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抱擁

「斉藤君、今日も一緒に帰ろうよ!」

そう言って、田中君は俺の肩をポンと叩いた。あれから、田中君と俺は仲良くなって、学校でも良く話すようになった。今まで、俺には友達なんて、いなかったのに。そんな俺と、彼は仲良くしてくれる。でも……。

「ごめん、今日は美術室に行くから」

そう言って振り返ると、田中君はニコッと笑った。

「そっか、新井さんか。じゃあ仕方ないか。またね!」

田中君は、俺に手を振りながら歩いて行った。同い年だけど、とても可愛らしい奴だ。気が弱いけど優しくて、頭も良い。友達になるならこういう人がいいっていう、模範みたいな奴だ。そんな奴が、俺と仲良くしてくれてるなんて、なんて嬉しいことだろう。でも、彼は、俺のことをどう思っているのかな。俺なんて、鈍臭くて、内気で、頭も悪いし、誰が見ても嫌な奴だ。友達になりたくない奴の模範みたいな……。そう思ったら、俺はこのまま、彼と友達でいていいのか怖くなった。彼にとっては、俺なんて必要ない存在で、俺だけが彼を求めている。それは不均衡じゃないか。友達とは、そういう捻れた関係ではあり得ない。俺は、彼の背中を見送って、トボトボと美術室へ向かった。


美術室の扉を開けると、中はがらんとしていた。新井さんはいない。いつもなら、あそこの窓際に座って、絵を描いているのに。新井さんは、今どこにいるんだろう。今日は、休んでいたわけじゃないし、いつもなら、美術部が休みの火曜日と木曜日は、必ずここにいる。いなかったことはない。ということは……。

「よう、幽霊部員」

俺は、その嫌な声を聞いて振り向いた。そこには、稲垣先輩と、3年生の美術部員が二人、バットと竹刀をもって立っていた。その内の竹刀を持った方が、ドアの鍵をガチャンと閉め、もう一人が、カーテンを閉めた。バキバキっと、稲垣先輩が指を鳴らす。俺は、今から何をされるかが分かって、恐怖で過呼吸になっている。

「お前、俺の彼女と仲良いらしいじゃないか」

新井さんのことだ。俺は震えと過呼吸で何も言えない。乱れた呼吸の音で、頭がおかしくなる。精神が分散して、まるで、自分が美術室そのものになって、この状況を俯瞰しているみたいだ。目の前の稲垣先輩が、回転して見える。

「彼女に、お前をリンチしてくれって懇願されてさ」

俺は更にぐらついた。そうか、だから新井さんはいなかったのか。急に俺の過呼吸は治った。新井さんが、俺を迷惑だと思ってたことが絶望的すぎて、恐怖すら通り越したのだろう。俺はその場に膝をついた。すかさず、稲垣先輩は、俺の髪の毛をガッと掴み、顔を覗き込んで言った。

「なあ、二度と彼女に会わないと誓えよ。まあ、そうなると、学校にも来れねぇけどなぁ」

ガッハッハと、三人の笑い声が響く。こんな状況、夢なら覚めてほしい。でも夢ではない。確実に現実として存在する。笑い終えた稲垣先輩は、髪の毛で、俺の体をぐいっと持ち上げ、そして、鳩尾を5回殴った後、後ろに並べてある机に投げ飛ばした。ガァン!と、頭と体を打つ鈍い音がした。すぐに、他の二人が駆け寄ってきて、倒れた俺を、バットと竹刀で交互に殴る。殴られているけど、俺はずっと天井にいて、それを俯瞰していた。最後に、稲垣先輩の蹴りが、俺の顎を直撃したとき、後頭部を机の足に打ちつけたらしく、そこからブツっと意識が途切れる。


「斉藤!!」

新井さんが、俺の体を揺すっている。目を開けると、さっきまで殴られいた、美術室に倒れている。冷静に考えて、こんなことはあり得ない。この部屋に、もし実際に助けが来たなら、一番に聞こえるのは救急車のサイレンだ。だから、これは、俺の脳が、自己防衛の為に作り出してる、夢のようなものだろう。

