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和合

「昨日は何故家に帰ってこなかったんだ、彩人」

「……色々と忙しかったんだ、疲れてるからもういいか」

夜明けのネカフェから直行だからな。俺は、父さんを押し退けて、家に上がろうとする。すると父さんは、俺の肩に手を置いて言った。

「待ちなさい。それが父さんに対する口の利き方かい」

「ああ、そうだよ。いつも家に居ないくせに、偶に帰って来たときにだけ親振りやがって」

すると父さんは、もう片方の肩にも手を置いて、胸糞悪い顔を近づけて言った。

「いいかい、親というのは、いつも家にいる存在じゃない。働いて、養う存在だ。それともお前は、仕事をせず家にいるだけの存在を、親と定義するのかい」

「……」

何も言い返せなかった。そんなことはどうでもいい。とにかく、早く独りになりたかった。しかし、父さんは続ける。

「とは言え、ずっと家に居ないのも良くない。俺は、いつも、彩人とお母さんを気にかけているのだからね」

何故コイツは、そんな嘘をぺらぺら喋ることができるのだろう。お母さんが死んだ直後、この糞愛人を連れて来た癖に。海外にも愛人が沢山いて、アイツがいつも、電話で父さんと言い争ってるのは知っているんだ。

「だからな、今日は、家族水入らず、仲良くしようじゃないか」

それを聞いて、俺はいよいよ耐えられなくなった。

「黙れよ!独りにしてくれって言ってるだろ!!」

その瞬間、奥の部屋からアイツがドカドカと歩いて来て、俺を殴り倒した。俺は頭を打ち、星が回った。

「なあ、アンナ。余り強く殴るなよ。顔が傷付いたら困る」

「分かってるわよ。コイツ、いつも態度悪いから、一回くらい殴り飛ばしたかっただけ」

俺は、段々、意識が遠くなるのを感じた。


そこは、真っ暗な世界だった。そこには何もなくて、何もないから、温度も感じないけど、何となく冷たい感じがした。但し、何もないことを認識できる以上、何もないと言っている自分は確実に存在しており、温度がないということは、温度という概念を所有しているということだ。つまり、所謂マルチバースではなく、ここは、現実の概念が通用する異空間であり、何となく冷たい感じがするということは、人間としての感性も存在する。つまり、これは、人間の見ている可能な限り無を具現化した夢である。しかし、無とは無いから無なのであり、依って、これは可能な限りの具現化の域を超えない。などと分析をしていると、遠くから、誰かの声が聞こえた気がした。遠くがあるということは、距離があり、故に空間が存在する。しかし、気がするということは、心がその距離をも再現しただけである可能性もあり、一概に断定はできない。

「彩人!!」

ハッキリ聞こえた、紗陽だ!

「紗陽!!!!」

どうしたんだろう、声が出せない。しかし、当然と言えば当然だ。ここは無が最大限具現化された世界。無の世界で声が出せる訳がない。

「彩人、助けて!!」

「!?」

何だ、この夢は。何故、紗陽は俺に助けを求めるんだ。助けろったって、声も出せないのに、どうやって。いや、待て、声が出せないなら、紗陽も同じ筈だ。それなのに、声が聞こえるということは、俺も声が出せるということだ。

「彩人!!!!!」

今までに聞いたことのない声で、紗陽は俺の名前を絶叫した。これはただ事じゃない。俺も精一杯の声で叫んだ。

「紗陽あああああ!!!!!!」

しかし、その声は音として発生しなかった。目の前にあるのは、ただ暗黒だった。何もなかったかのように、何も聞こえない。今のは、何だったんだ。何だか、凄く、嫌な感じがした。怖かった。紗陽が、永遠に居なくなるみたいで。

「あああああん!」

そして、聞こえた。まだ、紗陽が居る、今ならまだ間に合う!俺は走った。何処へ?分からない。でも、何となく、こっちの方だって方向へ。方向?それがあるのかも分からない。でも、俺は走った。走って、走って、そもそも走れているのか分からないけど、走った。そして、見つけた。

