第三話 眠れない夜の分け方
正面モニターに並んでいた四十七の生体反応が、最後の一つまで安定を示す青へ変わった。
《顔のない街》の消滅から三時間。帰還直後の簡易報告に始まり、潜行記録の照合、被害者の自我定着率、装備損耗、領域崩壊時に観測された巨大複合型悪夢との接続経路――検討すべき項目を一つずつ片づけ、ようやく正式な終了通知が表示される。
《悪夢潜行部隊Enigma Node》
《第三十八回デブリーフィング終了》
《潜行員三名、全員帰還》
《救出対象四十七名、全員生存》
「第三十八回任務、これにて完全終了!」
エニグマが指示棒を高々と掲げる。
笑顔の描かれた黒いマスクと猫耳型ヘッドセットは、三時間に及ぶ報告会を経てもまったく疲労を感じさせない。けれど、その下にある彼女の顔まで同じかといえば、おそらく違う。
私もサイファーも、身体の芯にはまだ悪夢の冷気が残っていた。《顔のない街》は、私たちが初めて討滅した悪夢ではない。三十八番目だ。
三人で潜り、三人で帰る。それを三十七回積み重ね、今日、三十八回目を終えた。
今まで一度も危機がなかったわけではない。装備を失ったことも、帰還経路を断たれたことも、現実の肉体が生命維持装置に繋がれたこともある。
それでも、私たちは現実へ帰ってきた。
運がよかっただけではない。
エニグマが道を作り、サイファーが敵を砕き、私が悪夢の法則を見つける。誰か一人の判断だけでは届かない答えを、三人で見つけてきた。
「それじゃ、今日はもう休めるのか?」
サイファーが両腕を上へ伸ばす。重い潜行装備から解放された身体が、いくつか小さな音を鳴らしている。
「何を言っているのかね、サイファー君。デブリーフィングが終わったということは、次回作戦のブリーフィングを始められるということだ!」
「そう言うと思っていたよ」
サイファーは呆れたように息を吐いたが、口元にはわずかな笑みがあった。
エニグマは指示棒を振り下ろし、壁面の操作盤に触れる。
白を基調としたブリーフィングルームが、一段階だけ照明を落とした。
ここは私たちのアジトの中でも、エニグマの趣味が最も強く表れた空間だ。床も壁も天井も白く、中央には楕円形の机が一つ置かれ、その周囲に三脚の椅子が等間隔に並ぶ。
余計な装飾はなく、悪夢領域の立体映像を投影するための空間だけが確保されている。
そういう潔癖なほど無垢な部屋なのに、机の隅にはエニグマが置き忘れたピザ店の広告が重なっていた。
『LUCIDとの通信回線を確立。相互認証を開始します』
室内にNexusの声が響く。正面の壁が透き通り、別の部屋を映し出した。映像の向こうには三人の人影が現れている。
中央に座る白銀髪の女性はアーカイブ。私たちと最も多く合同潜行を経験してきた悪夢潜行部隊《LUCID》の指揮官だ。
彼女の右側には、大柄な男性が資料の束と格闘している。グリッチは表示された数値へ険しい顔を向け、ときおり画面を指で押し広げては、さらに増えた情報量に眉間の皺を深くしていた。
左側に座るパッチは、そんな彼を横目に見ながら、静かに端末を操作している。
『待たせたな、Enigma Node』
「我々もちょうど前回の任務を終えたところだ。君たちの方は?」
『事前資料の確認を一通り。もっとも、一人だけ二十三ページ目で止まっているが』
アーカイブが視線を右へ向ける。グリッチは悪びれることなく腕を組んだ。
『圧力変動率、領域深度、空間反転周期、環境同化係数……数字が多すぎる。悪いが、もう少し実戦に近い言葉で説明してくれ』
『グリッチが確認したいのは、構造物へ攻撃を加えた場合に生じる変化です』
パッチが穏やかに補足する。
『隔壁や床を破壊した際、敵の増援が現れるのか。それとも海水が流入するのか。数値そのものより、行動と結果の対応を知りたいのだと思います』
『俺を随分と理性的な言語に翻訳したな』
『違っていましたか?』
『いや、完璧だ。助かった』
グリッチは素直に頷く。彼は頭脳労働を好まないが、考えることが苦手なわけではない。むしろ戦場では、私たちの誰よりも早く危険の形を見抜くことがある。
ただ、それを数式や論理ではなく、身体の感覚で捉えているのだ。
「では、殴ったら何が起きるのかを中心に説明しよう!」
『お前まで俺をその括りに入れるな、エニグマ』
「違うのかな?」
『……いや、そこを聞きたいのは間違いない』
