死別
私は、今日も美術室へ行くんだ。だって、彩人の為に、描かなきゃいけない絵がある、いや、描きたい絵があるから。放課後の廊下、私は小走りで、美術室へ向かった。
夕日が眩しくて、私は目を細めた。キャンパスも、塗ったばかりの絵の具に、光が反射してキラキラしている。
「何描いてるの」
彩人は、いつも来てくれる。最も、最初は私が誘ったんだけど。私の横で、眠そうにしている彼は、斉藤彩人。絵の才能ならピカイチ!なのに、先輩達に虐められて、美術部に来なくなった。だから、部長の私が、何とかしなきゃって、部のない日に、放課後の美術室に誘ってるんだけど……。
「彩人、稲垣先輩は、もういないんだし、部に顔出しても良いんじゃないかな」
「いや、なんだかんだ、新井さんに迷惑だし」
彩人ったら、いつもこんな調子で、あれから変わったのか、変わってないのか。本当は、凄い絵の才能があるのに、今や学校の除け者だ。
「で、いつも、何描いてるの」
彩人は尋ねる。今まで、一度も聞かれたことがないのに、こういうところだけ、前より積極的なんだから。私が描いているのは、彩人が、初めて私を助けてくれたときの、あの気持ちだ。あのときのこと、彩人は覚えてるかな。
あれは、半年前、まだ梅雨で、ジトジトしていたころだった。美術室の扉の前、私は、稲垣に言い寄られていた。
「嫌だって言ってるでしょ」
「おう、俺の誘いを断るのか。それも悪くない。だが、それなら……」
すると、後ろにいた、竹刀とバットを持った三年生の二人が、稲垣の前に出てきてた。
「その場合、お前のべっぴんな顔を失うことになるぜ」
二人は、それぞれバットを振り回したり、竹刀を肩にトントンしながら、気味悪い笑みを浮かべていた。私が、恐怖の余り、何も言えず、怯えていたところ……。
「何やってんだ!お前ら!」
怒鳴り込んで来たのは、彩人だった。あの時の彩人の顔、怒りに満ちていて、でも、その眼差しは正義そのもので、稲垣を睨みつけるその姿は、まさにヒーローだった。
彩人は殴られても殴られても抵抗し、最後には、バットを持ったヤツの足にしがみついて、そのまま気絶した。最終的には勝てたけど、三人共、彩人の思った以上の粘りに、息を切らしていた。他の二人が、疲れて帰ろうとすると、稲垣が言った。
「まあ待て、なあ、部長さんよ。俺たちを美術部に入らせてくんねえか」
私は、言っている意味が分からなかった。コイツらが、美術部に?絶対ダメだ。
「ダメです。美術部は、絵と芸術を愛する者だけの場所です!あなた達のような方はお断りです」
すると、稲垣は私の肩に手を置いて言った。
「俺の、何を見て絵と芸術を愛する者じゃないと思ったんだ」
「いや、それは……」
私が言うと、稲垣は、手を置いたまま、私の顔をぐっと覗き込んで言った。
「じゃあ、入部を許可してくれるんだな」
「……」
私は何も言い返せなかった。次の週から、稲垣達は美術部に入部した。稲垣達が来てから、最初の2日は、彩人も来ていたけど、3日目からは、ぱったりと来なくなった。稲垣の狙いはそれだった。稲垣は、私を手にする為、邪魔な彩人を排除したのだった。私は、彩人に申し訳なくて、何とか彼の居場所を確保したかった。部のない日に、美術室を借りて、県展に出す絵を描いて良いかと訊いたら、池田先生は許可してくれた。場所ができたから、放課後の部のない日に、私達は美術室に集合することにした。
「じゃあ、見てもいいよ」