「紗陽!!!!!」

しかし、そこに居た紗陽は、肉体ではなかった。ただ、その存在をその存在たらしめる何かがあった。そして紗陽は、呟いた。

「やだ、まだ、消えたくないよ……彩人」

「消えるわけないだろ!ここに居るじゃないか!!絶対消えない!!」

俺は叫んだが、紗陽には聞こえていなかったのだろうか。俺は段々、体の感覚が戻って来て、テレビの音が聞こえ始めた。意識が目覚める準備を始めたらしい。嫌だ、駄目だ、紗陽を助けないと……


「紗陽ああああっ!!!!!!」

目を覚ますと、俺はリビングの床に寝かされて居た。さっき殴られたところが痛い。たん瘤になっているみたいだ。見上げると、父さんとアイツが食事をしていた。父さんが俺に言う。

「彩人、御近所迷惑になるから、大きな声を出すのはやめなさい」

俺は目を逸らす。テレビでは、今日もゴミみたいなニュースをやっている。

「ねえ、今コイツが叫んだのって、この新井紗陽かな」

「何故その名前を知っている!」

俺は思い切り立ち上がり、アイツを睨みつけた。今までの人生で、人をこんなに鋭く睨みつけたことはない。依って、俺は今、何よりも理解できない怒りで満ちている。アイツが知る筈のない、俺の大切な人の名を口にしたからだ。

「彩人、大きな声を出すのはやめなさい」

「うるせぇ!」

俺は睨みの矛先を父さんに移す。父さんは、睨み返すでもなく、ただ、冷ややかな目で俺を見た。

「はあ、知りたかったらニュース観ろよ。今やってるから」

俺はテレビの画面に目をやった。報道の内容はこうだ。トラックと乗用車の人身事故。死者2名、重症者1名。死亡者名、三上照代(23)、新井紗陽(14)。意識不明、トラック運転手、真田徹之(58)。現場は、見通しの良い閑静な住宅街である。

「ちょっと待てよ、これはどういうことなんだ」

俺は、父さんとアイツに尋ねた。普段ならそんなことはしない。相当に動揺しているのだろう。実際、俺は、心臓が物凄い速さでバクバクいっているのを感じた。

「どういうことも何も、お前がさっき叫んでた人間が死んだんだろう。もう死んだんだから、叫ぶなよ。父さん、無駄なことは嫌いなんだ」

父さんは咳払いをして言う。アイツを見ると、クスクスと笑いを堪えているようだった。

「さあ、そんなことはどうでもいい。早く席に着きなさい。料理が冷めてしまうよ」

俺は愕然とした。三上先生と、紗陽が……死んだ?そんな、そんなの嘘だ。嘘だ。しかし、現にテレビでは、ニュースが放映されている。そうだ、これはドッキリだ。アイツが笑っているのも、ドッキリだからだ。父さんなら、人が死ぬことも、平気でネタにしそうだし。それなら辻褄が合う。

「はっはっはっは!!!全部辻褄が合ったよ!」

パシャ!俺が見破って大笑いしていると、父さんが俺の写真を撮った。すると、アイツが俺の肩を組んで、ピースをした。成程、ドッキリ大成功〜の写真だな。コイツらは嫌いだけど、まあいい。嘘だと分かるなら、それくらい。

「ピース!!」

パシャ!

「いいぞ!彩人!その笑顔を待ってたんだ!さあ、一緒にご飯を食べよう」

「お、おう」

俺は、言われるがまま、席に着いて箸を取った。すると、父さんが横に来て、俺の肩に手を置いた。

「アンナ、撮ってくれ」

パシャ!コイツらのことは嫌いだし、人の死をエンタメに利用するのは気が引けるが、とにかく、三上先生と紗陽が生きているなら、今はそれでいい。俺は、ご飯を頬張り、写真を撮られ続けた。


昼食を食べ終わった俺は、父さんに、公園でバトミントンをしようと持ちかけられる。成程、ドッキリの種明かしは、外でするんだな。まあいい、その位は付き合ってやろう。それに、アイツが、さっきから俺に優しい。若しかして、さっきから俺が笑顔だからか。確かに、俺は母さんを失ったショックで、アイツに辛く当たりすぎていたかも知れない。だから、アイツが俺に辛く当たるのも、その裏返しだったのかも知れない。