室内へ小さな笑いの輪が広がった。
エニグマが机上の操作盤へ手を置く。中央に青白い立体映像が浮かび上がり、LUCID側の机にも同じものが投影された。二つの球状悪夢領域、その模式図だ。
一方は、幾重もの階層を持つ巨大な地下施設。もう一方は、底さえ観測できない深海。
本来なら異なる場所に存在するはずの二つは、互いへ深く食い込み、境界線を失いつつあった。
施設の廊下を海水が満たし、鉄製の隔壁に巨大な貝殻が貼りついている。昇降機の扉は暗い海底へ開き、観察窓の向こうでは、施設の警備灯を疑似餌のように吊り下げた怪魚が泳いでいた。
『事前偵察で得られた情報を共有します』
Nexusの声とともに、映像が地下施設側へ寄る。
『第一領域。仮称《第零隔離区》複数の地下階層から構成される閉鎖型悪夢領域です。潜行者を施設内の汚染源と認定し、脱出を試みる行為に反応して通路および隔壁を再構成します』
「出口へ近づこうとするほど、出口が遠ざかるということ?」
私が尋ねると、映像内の通路が生物の腸管のように歪んだ。
『正確には、脱出の意思を検出しています。上層への移動、隔壁の破壊、外部への通信。そのすべてが封鎖強度を上昇させます』
『施設側にとっては、閉じ込め続けること自体が領域法則というわけだな』
アーカイブが即座に要点を拾う。
『その認識で問題ありません』
映像が深海側へ移る。
光の届かない暗闇に、沈没した建造物らしき影が点在している。巨大な柱にも見えたが、その一つがゆっくりと身じろぎし、海底の泥が舞い上がった。
『第二領域。仮称《光なき海溝》全容および最深部は観測不能。上昇、強い発光、大規模な振動に対し、複数の敵性体が反応します』
「つまり上へ逃げようとすると、あれが追ってくるのか」
サイファーが海中の巨影を見据える。その口調からは軽さが消えていた。
『少なくとも、偵察機は三度捕捉され、三度とも通信途絶に至っています』
『三度とも、ということは』
パッチが表情を曇らせる。
『Nexusは同じ条件で三機を喪失したのですか?』
『いえ、二機目は発光を抑制し、三機目は無振動推進を採用しました。いずれも上昇開始後に捕捉されています』
答えを聞いたグリッチが、立体映像へ身を乗り出した。
『光でも音でもない。深度の変化そのものを見ているのか』
「私もそう思う」
私が応じると、彼は映像越しに頷いた。
「深海側の法則も、施設側と同じなのかもしれない。脱出しようとする者を逃がさない。表れ方が違うだけで、どちらも同じ恐怖を核にしているみたい」
ここから出られない。地下へ閉じ込められる恐怖と、深海へ沈められる恐怖。
二つの悪夢はその一点で重なり、結びついていた。
「だから互いを異物として排除せず、癒合した」
『厄介だな』
アーカイブが腕を組む。
『片方の法則を回避するための行動が、もう片方の法則に触れる。施設の隔壁を破壊すれば、深海から海水が流れ込む可能性がある。浸水を避けて上層へ向かえば、施設側の封鎖が強まり、同時に深海側の敵性体にも捕捉される』
「しかも季節は真冬!」
エニグマが楽しげに付け加えた。机上へ新たな観測結果が開かれる。氷点下二十七度。
深海から流入する海水は凍結せず、施設内部の熱だけを急速に奪っていく。長時間の探索になれば、敵と遭遇する前に身体機能を失う恐れがあるということだ。
『想定される敵性体は施設警備機構、職員および隔離対象を模した人型、深海捕食生物。そして――』
エニグマが映像を切り替える。水没した廊下の奥に、人影が立っていた。
潜水服に似た防護装備。両腕は金属製の拘束具と一体化し、頭部を覆う透明な球体の中では、小さな深海魚が群れを成している。
人型が不意にこちらを振り向く。顔のあるべき場所を、無数の魚眼が埋め尽くしていた。
「両方の領域の特徴を持つ癒合型か」
『悪趣味だな』
グリッチが低く呟く。
「同感だよ」
サイファーも静かに頷いた。
私は人型敵性体の足元を見る。床には鎖が伸びていた。その先は壁ではなく、廊下を満たす海水の奥へ消えている。
「この敵は、隔離施設の警備員じゃないかもしれない」
『というと?』
パッチが問い返す。
「繋がれているのは私たちを捕らえるためではなく、自分が逃げないためにも見える。もし隔離対象そのものが施設側の敵性体へ変えられているなら、無闇に倒すのは危険だよ。悪夢の核にされている人の自我情報を損なう可能性がある」