「良かった、なんとか、無事なんだね!もう、本当に良かった!」

新井さんは、俺が元気なのを見て、ボロボロと泣き出した。そっか、俺、新井さんに助けて欲しかったのか。夢の中だから、新井さんは、俺の理想通りに泣いてくれる。実際の新井さんは、俺を迷惑だと思ってるのに。

「ふふっ、だって、大好きなんだから。いなくなったら、本当に悲しいんだから」

新井さんは、俺の手を握って、頭を撫でながら、優しく語りかけるように言った。夢の中なら何でもありだな。でも、それは本当に幸せだった。新井さんが、本当にそこにいて、側にいてくれてる気がして、それだけで、無敵になった気分だった。実際は、もう、多分、起きられないくらいだけど。

「じゃあ、私は帰るね。また来るね」

突然、新井さんは立ち上がって、美術室を去って行った。そんな、行かないでよ、戻って来てよ!呼び止めようとしたけど、声が出ない。そっか、やっぱり、新井さんは迷惑なんだ。夢でも、最終的に、俺は正しい結論を出してしまう。夢は、醒めると知っているからだ。俺は、寂しさに打ちひしがれたまま、ゆっくりと目を閉じた。


「オイ、コラ」

俺はビクッとして目を醒ました。稲垣先輩に言われたと思ったからだ。でも、言ったのはアイツだった。ここは、どうやら病院で、俺はベッドに寝ているみたいだ。そして、アイツは、いつもより、数段イライラした顔で、俺を睨みつけている。

「入院費、誰が払うと思っとんじゃコラ」

「……お前が払えよ。仮にも、親なんだろ」

俺も睨みつけて言う。寝転がっている上に、顔が麻痺していて、呂律も回りにくいが、何とか言った。次の瞬間、

「お前なんかの親になった日なんか一度もねえよ!クズが!!」

と、寝ている俺の胸ぐらを掴んで言った。慌てて看護師さんが駆け寄って来る。それでも暴れたが、もう二人、看護師さんが駆けつけて来て、アイツは外へ連れ出された。暫くして、お医者さんが来た。

「具合はどうですか。他の患者様もいらっしゃいますし、お母さんとは喧嘩しないで下さいね」

「アイツはお母さんじゃありません」

俺は、そのお医者を睨みつけて言った。自分でもびっくりするくらいの大声だった。

「次、喧嘩したり、大声を出したりしたら退院して頂きます。心得ておくように」

そう言って、その医者は病室を出た。去り際、看護師さんに、

「全く、親が親なら子も子ですね」

と言っているのが聞こえて、俺は拳を握り締めた。

「おーい、斉藤」

入れ違いで、三上先生がやって来た。

「あ、先生!」

俺は三上先生の顔を見て、とても安心した。だって、周りに敵しかいなくて、本当に心細かったから。三上先生は、ベッドの横の椅子にドンと腰掛けた。

「スポーツドリンク持って来たから。どんな時でも、水分補給は大事だぞ。冷蔵庫に入れておくね」

そう言って、ベッドの横の冷蔵庫に、スポーツドリンクを並べて入れてくれた。ちょっと多すぎるけど。入れ終わったら、俺の顔を見た。そう言えば、私服の先生を見るの、初めてだな。こうしてると、普通の女の人って感じで、不思議だな。

「なにじっと見てんだ。先生が来たのが、そんなに嬉しいか」

「……はい、嬉しいです」

すると、三上先生は、目をぱっと開いて微笑んだ。

「斉藤、お前、素直に喋るようになったな。良いことだぞ」

「そ、そうなんですかね……」

三上先生が褒めてくれて、照れくさいけど、嬉しかった。本当に、わざわざ来てくれて嬉しい。三上先生は、優しく微笑んでいる。ああ、この人がお母さんだったら、俺はどんなに幸せかな。そう、俺は思った。