「行くぞ、彩人」

「ああ」

ラケットは、驚いたことに、父さんが用意していた。これは、俺の為にか。俺は、ラケットを下げた父さんの背中を追いながら、家を出た。アイツも、俺の後ろを着いて来る。何だか、家族水入らずって、こういうのを言うんだろうか。俺は、初めてのことだった。俺は何だか嬉しくて、でも、同時に申し訳なくなった。今まで、俺は父さんのことも、アイツのことも、誤解していたのかも知れない。母さんが死んで、俺は、その悲しみを、周りの人間への恨みに変えてしまっていたのかも知らない。前を歩く父さんの背中は、デカくて、何だかカッコよく見えた。そして、俺は、今までのことを、謝りたい気分になった。

「父さん、今までごめ……」

「ん、何だ、彩人」

俺は言いかけて、息を呑んだ。それは、さっきニュースで観た、交差点だった。そこには、ニュースの映像通りに、トラックが山に激突していて、その間には、三上先生の赤いスポーツカーが……

「と、父さん、もう分かったから!早く種明かしをしてくれよ」

俺は気が動転していた。父さんの体をガタガタと揺さぶった。すると、父さんは呆れた様子で言った。

「何を、言っているんだ?」

「!?」

俺は、頭がおかしくなりそうだった。じゃあ、全て、嘘なのか。いや、全て嘘というのは嘘で、つまり今、この現状が本当で……つまり、紗陽は、三上先生は……

「ちょっと、立ち止まんないでよ。こんな事故現場じゃ、ブログ用の写真は撮れないんだから」

「ブログ……」

アイツは、ハッとした顔をした。すると、父さんはやれやれという顔をして言った。

「父さんの日常を、会社のブログに掲載するんだ。その為の写真撮影だ」

え、つまり、さっきから撮られてる写真は、ドッキリ大成功の写真じゃなくて、父さんのブログの為の……

「彩人、バトミントンのときも、さっきの笑顔を頼むよ。映えるから」

「うわあああああああああああああ!!!!」

俺は発狂した。もう誰の声も聞こえなかった。多分、父さんとアイツが俺を押さえ付けてた。事故現場にいた警察が、こっちへ駆け寄って来た。それでも俺は叫び続けた。もう誰の声も聞こえていなかった。自分でも制御できなかった。何も理解できない。とうとう、俺は壊れてしまったのか。思考が正常ではない。警察が、俺と父さん達を引き離す。俺は警察に連れられて、叫びは嗚咽に変わった。泣きじゃくる。その一瞬は、まるでパラパラ漫画みたいに過ぎている。そのまま、俺はパトカーに乗せられ、サイレンの音が聞こえた。その後、多分、パトカーは交番に行ったと思うけど、それは推測で、実際の記憶はない。


気がつくと、俺は玄関で靴を履いて立っていた。何でこうなっているのか、全然分からないが、自分の筋力で立っている時点から、この記憶が発生している為、寝ていた状態を無理矢理連れて来られた訳ではなく、自分の意思で、いや、意思は今目覚めたのだから、自分の意思ではないが、自分の体でここまで来たのは確かだろう。しかし、何故、俺はこうしているのだろうか。見上げると、二人の人間が俺を見下ろしていた。父さんと、アイツだ。