エニグマの指が止まる。笑顔のマスクが、映像の人型へ向けられた。
「Nexus。癒合型敵性体を救出対象候補へ変更。交戦時は可能な限り無力化に留める」
『了解しました』
『判断が早いな』
アーカイブが言う。
「コードがそう見たのなら、確かめる価値がある。敵だったら、そのとき改めて倒せばいいからね」
『実にお前らしい』
わずかに微笑んだあと、アーカイブは再び指揮官の顔へ戻った。
『次に攻略条件を確認する。Nexusの分析では、両領域の基点をほぼ同時に無力化する必要があるのだったな』
『はい。許容される時間差は推定百八十秒以内です。一方だけを先に討滅した場合、残存した悪夢領域が崩壊領域を吸収し、規模と法則強度を増大させる危険があります』
「つまり二手に分かれる必要がある、ということか」
サイファーの言葉に、室内が静まる。相手は単独でも広大な悪夢領域だ。それが二つ癒合し、互いの欠陥を補い合っている。
一部隊だけで挑めば、片方を討滅した時点でもう片方に呑み込まれる。だから、Enigma NodeとLUCIDによる協働が選ばれた。
「地下施設の構造解析は私とコードが担当しよう」
エニグマが立体映像を分割する。
「深海側の敵性体は、サイファー君とグリッチ君が抑える。アーカイブ君には全体の進行管理と二領域間の時間調整を任せたい。パッチ君は負傷者への対処と、癒合型に囚われた自我情報の確認だ」
『妥当だ。しかし固定編成にはしない。領域境界が変動する以上、途中で配置を入れ替える必要もある』
「もちろんだとも。二つの部隊が別々に戦うのではない。六人で一つの悪夢を攻略する」
そこから会議は、さらに三時間続いた。
携行装備。酸素供給。耐圧処理。低温環境への対策。施設側の電力を利用できる可能性と、それ自体が罠である可能性。
壁を壊してよい条件についてグリッチが問い、私とアーカイブが構造ごとの危険度を整理する。サイファーは水中で大型武器を扱うための調整を申し出て、パッチは六人分の体温低下を抑える装備案を提示した。
エニグマは時折冗談を挟みながらも、一つとして聞き逃さなかった。
私たちがLUCIDと協働するのは、これが初めてではない。互いに知らない癖は、もうほとんど残っていないほどだ。
アーカイブは全員の意見を記録しながら、採用しない案にも必ず理由を示す。グリッチは理解できないことを曖昧にせず、戦場へ持ち込める形になるまで問い続ける。
パッチは発言の少ない者へさりげなく話を向け、誰かの懸念が置き去りにされるのを防いでいた。
長く生き残る部隊には、それぞれの生き残り方がある。
私たちが三つの異なる答えをぶつけ合う部隊なら、LUCIDは誰かが見落とした一片を、残る二人が拾い上げる部隊だった。
やがてすべての項目を確認し終えた頃、室内の時計は午前二時を回っていた。
『最終確認だ』
アーカイブが六人を見渡す。
『作戦目標は癒合領域の無力化、およびその先にある進撃路の確保。ただし、最優先事項は両部隊員の生還とする』
エニグマは椅子から立ち上がった。
「六人で潜って、六人で帰る。領域を討滅しても、一人でも欠けたならこの関門を突破したとは言えない」
『異論なしだ』
アーカイブは即答する。
『次も全員で生還する。それを合同部隊の第一目標とする』
『了解』
グリッチが拳を掲げる。
『また一緒に帰りましょう』
パッチも柔らかく微笑んだ。
「うん。必ず」
私が答え、サイファーも深く頷く。
その瞬間だった。静かなブリーフィングルームに、長く低い音が響く。
そして全員の視線が、音の発生源であるエニグマへ集まる。彼女は何事もなかったように胸を張った。
「Nexus。今の音をサイファーの起床コール音として採用したまえ」
「エニグマの腹部から発生した生理的な空腹音です」
「君は優秀だが、融通が利かないな!」
『最後に食事をしたのは?』
パッチが尋ねる。
「前回任務の潜行前だ」
『十三時間以上前です。すぐに何か食べてください』
「無論だとも。今日の私は、三時間前からピザのことしか考えていない!」
『それでよく会議を進められたな』
アーカイブが額を押さえる。
そうして通信を切る直前、グリッチが真剣な顔で告げた。
『エニグマ。食いすぎて次の作戦に出られない、という事態だけは避けろよ』
「心配無用!ピザは円形だ。ゆえに栄養も丸く収まっている!」
『パッチ。今の理論は正しいか?』