「あ、それで、報告だけど、稲垣は捕まったぞ」

「え、捕まった?」

「おう。あれから大事件だったんだぜ。パトカーは来るわ救急車は来るわで大騒ぎ」

あれからのことは覚えていない。けど、俺がここで寝てることは、そういうことが起こったなら納得できる。先生は、真剣な顔をして続ける。

「今回の件は、流石に教育委員会にも響いて、明日は私も忙しくなりそうなんだよ。お前、やらかしてくれたな、全く」

三上先生は、そう言って、肩をぐりぐりと回した。今の話が本当なら、俺が三上先生に責められるのは、当然だ。何しろ、暴力事件を、今回で三度も起こしている。しかも、今回は、警察沙汰らしい。俺は、三上先生に悪いことをしてしまって、暗い気持ちになった。それを見て、三上先生は言う。

「いや、悪いのは稲垣だよ。稲垣について、これから教育委員会が調査するけど、多分、あいつはもう帰って来ないよ。素行が悪すぎたからな。お前は、悪くない。まあ、学校に戻ったら、ちょっと呼び出し喰らうだろうけど、新井も」

「そうですか……」

分かっていたことだが、改めて言われると、痛い。あんなに優しい新井さんに、そこまで迷惑をかけていたなんて。こっそり、稲垣先輩にリンチを依頼するほど、嫌がらせていたなんて。俺は胸が痛くて、死にたくなった。何で、生きているんだろう。あのとき、俺は頭をぶつけて、そのまま死んでいれば良かった。そうして、俺が、深い奈落に落ちかけたとき、三上先生が言った。

「まあ、お前はただの被害者だからいいけど、新井は、稲垣の彼女だし、警察も救急車も呼んでるから、ちょっと大変だろうな」

「新井さんが、通報を?稲垣先輩は、新井さんに頼まれて俺をリンチに来たと言ってましたが」

すると、三上先生は眉を顰めて、俺に顔を突き出す。

「つまり、お前、この期に及んで新井を疑ってたのか?新井を疑って、稲垣の言ったことを信じたのか?ふざけるなよ」

俺は怖くて、何も言えなかった。その通りかも知れない。俺は、新井さんのことを、大事に想ってるのに、いや、そう思っていないから、信じなかったのか。違う、違う筈だ。では、疑いうるものを大事に思えるか。思えない。何故なら、それは嘘つきだ。でも、俺は大事に想っている。では、大事に想うとは何か。俺の場合、それは愛情だ。愛情とは……。

「斉藤!」

「うわっ!」

気付いたら、三上先生が、俺の肩に手を置いていた。俺が驚いていると、三上先生は、クスッと表情を崩して言った。

「余り考え込むなよ。お前の良いところだけど、それが素直な気持ちを、殺すこともあるんだよ」

「そ、そうですね」

三上先生の言うことは、最もだと思った。言葉以前の、素直な気持ちを踏み躙ってまで、考え込むことは、完全に正しいことではない。何故なら、俺は、その素直な気持ちの、理由や意味が正確に知りたいだけで、その衝動や感情を、否定したいわけじゃないからだ。三上先生は、そんな俺の顔を見て、ニヤッと笑って、言った。

「大事なこと、分かったか?私も責めてしまって悪かったな。でも、お前はお前自身を責めすぎなんだよ。素直になれ。もしそれが行き過ぎだったら、いつでも私が殴り飛ばしてやるから」

「それ、先生のセリフですか」

「ハッハッハ!言うねぇ!」

三上先生は、大笑いして、それじゃあと、病室を後にした。俺は、冷蔵庫を開けて、大量のスポーツドリンクのうちの、ひとつを取り出して飲んだ。まだ冷えてないけど、とても美味しかった。


なんだかんだ、退院まで1週間も掛かった。その間、三上先生と、田中君も何度も来てくれた。田中君の話だと、あの日、新井さんも、稲垣先輩に唆されて、美術室に行かなかったそうだ。でも、新井さんが、おかしいと思って駆けつけたら、罵声と殴る音が聞こえて、何度も扉を叩いたけどダメだったから、警察と救急車を呼んでくれたそうだ。容体が分からないのに、救急車を呼ぶのはダメだから、生徒指導の先生にかなり叱られたらしい。でも、俺が無事で良かったって言ってくれた。