「死ね」

アイツは俺に言った。しかし、俺は何も感じなかった。何故何も感じないのか、自分でも驚いた。

「彩人は俺の血を引いているから、もっと優秀な子だと思っていたよ。恐らく、もう一人の血統が悪かったんだろう。まあ、それは仕方のないことだ」

そう言って、父さんは、俺の頭を撫でた。物理的接触は確認できたが、所謂愛情は感じられなかったし、今までのような嫌悪感も見出せなかった。

「父さんは、これでも、彩人に目を掛けてやったつもりだ。それなのに、昨日は警察沙汰の時間を起こしたね。依って、ブログに掲載する話はなしだ」

「あんなの、載せる価値ないわよ。途中、笑ってたのも薄気味悪かったし」

ああ、あのときか。あのとき、確か、テレビを観てて、それで……

「紗陽の話はするなよ!!!!ぶっ殺すぞ!!!!!」

「は、はあ?私何も言ってないけど。アンタのオンナのことなんか興味ないわよ」

気づくと、俺は拳を振り上げていた。ハッとしたが、拳は前に飛び出した。

「やめなさい!」

俺は父さんに抑えられる。体が言うことを効かない。俺は父さんを殴りそうになった。そのまま殴っても良かった。しかし、俺は何故かフラつき、足を滑らせて転んだ。

「いっ……」

転んだ俺を、二人は冷ややかな目で見下していた。ここは俺とは別の種類の人間が暮らす家だ。これ以上、俺がここに居住することは不可能だ。俯く俺に、父さんが手を差し出した。

「彩人、お前は血統が悪かっただけだ。安心しろ。俺はアンナと新しい子供を作る。お前が役に立たなくても、俺の会社は潰れない」

「ホント!?嬉しい!!」

アイツがきゃんと騒いだ。もういい。もう流石に気持ち悪い。何も感じなかった筈の俺の心に、気持ち悪さだけが表れた。

「だから、いいな。お前は自分で死ぬんだ。これが、お前の最後の使命だ。できるよな」

「はい」

今、父さんが何を言っていたか分からない。恐らくだが、出て行けと言われたんだと思う。俺に何かを告げた後、父さんは、アイツと深くキスをした。俺は気持ち悪るさがピークになり、家を飛び出した。何を言われたか分からないが、恐らく、出て行けと言われた筈だ。これでいい。しかし、踏み出す一歩が重い。何故だろう。しかし、その重さは、リュックの重量によるものだと、直ぐに理解した。何故なら、父さんやアイツと縁を切れるのは、願ってもないことて、ここに留まる理由はないからだ。

「おい!ドア閉めろや!!」

路地の角まで来たとき、アイツの怒鳴り声が聞こえたが、俺は、振り返ることなく進んだ。ただ、ひたすらに、少し早歩きで。暫く歩いて、俺はふと立ち止まり、目を擦る。気づいたら、見えにくくなっていた目を。なんだろう、世界とピントが合わない。視力は普通だと思う。でも、昨日から、何も見たいと思えなくて、それで目が、見る気をなくしている様な、そんな見え辛さだ。俺は、歩き出す。が、足取りがふらついて、上手く歩けない。意識ははっきりしていると思う。12月に熱中症は、時期じゃない。なんだこれ、こういうの、千鳥足っていうのかな。お酒飲んでないけど。飲んでないから、ノンアルコール千鳥足?面白いな。面白い。フフッ。

「ハッハッハッハ!ハーッハッハッハ!!」

急に面白さが込み上げてきて、俺は大爆笑した。笑いが止まらなくて、倒れそうだったから、ガードレールにもたれかかった。面白すぎる。気付くと、買い物帰りのおばさんが、俺を冷たい目で見ていた。俺はイライラした。

「見てんじゃねえよ!死にてぇのか!!」

すると、おばさんは驚いて、走って逃げ出した。辺りはシーンとなった。ふふっ、どっか行けと思ったら、本当にいなくなったぜ。若しかして、全ては俺の思い通りか。そうだ、何だって思い通りなんだ。俺は全知全能だ。だから、これまでの出来事だって、家を追い出されたことも、稲崎に殴られたことも、三上先生に怒鳴られたことも、それから……

「うっ、うっ……」

俺は、思い出してしまう。昨日のこと。俺と別れた直後、紗陽と三上先生が、交通事故で死んでしまったこと。ニュースのアナウンサーの声が、頭の中で響く。家からすぐ目の前の通りだった。トラックが山の斜面に突っ込んでいた。その隙間に、あってはならないものが挟まっている映像……思い出してしまう。フラッシュバックする記憶。俺は頭を抱えて、地面に倒れ込んだ。

「ああああああああああああ!!!」

思考の中に、何度もあの瞬間が現れる。死にたい。もうこんな仕打ちには耐えられない。「斉藤君、大丈夫かい!」

俺はソイツを睨みつける。そこには、自転車に乗った田中君がいた。俺は咄嗟に叫ぶ。

「うるせぇ!死ねええええええ!!!」

「そ、そんな。君がそんなことを言う奴だったなんて……ちょっとガッカリしたよ」

田中君は、冷たい目で言って、自転車を漕ぎ出した。あんな奴、初めから友達じゃねえよ、クソが。俺は、ガードレールに掴まって、ふらふらと立ち上がる。霞んだ視界の先で、夕日を反射して揺れる海が見えた。

「海……海へ……」

俺は、再びノンアルコール千鳥足で歩き出す。ノンアルコール千鳥足……ぷっ!

