第一話 顔のない街 前編
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その街には、顔がなかった。
石畳を行き交う人々には、目も、鼻も、口もない。帽子を被った紳士も、籠を抱えた婦人も、母親に手を引かれる子供も、首から上にあるのは肌色の輪郭だけだ。
それでも彼らは道を歩き、店を開き、言葉のない会話を交わしている。
やがて鐘楼から低い鐘の音が響くと、その瞬間、街にいたすべての人間が立ち止まった。衣擦れも、靴音も消える。
数百という顔のない頭部が、同時に尖塔の方角へ向けられた。祈りを捧げるように深く頭を下げ、鐘の余韻が消えると、何事もなかったかのようにまた歩き始める。
その流れに紛れ、三人の旅人が石畳を進んでいた。
全員が黒い外套をまとい、フードを目深に被っている。顔の前には灰色の布を垂らし、輪郭さえ見せていない。
「右へ曲がるぞ、諸君」
先頭を歩いていた女が、楽しげに囁いた。
「予定経路は直進だったはずだけど」
私が指摘すると、女――エニグマは振り返らないまま、人差し指だけを立てた。
「予定とは、変更するために存在する美しい下書きだ」
「任務開始から七分で下書きを破り捨てる隊長がどこにいる」
最後尾のサイファーが低くぼやく。
「ここにいる!」
「名乗り出るな、目立つ」
私たちの会話を気に留める者はいない。正確には、気に留めていないふりをしている。
通りの両側に並ぶ住民たちは、顔がないにもかかわらず、私たちの動きを見ていた。視線など感じるはずがないのに、無数の眼差しがフードの隙間へ潜り込もうとしているような、不快な圧迫感が付きまとっていた。
私は外套の下で、背負った両手剣の柄を確かめる。
「エニグマ。右に何がある?」
「パン屋」
「任務に必要なのか?」
「長期任務では兵站が重要だろう?」
「食べる気ならやめろよ。あれを」
サイファーが顎で示した店先には、焼き上がったばかりのパンが並んでいた。
ただし、どれも人間の顔を模した形をしている。目や鼻は刻まれているが、口に当たる部分だけが大きく抉られていた。
「食欲が失せちゃった」
「素晴らしい判断速度だな、コード君」
エニグマは店をあっけなく素通りし、その先にある細い路地へ滑り込んだ。私たちも隊長に続く。
その直後、背後の大通りを黒い馬車が横切った。御者台に座っているのは、鏡の仮面を被った長身の人影だった。
馬車の窓から青白い光が漏れ、通りにいた住民たちを端から照らしていく。光を浴びた者は歩みを止め、顔のない頭を御者へ差し出している。
十中八九検問だろう。あのまま直進していれば、私たちも光を浴びることになっていた。
「……パン屋は?」
「もちろん擬装目標だ」
エニグマが即答する。
「二つ前の交差点から、窓に映る人波の動きが変わっていた。正面から検問が来ると踏んだだけだよ」
「だったら最初からそう言え」
「謎めいた女はモテるのさ」
「そのうち謎に侵食されて困惑されるだけになっちゃうかも」
「お褒めにあずかり光栄なり!」
三人の言動は軽いが、足は一度も止まっていない。
検問の出現を察知し、迂回路を選び、街の中枢へ向かう最短経路を随時組み直している。
私とサイファーが武器に手を伸ばすより早く、エニグマは戦わずに切り抜ける方法を素早く見つけ続けていた。
こういう隊長なのだ。
目を離せば壁の上を歩いている。意味もなく突然看板へ話しかける。作戦会議中に紙飛行機を飛ばし、その着地点に敵の侵入経路が記されていたりする。
突拍子もない言動のすべてが計算なのかと問えば、おそらく本人は笑うだろう。半分は計算で、残りの半分は本当にその場の思いつきなのだから。
