第四話 同じ場所へ沈んでいく
メアダイバーの蓋が閉じる寸前、エニグマが装置へ身を預けながら片手を上げた。
「それでは、向こう側でまた会おう」
笑顔の描かれた黒いマスクと、猫耳型ヘッドセット。いつもと変わらない姿だった。
次に会う場所が光の届かない深海であっても、多分同じ姿をしている。そう予感させる何かが彼女にはある。
「絶対にまたここに帰ってこようね」
私もそう応じて、戻るべき場所を確かめるようにアジトの天井を見上げた。
「了解だ。背中は任せておけ」
サイファーの頼もしい声が聞こえると、三人分のメアダイバーがほとんど同時に閉鎖された。
後頭部に電極が接続され、冷たい感触が背骨を駆け下りる。視界の端に潜行深度と脳波同期率が表示され、Nexusの声が機内へ流れた。
『Enigma Node、全員の神経接続を確認。目標悪夢領域への座標固定を開始します』
低い駆動音が身体を包む中、眠気は訪れない。
意識は途切れるのではなく、現実から引きはがされていく。
『座標固定完了。潜行を開始します』
最後に見えたのは、透明な蓋の向こうにあるアジトの照明だった。
その白い光が遠ざかり線になり、やがて完全に消える。
次の瞬間、私は暗い通路に立っていた。
▲▽▲―――▲▽▲
最初に感じたのは、潮の臭いだった。錆びた鉄と古い消毒薬。それらを塗り潰すほど濃い、淀んだ海の臭い。
足元を確かめると、床は濡れていない。それでも靴底の下から、水を踏んだときのような感触が返ってきていた。
頭上では細長い照明が不規則に明滅し、そのたびに通路の奥が現れては消える。金属製の壁は内側へ緩やかに湾曲し、溶接部から白い塩の結晶が析出していた。
遠くで、何かが軋む。施設そのものが水圧に耐えかね、低く呻いているような音だった。
「コード」
呼びかけに振り向くと、数メートル後方にエニグマが立っていた。さらにその隣では、サイファーが大剣を背負い直している。
「全員いるね」
「ああ。身体にも装備にも異常はない」
サイファーが周囲を見回す。
「合流地点にしては、歓迎が足りないな」
「魚介料理の一つでも用意してくれていれば、私の評価も違ったのだがね!」
エニグマの調子は普段と変わらない。けれど、彼女の両手はすでに腰の短剣へ添えられていた。
私は右手を壁へかざし、周辺構造の走査を開始する。視界へ半透明の地形情報が重なった。
取得できたのは、現在地を中心とした半径三百メートルほど。施設の材質に妨害され、外縁部は砂嵐のように乱れている。それでも上下へ延びる複数の通路と、巨大な縦坑らしき空間は確認できた。
「現在地は施設中層と推定。正確な階層番号は不明。上方よりも下方の構造情報が多い。南東二百四十メートルに昇降路と思われる縦坑がある」
「LUCIDの座標は?」
「領域内に反応はある。でも距離も方角も確定できない」
「ならば直接聞いてみよう」
エニグマが通信回線を開く。
「こちらEnigma Node。LUCID、応答を」
短い雑音のあと、アーカイブの声が返ってきた。
『こちらLUCID。三名とも潜行に成功した。現在地は施設下層と思われる区画だ』
「こちらは中層通路だ。互いの座標を照合しよう。コード、観測情報を――」
その瞬間、通信へ甲高い警報音が割り込んだ。耳を刺すような音に続き、感情のない館内放送が流れ始める。
『隔離区画内に汚染源を確認。職員は外部との接触を中止し、所定の手順に従って――』
「アーカイブ君、聞こえるか?」
『Enigma Node、こちらの座標は第――下――昇降――』
アーカイブの声が途切れる。雑音の奥から、グリッチが何かを叫んでいた。続いてパッチの声らしきものが重なり、すべてが押し潰される。
「LUCID、応答してくれ!」