「アハハハハハハハハハハハハ!!!!」

面白すぎて、腹が捩れるほど笑った。笑いすぎて歩きにくい。前進、歩くとは、前に進む為の行いだ。俺は、それを選択しただけでも、俺は素晴らしい善行者なのだ。例えそれが、自らの死を求める一歩でも、それは前進である。何故なら、人はのべつ幕なし死に至る。それなら、生きることそれ自体死への道た。それを歩むのだから、俺が今からすることも、正にその道のりの延長線上最終到達地点への到達である。何ら一般的倫理観から逸脱しない。価値観は人それぞれなら、俺は、俺にとって最大限の希望へ向かう。それは、例えば人が自殺と呼んでも、俺にとっては、不幸な生存からの回避であり、論理的に同義であるが、要するに、左という選択肢はあるが、右に行くために右折するのではなく、左が工事中であるため、やむを得ず右折を選択する様なものだ。俺は、海への道を右に曲がった。


「来たー!!死ぬぞー!!」

俺は、海へ辿り着いた。霞んでいた筈の視界は、夕日を反射してキラキラ光る大海原を明確に捉えた。それにより、ドーパミンが大量に放出される。恐らく、気分良く死んで欲しいという、脳の、体の、即ち、この体を作り出した、大自然の配慮だろう。そして、俺も今から、この大自然と一つに重なる。

「んふっ」

俺は、余りの快感に吹き出す。だって、今から死ねるんだ。胸が高鳴り、水平線のその先の全てまで、美しく思えた。何故なら、世界には、死という救いが与えられている。こんなに幸せなことがあるだろうか。そう思うと、俺は早く死にたくてたまらなくなった。早く死にたい。この夕焼けが終わってしまう前に。俺は、走り出そうとした。すると……

「待て!」

「え、え?」

そこへ、すごい速度で、自転車が砂埃を上げながら停車する。そして、全裸でお面を被った男が降りて来て、俺の前でダサい決めポーズをした。ポーズを決めているが、顔以外、全て露出されている。露出物は、夕日をバックに光り輝いていた。俺はブチ切れた。

「コラ、クソガキ!俺の人生最高の瞬間を邪魔しやがって!」

俺は胸ぐらを掴もうとした……が、裸体に胸ぐらはないので、代わりに、両手で首を掴んだ。

「く、くっ……」

でも、余りに苦しそうだったので、俺は反射的に手を離してしまった。男は、砂浜にドサッと倒れ込んで、ゲホゲホと咳をした。何だ、カッコつけてた割には弱いな。てか、よく見たら、ガリガリだし。そもそも、何で裸なんだよ。そして何故俺の邪魔をする。何一つ理解不能。海原がキラキラと輝いて、俺を手招いた。その夕日を背に、男は息を立てながら立ち上がり、再び俺の前に立ち塞がる。そして、大声で言った。

「死ぬなよ!!!」

俺は、その無責任な言葉に、酷く苛立ちを覚えた。なんだよ、本気で生きたこともないくせに、何が死ぬなだ、全裸野郎。このままドロップキックかましてやろうか。俺は、ソイツを睨みつける。

「お前、不条理に人体解剖されて、心臓をハサミで真二つにちょん切られる気持ちが分かるか?」

俺が言うと、ソイツはお面の顎に手を当てた。

「うーん……」

その姿は、裸なのに堅実そうに見えた。いやいや、全裸仮面野郎が堅実な訳がないだろ。そして、ソイツは言った。

「確かに、それは、とても嫌なことだね。僕だったら死にたくなるよ」

「……そっか」

俺が表情を緩めたその瞬間、ソイツは俺に襲いかかってきた!


