第二話 顔のない街 後編
尖塔の内部には階段がなかった。
広大な円筒状の空間を、天井まで届く一枚の鏡が埋め尽くしている。
鏡面の中では、無数の人間が蠢いており、老若男女、誰もが顔だけを鏡へ押しつけている。
泣き、叫び、歯を食いしばり、こちらへ手を伸ばしているが、声は聞こえない。
救出対象の四十七名どころではない。
過去、この街に囚われ、既に現実の肉体を失った者たち。その残滓までもが、ここに保存されているようだ。
「……悪趣味だな」
サイファーが大剣を握り直す。
「顔を収集しているんじゃない」
私は鏡を観察した。
「この領域は、自分が誰であるかという認識を食って成長しているんだ。顔はその象徴みたい」
「なら、ここの主は随分な大食漢だ」
エニグマが鏡片を取り出す。審判者から奪ったその欠片を鏡へ近づけると、巨大な鏡面に波紋が広がった。
中央から縦に裂けた鏡の裏にあったのは、光のない暗闇ではなく、無数の口だった。
人間の歯。獣の牙。歯だけで構成された輪状のあぎと。それらが一斉に開き、硬質な咆哮を響かせる。
次の瞬間、巨大な異形が鏡を内側から突き破った。飛散し落下した破片が床へ突き刺さる。
現れた怪物は、四肢を持つ獣に似ていた。全身を幾重もの鏡面装甲が覆い、その隙間という隙間から歯列が覗いている。頭部に目はなく、代わりに巨大な口が縦に開き、内側で人々の顔が歯のように並んでいた。
悪夢領域核【ライフリッパー】
怪物が鋭く床を蹴る。
「散開!」
Enigma Nodeは三方向へ分かれて跳ぶ。その直後、私たちが立っていた場所を巨大な歯列が噛み砕いた。
床材が飴細工のように砕け、飛散した鏡片すべてに私自身の顔が映っている。
その中の一つと目が合うと、鏡の中の私はすでに顔を失っていた。
目も鼻も口もない輪郭が、私の声で囁く。――お前は誰だ。
その瞬間、顔面に鋭い痛みが走り、皮膚が鏡へ引っ張られる。
「見るな、コード!」
サイファーの大剣が鏡片をまとめて砕いた。
結ばれていた像が消え、皮膚を引く力も途絶える。
「鏡に反射した自分の顔を認識すると奪われる!」
「了解!」
鏡を見ず、鏡の怪物と戦う。言うほど容易ではない。
敵の全身が鏡であり、周囲にも鏡面の残った破片が散乱している。視線をどこへ向けても、自分の顔が映り込んでしまう。
サイファーが雄叫びを上げて突っ込み、ライフリッパーに大剣を叩きつけた。
鏡面装甲が一枚砕けるが、その裏から瞬く間に十数の牙が飛び出し、刃へ喰らいついてくる。
「こいつ、剥がすほど牙が増えるぞ!」
サイファーが大剣を引き抜こうとする隙に、別の牙が彼の肩へ迫った。
寸前で二本の薄緑色の刃が、その歯列の上下へ突き刺さる。ワイヤーが素早く交差し、あごを縫い止めた。
「ならば剥がさずこじ開けるとしよう!」
エニグマがワイヤーを引くと、あごが強引に左右に開かれ、その口内を踏み台に怪物の背へ駆け上がった。
彼女の黒い戦装束が鏡面を滑る。ライフリッパーが身体を振り回し、エニグマを壁へ叩きつけようとするものの、彼女はワイヤーを緩め、猫のように宙返りして回避した。
「コード!この美しくない怪物の弱点を至急見つけてくれ!」
「今探してる!」
「十秒で頼む!」
「無茶を言わないで!」
「では十二秒!」
「ほとんど変わらないよ!」
言いつつ私は鏡面の反射を避けながら怪物を詳細に観察する。
鏡面装甲。無数の歯列。どれも核を守るための構造に見えるが、何かがおかしい。
ライフリッパーが動くたび、鏡の中の像も動いている。
私たちの姿、囚われた人々の顔、砕けた尖塔内部。
しかしその中に一枚だけ、何も映していない鏡がある。
怪物の喉元で、周囲を反射するはずの銀色の装甲鏡が、黒い空洞のように見えていた。
「喉だ!映像がない装甲鏡の裏に核があるみたい!」
「十秒きっかりだな!」
エニグマが嬉しそうに叫ぶのとほぼ同時に、ライフリッパーが大口を開く。
鏡の奥に囚われた顔が一斉に悲鳴を上げ、不可視の圧力が私たちを押し潰した。
膝が思わず床へ落ちる。意識の中から自分の名前が、自己認識が引き抜かれようとしているのだ。
コード。これは私の本名ではない。
それでも、ここへ潜ると決めた私が自ら選んだ名だ。