返ってくるのは警報音だけで、やがてそれも途絶え、通路に重い静寂が戻る。
「通信経路が切断されたが、機器の異常ではない。領域側からの干渉だよ」
「外部への通信も脱出行動と判断されたか」
サイファーが天井のスピーカーを見上げる。
「位置情報を交換する直前に遮断したのも、偶然ではなさそうだな」
「LUCIDは下層にいる」
私は取得した地形情報を三人の共有視界へ表示した。
「ここから動かず通信の復旧を待つ方法もある。でも、施設側に現在地を露見させる危険がある」
「深海側は、上昇する者を逃がさない。ならば選ぶべき方向は一つだ」
エニグマは視線を下へ向ける。
「下へ向かい、LUCIDとの合流を優先する。悪夢が我々に沈んでほしいというのなら、今だけは望みを叶えてやろう」
「罠かもしれないよ」
「極めて高い確率でね」
「それでも行くのか?」
サイファーの問いに、エニグマは躊躇なく頷いた。
「待っていれば安全だという保証は、もっとない。全員で帰るために、まずは六人へ戻るぞ」
そうして私たちは暗い通路を歩き始めた。施設内に人の気配はない。
扉の脇には《第零隔離区》《許可なき入域を禁ず》と書かれた表示板が残り、観察窓の向こうには机と椅子だけの部屋が並んでいた。
時折、窓の外を巨大な影が横切る。ここは地下施設の内部であるはずなのに、ガラスの向こう側には黒い海が広がっていた。
警備灯に似た光を疑似餌として額から吊るした怪魚が、こちらを眺めながら通り過ぎていく。その身体は通路そのものより大きい。薄いガラス一枚を隔てた先に、圧倒的な水圧を抱えた深海がある。
やがて、分厚い隔壁が進路を塞いだ。制御盤に電力は通っておらず、手動開閉装置も内部で固着している。
「大剣で斬ることはできる」
サイファーが剣の柄へ手をかけた。
「だが、衝撃は避けられない」
「施設側が隔壁への攻撃を検出する可能性があるし、この壁の向こう側が同じ施設内だという保証もないよ」
私が答えると、エニグマは隔壁の厚さを確かめた。
「コード。最小限の範囲だけを溶断できるか?」
「光を刀身表面から三センチ以内へ圧縮する。外部への漏光は抑えられるけど、完全には消せない」
「振動で施設全体を刺激するよりはいい。許可する」
私は両手剣を抜き、切っ先を隔壁へ向けた。
「了解【ライトブレード】」
術式の発現と同時に刀身に白い光が収束する。強い輝きではない。光は刃の輪郭に沿って薄く凝縮され、周囲の暗闇へ漏れることなく、金属だけを灼いた。
刃を押し当てると、隔壁が音もなく赤熱した。溶けた金属が雫となって床へ垂れ、冷えた空気に触れた途端、黒い塊へ変わる。人一人が通れる大きさに切断し、サイファーが落下しないよう切り抜いた部分を支えた。
三人で耳を澄ますが、警報は鳴らない。海水も流れ込んでこなかった。
「成功だ」
サイファーが金属板を静かに床へ寝かせる。
「お見事!悪夢への礼儀作法も完璧だね、コード」
「できれば最後まで礼儀正しい客だと思っていてほしいよ」
「それは難しい相談だ。我々は最終的に家主を倒す予定だからね!」
切り開いた隙間を抜け、さらに奥へ進む。昇降路へ辿り着くまで、敵性体との遭遇はなかった。
しかし、昇降機は完全に沈黙していた。扉を手動で開くと、箱は上層に停止したまま動かない。縦坑の底は照明の届かない暗闇へ続き、時折、遥か下方から水滴の落ちる音が響いてくる。
「主電源も非常用電源も死んでる。昇降機を使うなら、補助発電機の復旧が必要だね」
私は壁面を走る電力線を追った。
「発電設備は西側。ここから百六十メートル」
「縦坑を直接下りる選択肢は?」
「深度が分からない。それと途中で施設構造が変化した場合、退路を失う」
「ならまずは発電機だな」
私たちは昇降機を離れ、隣接する通路へ入った。三つ目の角を曲がったところで、エニグマが片手を上げる。