私が言うと、彩人は立ち上がって、私の絵を覗き込んだ。まるで評論家みたいに、顎に指を当てて見ている。ちょっと、何で急にそんな、真剣に見るの。今まで、一度も見たことなかったのに……。私が困っていると、彩人は言った。
「海に浮かぶヨットに手を振っているんだね。しかも、第三者視点ではなく、主観的なのが良い。左上に、観測者自身の左手だけが描かれていることで、物語を読むみたいに、一人称として没入できる」
彩人は、真剣な目で私の絵を見たまま、独り言みたいにブツブツと続ける。
「波の生きてる感じや、間にテトラポッドを置くことによる奥行きの作り方、そして、観測者が、ヨットに特別な希望を持っていることが、一目で分かる色遣いと構図が、流石部長だね」
いっぱい話してくれてる!私は、彩人がこんなに夢中で喋ってくれることが、本当に嬉しかった。それに、こんなに私の絵について、真剣に語ってくれるなんて、嬉しくて、心が温かくなった。心が温かくなったから、顔も多分、少し……。
「紗陽?大丈夫?」
「ばか!下の名前で呼ばないでって言ったじゃん!」
「ご、ごめん……」
彩人は、申し訳なさそうに目を逸らした。い、いや、今のは急だったから、多分、私、顔真っ赤だし、まだ、恥ずかしいから。
「私こそ、ごめんね。彩人は、戦ってくれたのに。私は、何もできなくて」
私は、謝罪を打ち消す為に、謝罪を被せた。彩人は、キョトンとしている。覚えてないなんて、ずるいよ。でも、辛い記憶は、ない方がいい。だから、忘れていていい。いや、忘れていて欲しいんだ。彩人は、暫く私の顔をじっと見つめて、それから言った。
「紗陽、紗陽は、いいヤツだな」
何だよそれ。いいヤツって何。彩人は、そっぽを向いている。何、今のが全力の愛だったの。だとしたら、何て言葉足らずなヤツなの。
「ふーん……ありがとね」
私は私で、こういうとき、上手く言えない。外はもう暗くて、窓ガラスは鏡になっていた。そして、この状況も、気まずく映し出している。気まずいのは、伝えるのが下手だからだ。お互いに、なんだかんだ、色々。
「じゃあ、俺は帰るぜ」
彩人は、鞄を背負って言った。
「待って!今日も一緒に帰るって!」
私は、約束を破られそうになり、慌てて言った。でも、彩人は言った。
「悪いな。急に父さんが帰ってくることになったんだ。急がないと」
彩人のお父さんの話は知っている。家族を捨てて、海外へ行ったんだって。どうして急に帰って来るんだろう。それより、彩人は大丈夫なのかな。お父さんのこと、大っ嫌いなのに。
「彩人……」
私は声を掛けようとしたけど、彩人はバタバタと美術室を出たので、私は何も言えなかった。本当は、とても心配。彩人、お父さんと会うのは、もの凄く辛いはずだから。辛いのを見せないように、わざと急いでいなくなったんだと思うし。私は、何もできないのが悔しい。心配で外を見たけど、彩人の姿は見えなくて、鏡になった窓ガラスに、私の姿が、弱々しく写っていた。
雨が降り出した。私は、今まさに、靴を履こうというところだった。雨は土砂降りで、これは帰れないなと思った。貸し傘も、今日は一本もない。参ったな。まるであの日みたいだ。彩人と相合傘した、あの日みたいに。あのときは、本当に嬉しかった。彩人が、一緒に相合傘してくれるなんて。そんなことを思ってぼーっとしていたら、下駄箱の外に人影が見えた。渡り廊下の電気のせいで、顔が影になっている。更に、雷がドカンと落ち、そのシルエットを照らす。お化けだ!