誰かに与えられた顔ではなく、私自身が掴んできた輪郭だ。
「……持っていかせるか!」
両手剣を床へ突き立て、圧力に抗う。
サイファーも立ち上がった。大剣を肩へ担ぎ、正面から怪物へ走る。
「硬いところは、俺が叩き割る!」
「その後は私が押さえる!」
「なら、最後は隊長殿に譲ってやる!」
「美しい役割分担だ!」
サイファーの大剣が強かに振り下ろされた。ライフリッパーも無数の牙をむき、迎え撃つ。
衝突の瞬間、サイファーは刃の向きをわずかに変えた。狙ったのは喉ではなく、怪物の無防備な前脚だった。
鏡面装甲ごと床へ叩きつけるように大剣撃を見舞えば、巨体はいよいよ傾く。
その隙に私は反対側から踏み込み、両手剣を脇腹へ突き入れた。装甲を破壊せず、鏡同士の継ぎ目へ深く刃を食い込ませる。そのまま全体重を柄へ預けて押し込んだ。
苦悶にあえぐ怪物の身体が横倒しになり、喉元の黒い鏡が露出する。
「エニグマ!」
「任された!」
頭上から彼女の声が降ってくる。
いつの間にか、尖塔の天井近くまで幾重にもワイヤーが張り巡らされていて、エニグマはその中央に立っている。
無数の鏡片がワイヤーへ絡め取られ、彼女を取り巻いていた。ライフリッパーが放った怪光も、奪われた顔も、すべての反射が一点――喉元の黒い鏡へ向けられている。
「顔を奪う怪物に、心温まる贈り物だ!」
エニグマが両手を広げる。
「これまで喰らった顔を、一つ残らず返してもらうぞ!」
二振りの短剣が機敏に投じられ、薄緑色の刃が黒い鏡の両端へ突き刺さる。ワイヤーを伝い、集められた光が流れ込んだ。
喉元の鏡へ、四十七人分の顔が映り出す。泣いていた者、怒っていた者、帰りたいと願った者。
失われかけてもなお、自分が誰だったのかを手放さなかった者たちの本来の姿。
ライフリッパーの巨体が痙攣し、無数の歯列が、複数の声が重なった苦悶の咆哮を上げる。
「コード!今だ!」
私は両手剣を引き抜き、駆けた。倒れた怪物の前脚を踏み台にし、鏡面を蹴り、喉元目掛けて跳ぶ。
そして黒い鏡の中に、私自身が映った。今度は顔がある。恐怖も、怒りも、帰りたいという願いも、すべて私のものだ。
「返してもらうよ」
鏡面に両手剣を正中に突き立てれば、鏡が割れる。そして内側に隠されていた灰白色の悪夢核を、刃が貫いた。
瞬間、音が消えた。ライフリッパーの全身に亀裂が広がり、装甲の裏に潜んでいた歯列が一つずつ崩れ、白い灰となって舞い上がっていく。
尖塔内部を覆っていた巨大な鏡も砕け始める。その中に囚われていた人々が、光の中へ解き放たれた。
街路を彷徨っていた住民たちの輪郭に、顔が戻っていく。彼らは目を見開き、自分の頬へ触れた。
泣き出す者もいた、隣にいた誰かの名を呼ぶ者もいた、だが無数の声は領域崩壊の轟音へ呑み込まれていく。
尖塔だけではない。建物も、石畳も、空も、街を形作っていたすべてが光の粒へ変わっている。
「悪夢核の消滅を確認!」
「被害者の自我情報が現実側へ還流しているようだな」
「四十七名は?」
サイファーが問いつつ、腕のデバイスに浮かぶ表示を確認する。
一つ、また一つと、赤かった反応が青へ変わっていく。
「全員戻った」
そうエニグマが答えた瞬間、サイファーが長く息を吐く。
エニグマは笑顔のマスクを押さえ、大仰に一礼してみせた。
「それでは皆様、短い旅ではございましたが、これにて終点でございます。お忘れ物――顔、名前、人生等々のないよう、お気をつけて現実へお帰りください!」
「最後までなんか軽いな!?」
「別れは笑顔の方がいい」
軽い調子の奥に、かすかな静けさがある言葉だった。
やがて街全体が白い光に包まれる。私たちの身体も輪郭を失い、悪夢から切り離されていく。
最後に見えたのは、顔を取り戻した一人の子供だった。その子は泣きながら、それでも確かに笑っていた。
▲▽▲―――▲▽▲
どこかで、少女の瞼が震えた。
白い天井に規則正しい電子音。
ベッドの傍らで俯いていた母親が、小さな変化に気づいて顔を上げる。
「……お、かあ……さん」
それは母親が一年と三か月ぶりに聞いた娘の声だった。
母親は椅子を倒して立ち上がり、痩せた娘の手を両手で包み込む。