「現在位置、中央尖塔まで八百二十」
私は携行端末の装備された左腕へ浮かぶ簡易地図を確認する。悪夢領域内では現実の機器が正常に機能する保証はない。表示される道も、ときおり生き物の腸のように歪んでいた。
「領域深度、第三階層。接続は安定。Nexusとの通信は断続的」
「十分だ。帰る道さえ残っていればね」
エニグマが路地の先を覗き込み、手で制止をかける。路地では顔のない子供たちが輪になっていた。
彼らの中心には一人の男が跪いている。男もまた顔を持たないようだが、両手で必死に頭を掻きむしり、爪で皮膚を破ろうとしていた。
「違う……違うんだ……俺は……俺の、名前は……」
掠れた声が、存在しない口から漏れる。周囲の子供たちが一斉に首を傾けた。
男の輪郭が揺らぎ、皮膚の下に何かが浮かび上がる。押し潰された目。埋め込まれた鼻。閉じられた唇。
自分の顔を取り戻そうとして、もがいているのだろうか。
「か、お……俺の、顔を……返せ……」
子供の一人が男の頭へ手を添えた。次の瞬間、男の顔の輪郭は内側から潰れてしまう。声が途絶える。
彼はのっぺらぼうの顔でゆっくりと立ち上がり、何事もなかったかのように子供たちの輪へ加わった。
「今のも、被害者か」
サイファーの声は冷徹さを必死に保とうとしているかのようだった。
「そうだね。現実側の照合記録では、この領域に取り込まれた可能性がある人間は四十七名」
私は淡々と答えた。
家族と食事をしたまま眠り、そのまま目覚めていない者。
通勤電車の中で意識を失い、原因不明の昏睡状態となった者。
眠ったまま、名前を呼ばれても反応しなくなった子供。
肉体は現実に残っているものの、彼らの自我を形作る情報――ここでいう『顔』は、この街の中に囚われている。
顔を奪われた者は、自分が誰だったのかを忘れてしまう。やがて、自分が忘れたことすら忘れ、街を彷徨う人形となる。
「全員連れて帰るぞ」
サイファーが決然と言った。
「そのために来たんだからね」
私が応じると、エニグマは大仰に両腕を広げた。
「加えて、この街は我々が次に攻略する巨大複合型悪夢領域、その外縁部に食い込んでいる。ここを滅却すれば接続経路を観測できるかもしれない。つまり人命救助、敵地偵察、橋頭保の確保。一任務で三度おいしい定食!」
「食べ物にたとえるのはやめてくれ、さっきのパンを思い出す」
「では、お得な三点セット」
「安っぽさが悪化したぞ」
エニグマは肩をすくめ、再び歩き出した。そして路地の出口に差しかかったところで、不意に立ち止まる。
「コード。足元」
言われて視線を落とすと、石畳の上に小さな水溜まりがあった。
雨は降っていないので、水面には曇天と、三人の黒い影が映っている。
私の影、サイファーの影、エニグマの影。そして正体不明の四つ目の影が、その背後に立っていた。
「伏せろ!」
水面が白く発光する。三人が左右へ俊敏に跳んだ直後、水溜まりから無数の鏡片が噴き上がった。
それらが通りの壁を抉り、屋根瓦を粉砕し、甲高い音を立てて石畳へ突き刺さる。
見れば路地の入口に、長身の異形が立っていた。
丈の長い黒衣に、異様に細い四肢。首から上には頭部の代わりに、銀色の枠で囲まれた縦長の鏡が据えられている。
鏡面に映っているのは、私たちではない。数百人分の顔だ。
泣く者、怒る者、助けを求める者。それらが溶け合い、鏡の奥からこちらを覗いている。
「【鏡の審判者】か。予測より三百メートルほど出現が早いな」
エニグマの声から、わずかに笑みが引いた。
「迂回はできそう?」
「残念ながら、向こうが我々を大層気に入ったらしい」
