第13章 いちばん古い綴り
灰壁暦三一三年、水無月十日。夕方の鐘が五つ鳴ったころ、アルブレヒトは参事会館一階の裁き方の間で、雨の音を聞いていた。
裁き役になって、二十年あまりになる。七十近い。乾いた紙のような手をしている、と若い参事に言われたことがある。悪口のつもりだったのだろう。アルブレヒトは、悪くない言い方だと思った。紙は、乾いているほうが長くもつ。
戸が叩かれた。
入ってきたのは、白い手袋の修道女だった。手習い所のアガタだ。傘の雨を戸口で払い、片方の手袋に、何か赤いものが絡んでいた。
アガタは何も言わずに、胸から畳んだ紙を出して、机の上に置いた。
*
アルブレヒトは紙を広げた。
『この者らを、北の砦へ。』
一行だけだった。写しだと、すぐに分かった。墨が新しい。だが字の形は、新しくなかった。
字の終わりが、どれも小さく跳ね上がっている。
アルブレヒトは、その癖を知っていた。どこで見たのかを思い出すのに、雨垂れを三つ数えるほどかかった。
アルブレヒトは立ち上がり、奥の棚へ行った。いちばん上の段に、表紙に『例』とある綴りが並んでいる。十七冊。いちばん古い一冊は、いちばん奥だ。
手を伸ばして引き出そうとすると、隣の二冊目まで一緒に動いた。二冊が、棚の縁から滑り落ちかけた。
アガタが、手袋の手で一冊を受け止めた。
「ま、そういうことも起きる」とアルブレヒトは言った。アガタは、受け止めた一冊を黙って棚に戻した。
*
第一冊は、薄かった。麻の綴じ紐が、百年のあいだに茶色くなっている。表紙の『例』の字も、終わりが小さく跳ねていた。
アルブレヒトは頁を繰った。煙突を二尺高くせよ、という裁きがあった。井戸の順番の裁きがあった。それから、水無月五日の頁に来た。
『灰壁暦二一二年 水無月五日 裁き役コンラート
一、上町ザイデル家の館にて、書類一通(委細を記さず)失せる。
一、鍵番ルッツ、灰色の者が文箱より紙を抱えて出たと申す。偽りなり。偽りを申した者、南の門より出す。
一、館にありし亜人、灰色一名、鴉一名。北の門より出し、北の砦へ送る。誰を出すかは谷に任す。
一、人の申すのみをもって、亜人の種を定めず。偽りを言えぬ者の申すをもって定む。
一、亜人の申すことは、人を裁く帳面に載せず。
一、ザイデル家、谷の証文を改めず。
右、以後の例とす。 書記ゲオルク』
アルブレヒトは、写しを頁の横に並べた。
同じ筆だった。字の終わりの跳ね方が、一つ残らず同じだった。
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この頁なら、アルブレヒトは何度も読んでいる。裁き方に入った若いころ、最初に読まされる頁だ。掟の始まりの例だと教わった。関わった亜人は北の門から。偽った者は南の門から。亜人の言葉は、人を裁く帳面に載せない。
この春、前の組合長を南の門から出したのも、この頁のとおりだった。あの裁きの席で、アルブレヒトは書記に言った。蜥蜴人の言葉は、裁きの帳面に載らない。書くな。言ったとき、この頁の一行が頭にあった。百年前の誰かも、同じことを書記に言ったのだろう。
二一二年の裁きの帳面は、残っていない。帳面は、何年か使えば削って書き直す。残るのは、清書された正本と、綴じ目の割り印だけだ。割り印の朱は、百年でずいぶん薄くなっていた。
アルブレヒトは、指の腹で一行目をなでた。
『書類一通(委細を記さず)』
括弧のところで、指が止まった。
「ま、そういう者も出てくる」とアルブレヒトは言った。
書かなかった書記が、いた。何を書かなかったのかは、分からない。分からないように、書かなかったのだ。それも一つの仕事だ、とアルブレヒトは思った。
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先月、北の古い砦から、組合長の報告書が届いた。書記局で、参事たちの前で読み上げられた。
『古き砦に住む者あり。数、およそ六十。北の村々と古くからの取り決めあり』
古くからの取り決め。読み上げのとき、誰もそこで顔を上げなかった。アルブレヒトも上げなかった。
上町の晩餐では、北の話をしないものだ、とアルブレヒトは思った。昔から、そういうことになっている。なぜそういうことになっているのかを、アルブレヒトは知らない。知らないことを、知っていた。
廊下の向こうの書記局で、羽根ペンの音がしていた。誰かが、遅くまで何かを清書している。雨の夕方の裁き方の間には、古い紙の匂いが溜まっていた。乾いた木の皮と、黴と、ほんの少しの墨。
*
アガタは、机の向こうに立ったまま、何も言わなかった。
アルブレヒトも、何も訊かなかった。この写しはどこで写したのか。誰が写したのか。北の砦の何だったのか。訊けば、アガタは答える。偽りを言わない人だ。答えれば、アルブレヒトはそれを書かねばならない。裁き方は、訊いたことを書く。
書く理由が、この紙にはまだなかった。
アルブレヒトは写しを畳み、アガタに返した。アガタは一礼して、それを胸にしまった。手袋に絡んだ赤い実が、灯の明かりで小さく光った。
戸が閉まった。傘を開く音がして、雨の中を足音が遠ざかった。
アルブレヒトは、第一冊の水無月五日の頁を、もう一度だけ見た。字の終わりが、どれも小さく跳ねていた。
アルブレヒトは綴りを閉じた。終わりで、息を止めた。




