大変だ。