審判者が両腕を広げると、袖の中から現れたのは指ではなく、扇状に連なる細長い鏡の群れだった。
逃げ場のない路地を、鏡から放たれる青白い怪光が満たす。フードも、布も、瞼さえも透過する光。
視界が白く焼け、顔面を冷たい指で撫で回されるような感覚が走る。隠していた輪郭を暴かれ、自分という存在を街全体へ告発される。
フードが覆っていた偽装が剥がれ落ち、私たち三人の顔が、鏡の中へ映し出された。その直後、街全体が静止する。
通りを歩いていた者たちが立ち止まる。窓の向こう、店の中、路面の上。いたる所から顔のない人々が、一人残らずこちらを向く。
存在しない口が一斉に開いた。
「顔がある」
一つの声が告げる。
「顔がある」
別の声が繰り返す。そのままやがて数百の声が重なり、街そのものが叫び始めた。
「顔がある。顔がある。顔がある。顔がある。顔がある――!」
「潜入任務終了!」
エニグマが勢いよく外套を脱ぎ捨てた。
黒い戦装束と、黒地に口元を大きく吊り上げた白い笑顔の描かれたマスク。頭には場違いな猫耳型ヘッドセットが露わになり、腰の両側から、薄緑色の刃を持つ二振りの短剣を引き抜く。
「戦友諸君!ここからは愉快な遠足の時間だ!」
「遠足で武装した群衆に襲われてたまるか!」
サイファーも外套を引き裂くように脱ぎ、背負っていた大剣を抜いた。私も両手剣を構える。
即座に顔のない人々が殺到してきた。店主は肉切り包丁を。紳士は杖に仕込んだ刃を。子供たちは鞄から鋏を取り出し、群衆が濁流となって押し寄せる。
「殺すなよ!」
サイファーが叫ぶ。
「殺しても現実の肉体に傷はつかない!だが頭部への損傷は顔の記録を欠損させる可能性がある。首から下なら多少派手にやってよし!」
「結局殺すってことか!?」
「サイファー君の良心に任せる!」
「そういうことなら任せとけ」
サイファーが大剣を石畳へ叩きつける。
衝撃が瞬時に地を走り、先頭の群衆をまとめて宙へ放り上げる。刃で斬るのではなく、剣の腹と破砕した石畳で一気に足を払ったのだ。
私も踏み込み、横薙ぎに振るった両手剣が、振り下ろされた包丁と鉄パイプをまとめて砕く。そのまま肩で三人を押し退け、返す刃で別の一団の足元を薙いだ。
倒された者たちは無理に起き上がろうとする。腕が逆へ曲がっても、足が千切れかけても、痛みを感じていない。数に対して、こちらの攻撃範囲が狭すぎるのが喫緊の課題だろう。
「エニグマ!」
「最短経路で尖塔へ向かう!立ち止まれば街中の住民と仲良く握手会だ!」
「もうかなり集まってる!」
「大人気部隊はつらいな!」
エニグマが短剣を投げる。その柄から伸びた極細のワイヤーが、通りの両側を縫うように走った。足首を絡め取られた住民たちが一斉に転倒し、後続を巻き込む。
続いてエニグマは張り詰めたワイヤーを足場にして高く跳躍した。壁を蹴り、看板の縁で身を翻し、宙吊りになった短剣を手元へ引き戻す。踊るような動きで翻弄した群衆の頭上を飛び越え、通りの角へ着地した。
「こっちだ!」
示された先は、尖塔とは反対方向だった。
「そっちは西だぞ!」
「知っている」
「尖塔は東だ!」
「それも知っている」
「ならなぜ西へ行く!」
「東へ行こうとする我々を、街が東へ行かせると思うか?」
意味を理解するより早く、背後の建物が軋んだ。東へ続いていたはずの街路が折れ曲がり、建物同士が肩を寄せるように道を塞ぎ、代わりに西側の狭い路地が、尖塔の真下へ向かって伸びていく。
地図が見る間に裏返ったのだ。
領域はこちらの目的を読み取り、遠ざけようとしている。ならば逆方向を選べば、街自身が目的地を引き寄せる。
「顔は隠せても、下心は隠せない街らしい!」
エニグマが軽妙に笑う。