「キャー!!!」
私が腰を抜かして叫ぶと、ソイツは中に入ってきた。私は死を覚悟して目を閉じた。
「おい、大丈夫か」
すると、聞き慣れた声がして、見上げると、三上先生が手を差し出していた。
「おわ、先生か!私、てっきりお化けだと思って……」
すると、三上先生は、呆れた顔をしていった。
「全く、せっかくわざわざ助けに来てやったのに、お化けとは、失礼な奴だな」
そしてすぐ、ニマっと笑って、
「お前、お化け信じてるのか、ククッ」
と言った。
「せ、先生……揶揄わないで下さいよ」
私は、顰めっ面をして言った。だって、今の登場は、誰が見たってお化けだよ。窓の外で、雨がザバザバ降り続ける。
「新井、傘ないんだろ。送ってってやるよ」
「え!良いんですか」
とても困っていたから、本当に有り難い。私は、三上先生の傘に入って、車へ向かった。赤色のスポーツカー。半年前、これのトランクに入れて誘拐されたので、少しトラウマが蘇る。私は、助手席に座って、それから、三上先生は、エンジンを掛けた。
「もう12月だってのに、せめて雪にしてくれよな」
「そうですね。雪なら、綺麗なのに」
三上先生は、丁寧に運転しながらボヤいた。もっと運転荒いのかと思ったけど、この雨でも、もの凄い乗り心地の良さだ。そういえば、前もトランクで寝ちゃったっけ。三上先生は、ニヤッとする。何か、幸せそうだ。
「こうやってるとさ、非日常って感じで、ドキドキするよな」
フロントガラスに、前も見えないほど、雨が叩きつける。一寸先は闇、二人きりで、いつもとは違う景色と状況。間違いなく非日常だ。そして、私も……
「ドキドキしますね」
三上先生は、私の声を聞きながら、目線はしっかり前を見て、鋭い目つきなんだけど、口元を緩ませている。そして、今まで味わったことのない、柔らかなアクセルとブレーキ。彼女の、かっこよくて優しい性格が滲み出てる。私が見惚れていると、三上先生は、フッとこっちを見て言った。
「斉藤とは、あれからどうなの」
「え!えと……」
急に彩人の話をされたので、私はおどおどしてしまう。だって、さっきだって、彩人のことを想っていたのに、また、私の知らない世界へ行ってしまったみたいで、怖かった。私は、彼の家族のことは、分からない。分かりたいのに、触れて良いのか分からない。私が顔を曇らせていると、三上先生は言った。
「そっか、何かあったんだな。じゃあ全部言ってみろ」
「ぜ、全部ですか」
「おう、全部」
三上先生は、真剣な顔つきにで言った。全部……でも、この人は、全部聞いて、全部受け止めてくれるのを知ってるから、私の口は、勝手に動いていた。
「彩人は、今日、お父さんが帰ってくるんです。だから、もの凄く辛いはずで、でも、私、何もできなかった。彩人が、辛いのを隠してるのを知ってたのに、何もできなかった」
私は、気づいたら泣いていた。泣くなんて、思わなかったから、自分でも驚いている。三上先生は、私の嗚咽を聞いて、喉で溜息を吐いた。雨の中、横断歩道で、少女が手を挙げていた。三上先生は、ゆっくりと停車して、少女を見送り、発進した。暗闇の先に、街明かりが見えてくる。
「お前は、光なんだよ」
「え」
三上先生は、その明かりに向かって進みつつ、言った。
「斉藤にとっての、な。だから、お前は斉藤を信じてやれ。あいつ、最近迷いがないと思わないか」
「ええ、何となくですが……」
確かに、彩人は、少しずつ強くなってる気がする。もちろん、ヒーローなのは同じなんだけど、前より、何か、大人になったというか……。三上先生は、繁華街の、一番明るい駐車場に車を停めた。って、ここ、私の家じゃなくて、ネカフェじゃ!?
「さ、着いたぞ」
「いや、ここ、私の家じゃないですよ!」
すると、三上先生は、また、呆れた顔をした。
「じゃ、トランク開けろ」
「え……」
私は、嫌な予感がしたけど、恐る恐るトランクを開けたら、そこには、何と……
「ん〜、ん〜」
手足を縛られて、口にガムテープを貼られた、彩人がいた!!