通路の奥に、人影が立っていた。古びた潜水服に似た耐圧装備。両腕は金属製の拘束具と癒着し、背中から伸びた送気管が床を這っている。
頭部は透明な球体で覆われていて、その中に人間の顔はない。
濁った海水を満たした兜の内側で、代わりに大小無数の魚眼が蠢いていた。あるものは天井を、あるものは床を見つめ、残るすべてが互いに異なる方向へ動き続けている。
事前偵察で確認された、癒合型敵性体だ。幸いまだこちらには気づいていない。
「右の通路から迂回できる」
地形情報を確認し、私は小声で告げた。
「距離は増えるけど、発電設備には繋がってる」
「交戦は避けよう。あれが救出対象でないと確認できていないからね」
エニグマの判断に従い、私たちは一つ手前の分岐まで戻った。
隣の通路へ入り、敵性体から距離を取りつつ進んで行く。そこからは一本道だった。
五十メートル。七十メートル。地図上では、最初の通路と平行に進んでいる。
やがて明滅する照明の下に、別の潜水士型が現れた。今度は通路の中央に立ち、兜の中の魚眼すべてをこちらへ向けている。
周囲に逃げ道はなく、敵性体が大きく踏み込んでくる。両腕の拘束具が開き、内側から錆びた鉤爪が飛び出す。
「サイファー!」
「任せろ」
彼は大剣を抜くと同時に、敵の懐へ潜り込んだ。刃を敢えて振り抜かず、柄頭を拘束具の接合部へ叩き込み、軌道を逸らす。続けて肩を押し当て、敵性体を壁から引き離しながら反転した。
低く構えられた刃が、背部の送気管だけを切断するのと同時に、兜の魚眼が激しく明滅した。
潜水士型が掴みかかろうとした瞬間、サイファーは大剣の腹を背部装置へ押し込み、最小限の動きで内部機構を砕く。そこで敵性体は糸を切られたように崩れ落ちた。
戦闘開始から、十秒も経っていない。
「周囲への損傷は?」
「壁面に接触なし。床も無事だ」
「敵性体を調べる」
私は倒れた潜水士型の兜へ手を触れた。内部を満たす海水は冷たい。潜水服の中に魚眼を繋ぐ神経状組織は残っていたが、人間の肉体も、自我情報らしき反応も検出できなかった。
「これは救出対象じゃない。二つの悪夢が生み出した純粋な敵性体だと思う」
「少なくとも、今の潜水士型については遠慮する必要がないということだな」
サイファーは大剣を背負い直し、私たちは死骸をその場に残して先へ進んだ。
通路は変わらず直進していて、地形情報にも分岐はない。百メートルほど歩いたところで、前方に黒い塊が見えてきた。
先頭のエニグマが足を止め、照明が一度消え、再び点灯する。
濡れた床に、潜水士型が倒れていた。切断された送気管、砕かれた背部装置、大剣の腹で押し潰された、細長い陥没痕。
「……これは、さっきの個体だな」
サイファーが低く告げる。
「同型ではなく?」
「俺がつけた傷だ。間違いない」
私たちは通路を一度も曲がっていないし、引き返してもいない。
それでも、後方へ置いてきたはずの死骸が進行方向に倒れている。
疑念を抱いた私は地形情報を展開した。
「待って。記録がおかしい」
歩行距離と通路の全長が一致していない。しかも直進していたはずなのに、進行方位が途中から反転している。
並行していた二本の通路が同一座標を占有し、私たちの移動経路は何の曲線も描かないまま起点へ接続されていた。
「私たちは道を間違えたわけじゃない」
「では、地図が間違っているのか?」
「それも違う。歩いた経路はすべて正しく記録されてる。正しい経路同士が、矛盾した場所へ繋がってるんだよ」
エニグマはしばらく黙って死体を見下ろしていた。
笑顔の描かれた黒いマスクは、いつもと何も変わらない。
「なるほど、よくできた悪夢だ」
しかしその声だけが、不自然なほど平坦だった。
▲▽▲―――▲▽▲