俺が電話ボックスに逃げ込んでから、間もなくして、サイレンの音と共に赤い光が見えた。車から、警官が二人降りてきて、瞬く間にソイツに手錠を掛ける。俺はバレない様に、小さくガッツポーズをした。全裸野郎は抵抗しようと暴れたが、警官二人に捕まれては為す術はない。ソイツは車に押し込まれた。警官の一人が、俺に軽く職質し、会釈した。パトカーは夕闇の中へ消えて行った。俺はそれが見えなくなるまで見送り、笑った。そして、踏み締める様に、海への階段を下りる。邪魔者はみんな、いなくなった。

「イヒ、イヒヒヒ……」

俺はニヤニヤが止まらない。やっと、やっと安らかに死ねるんだ。海の音が、俺の体を包んでいる。沈みかけた太陽が水面に写って揺れる。こんな美しい景色に飛び込んだら、どんなに気持ちいいだろうか。考えただけで胸がゾクゾクと高鳴る。俺は靴を脱いで、砂浜に足を付いた。柔らかく、懐かしい感触だ。海へ、歩き出す。乾いた砂浜から、次第に、チャポチャポと足元が濡れ始め、とうとう膝下まで海に浸ったとき、俺は立ち止まった。

「あ……」

そこにあった、あり得ない光景に、目を奪われてしまったからだ。


俺の霞んだ目線の先で、黄色のヨットが揺れていた。テトラポッドはないけど、それは、紗陽が描いていた絵と、全く同じ景色だと分かった。俺が今見ているのは、紗陽の絵の世界そのものだった。黄色のヨットは、希望そのもので、俺は手を振る主人公だ。紗陽は、明らかに、その希望を見ていて、それを俺に見せたかったんだ。俺が、その絵を見たときの考察何て、当てにならないくらいの感動が、ここにはあった。温かくて、優しい希望がそこにあって、柔らかい波と光が、その美しさの全てを魅せていた。俺は、堪らなくなって、叫んだ。

「紗陽!!!!」

そして、泣き崩れた。バシャンと水が跳ねる。そこへ涙が、ボタボタと落ちる。落ちて、海と混ざる。混ざって、夕日に光り輝く。涙はちゃんと、希望に向かって漕ぎ出した。世界が、こんなにも美しいなんて。こんなにも美しい景色があるなんて。俺は、紗陽を失ったことだけを見ていて、紗陽がくれたものを見ていなかった。死のうとした俺は、正当に馬鹿だった。

「ありがとう……紗陽」

まるで、紗陽が見ていた希望が、そのまま俺の中に入り込んだみたいだ。変換、紗陽が、俺の中に入り込んだのだ。だって、この景色は、紛れもなく、紗陽が見ていた景色で、その、ヨットとは、黄色のヨットとは……つまり……


俺は立ち上がって、歩き出した。さっきより、足取りが軽くなって、フラフラもしなかった。砂浜で、倒れている自転車を見つけた。あのお面の人の自転車だ。思えば、俺の為に、全力で死ぬなと叫んでくれた人だ。この自転車は、交番に届けてあげよう。俺は自転車を持ち上げる。ふと名前が書いてあることに気づいた。

「田中幸紀……って、田中君!?」

何と、さっきのお面の人は、田中君だった。全く、何やってるんだ。あの格好じゃなきゃダメだったのか。でも、彼は彼なりに、俺を助けようとしてくれたんだな。俺はやれやれと想いながらも、ジーンと胸が熱くなるのを感じた。俺は、ザクザクと砂浜を歩く。歩みの一歩一歩に、生きる力を感じた。そりゃ、これからのこと、憂鬱だけど、でも、全然憂鬱に感じないのは何故だろう。そう、状況とは、観察的状況でしかなく、そこに馳せられる感情や思いは、俺の捉え方次第だ。

「この世界は、君が思うより輝いてるよ」

俺は、いつか紗陽が言ったセリフを思い出した。今なら言える、俺にも。紗陽がいたから、この世界は輝いていた。それは、紗陽も、同じだったんだよな。だから、ハッキリ、キッパリと、言えるんだ。

「この世界は、俺が思うより輝いてるんだ」

俺は夕闇の中、田中君の自転車を押しながら、交番へと急いだ。

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