『通信を切りましょう、アーカイブ』
『賛成だ』
映像が消えた。
その直後、エニグマは白い外套を翻して走り出した。
「厨房へ急ぐぞ、戦友諸君!これは時間との戦いだ!」
「生地は逃げないよ」
「私の空腹は刻一刻と勢力を増している!」
私とサイファーは顔を見合わせ、そのあとを追った。
▲▽▲―――▲▽▲
アジトの厨房には、六人家族でも持て余しそうな巨大冷蔵庫がある。
その扉を開けた瞬間、内部照明が整然と並べられた食材を照らし出した。
発酵済みの生地。三種類のトマトソース。下処理された肉と魚介。色とりどりの野菜。産地別に分類されたチーズ。
悪夢領域の記録より細かく整理されているのではないかとさえ思う。
「今夜の主役は基本へ立ち返り、マルゲリータ!サイファー君には燻製肉と茸!コードには海老とアボカド、追加のチーズを添えよう!」
「覚えていてくれたんだ」
「隊長たるもの、部下の好みは把握しておくべきだからね!」
エニグマは手を洗い、猫耳型ヘッドセットと黒い笑顔のマスクを外した。
素顔になった彼女は、先ほどまでより幾分幼く見える。けれど、生地へ触れた瞬間、その眼差しは戦場と同じ鋭さを帯びた。
指先で厚みを確かめ、淀みのない動きで円形へ広げる。ソースを螺旋状に塗り、具材を均等に並べ、最後にチーズを散らす。
悪夢の中で二振りの短剣とワイヤーを操るときと同じくらい正確な手さばきだ。
「エニグマ。今、何枚目作ってるの?」
「まだ七枚目だが?」
「私たち、三人しかいないよね?」
「だから控えめにしている」
サイファーが多層オーブンへ並べられた生地を数える。
「一人二枚としても、一枚余るな」
「よく気づいたね、サイファー君。余った一枚を私が責任を持って処理しよう」
「最初からそのつもりだったのか?」
「食材を無駄にしない、隊長としての責任感だよ」
やがて、香ばしい匂いが厨房を満たした。焼き上がったピザをエニグマが次々と切り分け、私たちは大きな食卓を囲む。
熱いチーズが伸びる。海老の塩気とアボカドの柔らかな甘みが、疲れ切った身体へ染み込んでいった。
「おいしい」
「当然だとも!」
「確かにうまい」
サイファーも燻製肉の載った一切れを頬張り、満足そうに息を吐いた。
「だが、この量は本当に必要なのか?」
「悪夢潜行後の脳は、糖質と脂質を求めている。つまりこれは医療行為だ」
「パッチに確認したら、否定されそうだね」
「だから通信を切ってから作ったのだよ」
エニグマは胸を張り、八枚目の生地を伸ばし始めた。
「まだ作るのか?」
「七枚で控えめにした結果、私の食欲が深刻な被害を受けている」
「領域拡大を許してしまったんだね」
「速やかな討滅が必要だ!」
深夜の厨房に、笑い声が響いた。
次の作戦については、もう話さなかった。話さなくても、恐ろしさは全員が理解している。
壊してはならない壁。上ってはならない海。脱出しようとするほど、深く閉じ込められる二つの悪夢。
その中へ潜ると決めたからこそ、今は焼きたてのピザを味わう。
やがて皿が空になり、時刻は午前三時を過ぎた。普通の人間なら、眠りについている時間だ。けれど、私たちは寝室へ向かわない。
サイファーは整備室へ移動して大剣の調整を始め、私はブリーフィングルームへ戻って深海側の観測資料を開く。エニグマは鼻歌を歌いながら、余った生地で九枚目の新作ピザの試作に取りかかっていた。
私たちは、作戦以外では眠らない。眠れないのではなく、眠ってはならないのだ。
メアダイバーを介し、悪夢領域への強制潜行を繰り返した私たちの脳は、いつしか眠りと悪夢を切り離せなくなった。
潜行座標を指定せず、ただ目を閉じて眠れば、私たちは自動的にどこかの悪夢領域へ落ちてしまう。
そこがどんな場所なのかは分からない。ただ、仲間もいない、武器もない、Nexusの誘導も、現実へ戻るための帰還路もない状態で戦いを余儀なくされる。
だから、私たちは基本的に作戦のときだけ眠る。
メアダイバーの中で見る悪夢だけが、私たちに許された睡眠だった。
端末の向こうで、深海の暗闇が揺れている。
遠くからは、生地を叩く軽快な音が聞こえた。整備室からは、サイファーが刃を研ぐ規則正しい音も響いてくる。
独りなら、きっと長すぎた夜だ。でも、今は違う。
次の悪夢へ向かうまで続くこの夜を、私たちは焼きたてのピザと一緒に、三人で分け合っていた。