お姉さんが、マイクを持ってきた。別に、歌わないけど。三上先生は、あぐらをかいて、ビールを飲む。別に良いけど、それにしたって……
「いや、三上先生。俺、ここにいたらまずいんですが」
彩人が言った。私も、同じ意見だ。
「でも、助かったろ」
「助かってはいますけどね。でも、先生、多分、やばいですよ」
それも同意見だ。その、やばいの意味は、まず、彩人としては、お父さんに不審に思われてるということ。そして、三上先生的には、未成年の生徒二人を誘拐して、ネカフェで酒飲んでること。その二つ。それより、二度も、生徒を縛ってトランクに詰め込んでたのか、この先生……
「おう、お前ら、遠慮せずに歌って食えよ。私の金だから、遠慮すんな」
三上先生は、ビールをグビグビと飲んで、プハーッと言った。それでも、嫌いになれないな、この人。すると、突然、カラオケの音楽が流れ出した。
「ずっと探してる〜黄色の……」
そして、彩人が歌い出した。いや、歌うの!?普通、誘拐された張本人は、カラオケで歌ったりしないと思うけど。
「失礼します。ピザです」
「わあー!ピザ!」
私は、その美味しそうなピザに、彩人の歌なんてどうでもよくなってしまいました。三上先生は、それを見て、不思議そうな顔をします。
「ピザ、頼んでないよな。間違ってるから連絡しよう」
「あー、待って下さい!私が注文しました!」
私が咄嗟に手を挙げると、三上先生は、プッと吹き出した。
「お前、乗り気じゃない顔して、ちゃっかりしてるな」
だって、お腹空いてたんだもん。彩人を見ると、ノリノリで歌っている。あれ、そういえば、割と歌も上手なんだ。三上先生は、ビール片手にリズムを取っている。私はピザを頬張る。美味しい。外は雨が降り続いているのでしょう。でも、この秘密の部屋には関係ありません。私は、それがとても幸せで、心から嬉しさを感じていました。
「で、どういうことか、教えてくれます?」
夜も更け、みんな歌い疲れたとき、私は三上先生に尋ねました。聞くのに、こんなに時間が掛かってしまったのは、やっぱり楽しくて、時間を忘れていたからです。三上先生は、もうだいぶ酔っていて、半目で私を見つめました。それから、回らない舌を回します。
「斉藤はよ、嘘ついてんだ、お前に、いつも。そりゃダメだろ。だから、お前に、本当のことを言わせるために、とっ捕まえて……」
三上先生は、そこまで言って、テーブルに頭を落とした。ガンと音がしたので、私と彩人が慌てて立ち上がったら、グーグーといびきが聞こえて、三上先生は、むにゅむにゅと眠り始めた。私達は、顔を見合わせて、苦笑いをした。
「三上先生らしいな。まあ、さっきもさ、俺、実際逃げてたし」
彩人は、座り直しながら、ボソボソと話し始める。私も座って、彩人の話を聞く。
「俺、父さんには会いたくなかったんだ。それは間違いなくて。でも、会わなきゃいけないのかなと思ってた。大嫌いなのに」
「うん」
私は、彩人の語りを邪魔しない様に、相槌を打つ。否定も肯定もしないで、ただ、受け止めたい。そんな真剣な気持ちで聞いている。三上先生のいびきBGMが、少しシュールだけど。彩人は続ける。
「でもさ、俺は心のどっかで、紗陽が助けてくれるんじゃないかって、思ってしまってたんだ。あのとき、美術室でさ……」
私は、相槌を打てなかった。そんな場合じゃなかった。私は、彩人を助けたかったのに、助けられなかった。そして、彩人は、私の助けを望んでいた。その事実は、私の胸を、ナイフの如く貫いた。私は、心がズキッと痛むのを感じて、床に目を逸らした。