別の病院では、通勤途中に倒れた男が目を覚ました。
隔離病棟では、名前さえ呼べなくなっていた女性が自分の名を思い出した。
各地の医療施設で、四十七名の意識不明患者が、ほぼ同時刻に覚醒していく。
誰も理由を知らない。彼らがどこに囚われていたのかも、誰が救い出したのかも。
ただ、目覚めた者たちは一様に、奇妙な証言を残した。
顔のない街で、三人の黒い人影を見た、と。
▲▽▲―――▲▽▲
意識が浮上する。最初に戻ってきたのは、冷気だった。
次いで身体の重さ、乾いた喉、指先の痺れ。閉ざされていたメアダイバーの透明蓋が開き、白い蒸気が薄暗い室内へ流れ出す。
私は少しだるい感じのする上体を緩慢に起こした。左右に並ぶ二基のメアダイバーも開放される。
「――生還!」
その中からエニグマが跳ね起きた。
勢い余って装置の縁に膝をぶつけ、その場に蹲る。
「痛~っ……!」
「生還直後に自滅するなよ」
隣で目覚めたサイファーが呆れた声を出す。
「これは現実世界の重力が正常であることを確認する、極めて重要な試験だ。これにより擬似覚醒か否かを判断できる」
「結果は?」
「痛い」
「正常な現実だな」
私はメアダイバーから降り、正面の大型モニターを確認する。
悪夢領域《顔のない街》の反応は完全に消失。現実側で観測されていた四十七名の自我情報も、それぞれの肉体へ帰還定着しつつある。
「任務成功。被害者全員の覚醒を確認」
「うむ!」
いつの間に立ち直ったのか、エニグマが机の前に仁王立ちしていた。猫耳型ヘッドセットの位置を整え、手にした指示棒をモニターへ叩きつける。
「それでは、ただいまより栄えある悪夢潜行部隊《Enigma Node》による《顔のない街》討滅作戦のデブリーフィングを開始する!」
「先に医療チェックだろ?」
「議題その一!サイファー君が公共設備である給水塔を無許可で破壊した件について!」
「お前の指示だろが!」
「議題その二!コード君が隊長の格好いい台詞を二回も奪った件について!」
「緊急時だったから仕方なくだよ」
「議題その三!隊長が作戦中に拾った鏡片を無断で持ち帰ろうとした件について!」
「全部大体お前の所為じゃないか!」
サイファーが机をバンバンと叩く。
エニグマは指示棒をくるりと回し、何も聞こえなかったようにモニターを切り替えた。
「冗談はさておき」
空気が変わり、次に表示されたのは《顔のない街》消滅直前に観測された領域座標だった。
漆黒の中心領域が聳えるその周囲へ、幾つもの悪夢が複雑な血管のような経路で接続されている。《顔のない街》は、その末端に張りついた小さな領域の一つにすぎない。
あれほど多くの人間を呑み込み、長期にわたって現実へ被害を及ぼしていた悪夢が、全体から見れば玄関先の敷石ほどの大きさしかない。
「領域滅却の瞬間、接続先への経路が開いた。観測時間は〇・八秒。だが、我らが叡智Nexusは座標の固定に成功している」
エニグマは既に必要な情報を抽出し、報告書の送信まで終えていた。
ふざけたデブリーフィングを始めるよりも先に。
「長期攻略目標、巨大複合型悪夢領域」
私が呟く。
「ああ。複数の悪夢を取り込み、今なお無秩序に拡大を続ける正真正銘の化け物だ」
エニグマが指示棒の先を、漆黒の中心へ触れさせた。
画面に走った一瞬の乱れの奥で、何か巨大なものが動いた気がした。
「今回の任務で得た座標を使えば、次からは外縁部へ直接潜行できる。被害者四十七名を救出し、厄介な領域を一つ潰し、ついでに敵の玄関口まで特定した。実に効率的な一日だったな、我が戦友諸君」
「給水塔まで壊しておいて、よく効率を語れるな」
「必要経費だ」
「さっきは一度やってみたかったと言っていたような」
「好奇心と合理性が、奇跡的に同じ方向を向いたのだよ」
そう喜劇めいた様子で言い放ち、エニグマは笑顔のマスクへ指を添えた。いつものふざけた仕草。
しかし、その視線だけは画面の奥にある悪夢を捉え、一瞬も逸らしていなかった。
「さて――」
指示棒が、漆黒の領域を軽く叩く。
「これでようやく、玄関まで辿り着いたわけだ」
画面の奥で、巨大な悪夢が脈打った。
まるで、訪問者を待ちわびているかのように。