「頼むから先に説明してくれ」
「説明している間に道が戻る!さっさと走れ!」
なんか少し腹立たしいが、やってること自体は攻略上正しい。
私たちは西へ走った。群衆を押し退け、路地へ飛び込む。その背後から審判者の怪光が追いかけてきた。壁の窓へ光が差し込むたび、鏡面から細い腕が伸び、私たちの身体を掴もうとする。
「二十メートル先、右の窓!」
エニグマの声が示す先に従い、私は両手剣を振るう。
窓が砕け、飛び散った破片の一つ一つに審判者の姿が映り、鏡の腕が無数に増殖した。
「おいおい増えたぞ!?」
「それでいい!サイファー、前方の給水塔を右へ倒せ!」
「簡単に言ってくれるな!」
サイファーは走った勢いのまま大剣を振り上げ、通りの脇に立つ給水塔の支柱を叩き斬る。
巨大な水槽が傾き、屋根を押し潰し、噴き出した水が坂道を流れ落ちた。濁流が住民たちの足を奪い、路地一面を浅い水面へ変える。
鏡片と水面。場にあふれた無数の反射物が、審判者の像を映す。
異形はどこにでも現れることで、同時にどこへも移れなくなった瞬間であった。
数え切れないほどの鏡面に存在を分割され、輪郭が細かく明滅し始めている。
「鏡から鏡へ移動する敵なら、出口を増やしすぎれば迷うと思ってね」
「思いつきで給水塔を倒させたのか?」
「一度やってみたかったんだもん!」
「お前は後で始末書だな」
「勝てば報告書になる!」
エニグマが両腕を交差させた。路地中に張り巡らされていたワイヤーが、一斉に収縮する。散らばった鏡片が引き寄せられ、審判者の周囲へ球状に集まった。
異形が怪光を放つが、光は鏡片同士で反射を繰り返し、まるで外へ出られない。
エニグマはワイヤーを握ったまま跳躍し、審判者の顔の鏡面へ両脚で蹴りを叩き込んだ。
「自分の顔でも、よく見ていたまえ!」
閉じ込められた怪光が一点へ収束し、鏡の頭部に亀裂が走ったが、それでも審判者は倒れない。
黒衣から伸びた腕がエニグマの足首を掴み、石畳へ叩きつけようとする。
そこで私が間へ踏み込み、両手剣を下段から振り上げ、鏡面を縦に両断する。
内側から溢れ出した無数の顔が、声にならない悲鳴を上げた。
続いてサイファーの大剣の一撃が横合いから直撃する。直後に審判者の身体は砕け、光の粒となって水面へ降り注いだ。
後には、人間の手ほどの大きさをした一枚の鏡片が残された。
エニグマが地面へ落ちる前にワイヤーを巻き取り、軽やかに着地する。そのまま鏡片を拾い上げ、掲げてみせた。
「尖塔への通行証、ゲット!」
「最初からそれが必要だと知っていたんだね」
私が微笑むと、笑顔の描かれたマスクがこちらを向く。
「審判者を倒さなければ尖塔へ入れない、とは聞いていた」
「給水塔の件は?」
「今思いついた」
「路地へ誘い込んだのは?」
「半分は作戦。半分は成り行き」
「検問を避けたのは?」
「純粋に見つかりたくなかった」
「つまり、結局予定どおりなのか?」
サイファーの問いに、エニグマは胸を張った。
「予定通りの予定外の中心にいる!さぁ、共に愛を叫ぼうじゃないか!」
ちょっと殴りたい衝動に駆られる。
街路の先には、既に尖塔の入口が現れていた。
審判者の消滅によって住民たちの動きも鈍っている。今なら中枢へ到達できそうだ。
「行こう」
私はエニグマを追い越した。
「あっ、隊長の格好いい締めの台詞を奪うな!」
「時間がないんだもん」
「そういう合理性は私にこそ似合うのだが!」
「合理性があると本気で思っているのか……」
サイファーの呆れ声を引き連れ、三人は尖塔へ駆け込んだ。
第一部は大体30話程度で締めくくるつもりです。悪夢の旅路を共に乗り越えていけたら幸いです!