「でも、これは俺の問題だから、紗陽に迷惑は掛けたくなかった。だから、わざと急いで、美術室を出たんだ」
そうだったんだ……私は、あのとき、彩人を引き留めなきゃいけなかったんだ。例え、どんなことをしても。私の視界が滲んだ。あれ、泣きそうだ。私がしゃっくりをして、泣きそうになったとき、彩人が言う。
「いや、でも、その瞬間、三上先生に拘束されて、気づいたらトランクにぶち込まれてたんだよな」
私は、全てを納得したと同時に、涙が完全に乾いた。この先生、全部分かっててやってるんだ。私達の関係について。それにしたって、やってることは荒技すぎるけど。
「そっか」
私は、やっと声を出した。彩人の気持ちについて、嬉しかったのは正直、でも、半分は、あのとき、どうもできなかった自分への後悔で、胸が痛む。私が、何とか引き留めていれば良かっただけなんだ。できなかったから、彩人にも、三上先生にも迷惑を掛けてしまった。私は、彩人を救いたくて、絵を描いてきたのに、その私の弱さで、彩人を傷つけてしまうなんて。私は苦しくて仕方なかった。すると、彩人も同じ様に、苦しい顔をして言った。
「お、俺は、紗陽が大好きで、だ、大好きだから、迷惑掛けたくなくて、父さんのことは、流石にダメだと思って、走って、だ、だから……」
うん。もう伝わってるよ。引き留めるとかじゃ、ないんだよね。言葉は途切れ途切れでも、その気持ちが、ちゃんと分かった。あの日の告白と、何も変わらない。彩人は、不器用だけど、自分の気持ちを正直に言ってくれる。でも、私は、逃げてばっかりだった。でも、今度は、ちゃんと言いたい。怖いけど、逃げないでいたい。彩人の為に……
「私も、大好きだよ」
「え……」
彩人は、一瞬キョトンとしたけど、直ぐに状況を理解して、赤くなってそわそわした。私は、一所懸命に、彩人を見つめる。どんな結果でも、受け入れられるように。彩人の苦しみは、私が、告白に返事をしていなかったことだ。例え、名前で呼び合う仲になっても、私が、告白を無視し続けていることに変わりはなかった。それが、彩人を苦しめていた。私は、彩人の為に絵を描いているつもりで、目の前の彩人の気持ちに、気づけていなかった。彩人は、赤い顔のまま、目線を天井にやったり、床にやったりした後、私の目を見て言った。
「あ、ありがとう……本当に……ありがとう、ね……」
そのときの彩人の顔、私、一生忘れないと思う。例えるなら、壁が崩れて、崩れた先に、ナイアガラの滝があって、その神秘に胸打たれているような。嗚呼、人は、これを見るために、生きているんだなと、ハッキリ分かってしまうような、美しい表情。私がうっとりしていると、彩人は言った。
「お前……やっぱ、綺麗に笑うよな」
「そ、そうかな」
私はほっぺをかきかきしながら言った。照れ臭いけど、これ以上に嬉しいことはないと思う。彩人も、私の中に、ナイアガラの滝を見つけてくれたんだから。私が思ったと同時に、三上先生がもそっと顔を上げる。
「ん、寝ちまったかな。あれ、お前ら、何ニマニマし合ってんだ。ちょっと引くぞ」
そう言って、グラスに残ったビールを一気に飲み干した。全く、水を差すとはこのことだ。
「あ、そこの角です」
「オーケー」
三上先生は、左右の安全を確認して、ゆっくりとハンドルを切る。ウインカーの音がスローモーションに聞こえるほど、冷静なアクセル。ルームミラーで目が合うときの、優しいのに鋭い目。バスの運転手さんだって、こんなに丁寧な運転はしない。カーブを曲がり切って、車体は路地裏の直線に入る。穏やかな日差しの中、街路樹を進んで、素敵な休日って、こんなのを言うんだろうなとか思いながら、私達は手を繋いでいる。ふと、彩人は、私の方を向いて言った。