最初に、死骸の位置を変えておいた。
通路の左端へ寄せ、切断された送気管を反対方向へ伸ばす。床には私の剣で印を刻み、そうしてから別の分岐へ入った。
新たな通路を進んで七分後、私たちは同じ死体の前へ戻った。位置も送気管の向きも、床の印も変わっていない。
次に、エニグマが通路の支柱へワイヤーを固定した。三人で直進しながら、背後へワイヤーを伸ばしていく。曲がり角は一つもない。
しかし百メートル近く進んだ頃、暗闇の向こうから細い光が伸びてきた。それはエニグマ自身のワイヤーだった。
前方から現れたそれを辿ると、私たちの背後へ続いている。一本の直線だったはずの通路が、始点と終点を繋いでいた。
「壁を破るか?」
サイファーが覚悟を込めて提案する。
「それを待っているのだろうね」
エニグマが冷静に答えた。
「我々が苛立ち、規則を忘れ、壁の向こうにある深海を自分から招き入れるのをだよ」
壁の向こうから、巨大な何かが擦れる音がした。壁面の金属が僅かに膨らみ、元に戻る。
通路を破壊することができても、その先にあるものが、別の通路だという保証はなかった。
最後に、私たちは三手へ分かれた。通信を維持し、異なる方角へ伸びる通路を一人ずつ進む。
私の前には、長い一本道が続いていた。
『こちらサイファー。北側通路を直進中。異常なし』
「コード、西側通路。分岐なし」
『エニグマだ、南側も愉快なほど何もない!』
短距離通信の声は届いている。地形情報にも、三本の経路がそれぞれ別方向へ伸びて記録されていた。
数分後、通路の奥に人影が見えた。私は反射的に剣へ手をかける。
時を同じくして、左右の分岐からエニグマとサイファーが姿を現した。
そうして三人は、再び一体の死骸を囲んでいる。
事ここに至って、誰も言葉を発しなかった。
敵は増えていないし、警報も鳴らない。何かに追われているわけでもない。
ただ、先へ進めない。
正しい道を選んでも、慎重に歩いても、離れて行動しても、必ず同じ場所へ戻される。
そして何度目かの検証を終えた頃、呼吸が重くなっていることに気づいた。
空気が減ったわけではなく、酸素濃度にも異常はない。
それでも胸の上へ重いものを載せられたように、息を吸うために力が必要になっていた。
壁を覆う結露を指で掬い、舐めずに成分だけを分析する。
「塩分濃度が上がってる」
最初に通ったとき、壁は乾いていた。今では継ぎ目から海水が滲み、床へ細い筋を作っている。
深度計を確認し、私は表示された数値を疑った。
「おかしい」
「何がだ?」
「私たちは同じ座標にいる。でも、最初にこの死骸の前へ戻ったときより、推定深度が三十二メートル増えてる」
エニグマが天井を見上げた。
「施設は我々を元の場所へ戻し、深海は我々を下へ沈め続けている」
「進んでも戻る。戻るたびに深くなる……」
「実に仲のよい悪夢ではないか」
そのとき、電力が死んでいるはずの天井スピーカーから雑音が流れた。
私たちが一斉に顔を上げると、途切れた音声が、何度も巻き戻される。
やがて雑音の奥から、聞き覚えのある声が再生された。
『絶対にまたここに帰ってこようね』
間違いなく、私の声だった。
潜行直前、アジトで二人へ告げた言葉。
『絶対に――ここに――帰ってこようね』
悪夢がそれを拾い上げ、繰り返し、歪んだ形で私たちへ返している。
私が帰りたいと願ったのは、こんな場所ではない。
けれど、私たちは確かにまたここへ帰ってきていた。
死骸の位置も、送気管の向きも、床に刻んだ印も変わっていない。
変わったのは、壁から滲む海水の量だけ。壁の向こうで、見えざる深海の巨影がゆっくりと身じろぎする。
施設全体が軋み、足元が僅かに傾いた錯覚さえ覚える。
私たちは同じ場所に立っている。
そのはずなのに、今も沈み続けていた。