「明日こそ、スケッチ、行こうな」
「あ……うん、行こうね」
そう言えば、スケッチに行く約束、まだ果たしていなかった。初めは私が誘ったのに、今度は、私が誘われちゃった。彩人の横顔は、凛としていて、かっこよかった。なんか、立場が逆転したみたいな、いや、きっと、彩人が大人になったんだと思う。今までは、私が彩人を励さなきゃって思ってた。ヒーローなのに、自覚ないし、暗くて、閉じこもってて……
「俺さ、紗陽がいてくれて、本当に良かったと思ってるよ」
「な、何さ、急に」
もしかして、手を繋いでたら、心が伝わっちゃうのかな。だとしたら、全部ばれちゃう……手、離さないと。すると彩人は、私の手をぎゅっと握って言った。
「頼むから、いなくならないで。俺、紗陽がいないとどうしようもないんだよ。だから、いなくならないで」
彩人の顔を見ると、さっきの凛とした姿は何処へやら。初めて美術室に誘ったときと同じ、弱々しい顔をしていた。やっぱり、私がいなきゃダメなんだから。私は、繋いだ手と反対側の手で、彩人の頭を撫でながら言った。
「大丈夫、彩人は、彩人が思うより、ずっと輝いてるよ」
それを聞いて、三上先生はケタケタと笑って言った。
「お前、良いこと言うなぁ。先生も見習わなくっちゃな」
「そ、そんなっ、恥ずかしいからやめて下さいよ」
彩人は、無垢に笑って、私の方を見た。私も釣られて笑って、それだけのことだけど、とても嬉しかった。彩人の家まで、後もう少し。私は、明日、彩人とスケッチに行ける喜びで、胸がいっぱいだった。三上先生は、鼻歌を歌っている。その向こうには、冬の青空が広がっていて、何処までも遠く、行けるような気がした。
目を覚ましたら、目を覚ませていなかった。辺りは暗くて、何も見えない。音も聞こえない。
「彩人……」
私は呼んだけど、呼んだはずの声が、声として聞こえない。ここは、何処なんだろう。状況が理解できない。暗い、怖い。
「彩人!!」
もう一度、私は強く呼んだ。でも、何も聞こえない。目の前には、暗闇が、いや、正確には、私が暗闇そのものみたいな感じだ。空間がなくて、薄っぺらい、意識だけがあるみたい。
「……」
もしかして、私、死んだ?まさか……そんな筈ない。死んだりする筈ない。そんな訳ない。だって、これからいっぱい、彩人と一緒にいるんだから、今死ぬ訳ない。死ぬ訳がないんだ。絶対、絶対にないんだ。
「彩人、助けて!!」
……助けてくれない。助けてくれない。どうして。本当に、私、死んだの?そんな訳ない!死ぬなんて、あり得ないよ。彩人、助けてよ。彩人!彩人!!
「彩人!!!!!」
私は叫んだ。でも、叫んだつもりなだけで、その声も言葉も、何処にも響かなかった。そして、私は悟った。死んだんだって。苦しい。やっと彩人の為になれて、やっと明日、スケッチに行く筈だったのに……
「ああああん!」
私は、誰にも、私にも聞こえてないその声で、泣き叫んだ。時間なんてもうないけど、苦しいくらい泣いた。泣いて、泣いて、もう泣いても意味ないって分かって、それでも泣いて、泣き喚いていたら、段々、意識そのものが消えていく感じを覚えた。
「やだ、まだ、消えたくないよ……彩人」
でも、吸い込まれるみたいに、どんどん自分がなくなって、分かってたのが分からなくなって、分からないのも曖昧になって……曖昧がよく分からなくなって……