久しぶりに学校に行ったら、誰もが俺に冷たい視線を送った。稲垣先輩の影響は、それほど大きかったということだ。3年生の男子は、俺にわざと肩をぶつけたり、足を掛けたりした。同学年の奴らも、俺を無視するようになった。元々無視はされていたが、よりあからさまになった。新井さんも、学校では、前のように話しかけて来なくなったし、俺も、新井さんと話したら、彼女が巻き添えを喰ってしまうと思い、わざと避けるようにした。田中君とも、それきり疎遠になった。そして、次の日、俺は、学校に行くのをやめる覚悟を決め、家を出た。


やめたと言っても、やめたらやめたで、地獄が待っていることを、俺は知っている。そこには、アイツがいるからだ。アイツとは、お母さんが死んだ後の、父さんの再婚相手だ。父さんは、語学に優れていたことから、海外事業を任され、そこでどんどん成果を出し、今や海外支社の社長らしい。だから、殆ど会ったことなくて、よく知らなかった。母さんは、俺が10歳の時に、交通事故で死んだ。その直後、父さんが帰国して、知らない女の人を連れて来た。それが、アイツだ。

「彩人、この人が新しいお母さんだ。仲良くしろよ」

「何言ってんだ、母さんは母さんだ!母さんは死んでも、古くも新しくもならない!代わりなんかいないんだ!」

すると、父さんは、俺の肩に手を置いて言った。

「彩人、死にたくはないだろう。お前は、父さんのお金で生きているんだ。我儘を言う資格はないんだよ。この人と生きるのが嫌なら、家を出なさい。良い子だ、分かるね」

俺は、何も言えなかった。ただ、悔しさと怒りを押し殺すので精一杯だった。コイツは、母さんのことなんか、どうでも良かったんだ。母さんのことなんか……。

「おい坊主、邪魔だから出ていけよ」

アイツが俺に言った初めての言葉は、それだった。それから、俺とアイツとの、塵みたいな生活が始まったんだ。だから、俺は、家に居場所がないことは分かっていた。それなら、旅に出ようと思った。ここじゃないどこか。頼れるのは……俺だけだ。俺は、夕日の中、歩きながら考えていた。流石にこの時間は、結構寒い。ぶるぶる震えながら、とにかく遠くへと、歩き続ける。ここに、新井さんが駆けつけてくれたら、どんなに嬉しいかな。俺はふと思って、振り返ったけど、そこには誰もいない。いるわけはない。そもそも俺は、新井さんすらいない世界へ、行こうとしているんだ。今更、引き留めて欲しいなんて、思っちゃいけない。救いなんてない。望んでもいけない。何故なら、俺は逃げることを選んだからだ。それは、とても勇敢なことで、こんな寒空の中、それでも自分を守るために逃げるのは、凄く強い。逃げて、それからどうする?分からない。分からないけど、誰も頼れない。俺は、凍える体を、ガタガタ震わせながら、夕闇の中を歩き続けた。


「お、目覚めたかな」

俺が目を覚ますと、そこは交番の中だった。警察の人が、俺を見ている。やばい、逮捕された!俺は心臓がバクバクなった。

「あー待て待て。そう怯えんなよ。別に取って喰おうってわけやないから」

警察の人は、よく見たらとても優しそうなおじさんで、真面目で、温かく且つ共感ある大人って感じがした。

「すみません、でも、僕は何故ここに?」

すると、警察のおじさんは言った。

「覚えとらんのか。まあ、わしが見つけたとき、あんた倒れとったけーな。慌ててここ、連れて来たんや」

そうか。俺は、倒れてしまったのか。病み上がりとはいえ、ここ数日で何回倒れたことか。自分でも嫌になる。

「ところで、あんた、名前と住所と連絡先、教えてくれる?親御さんに、連絡取って、迎えに来てもらわんといけんけーな」

焦った。そんなことをしたら、アイツのところに……。俺は必死に考えた結果、こう言った。

「すみませんが、文海中学校に連絡して、三上先生に繋いで下さい」

「あいよ」


暫くして、三上先生の車が来た。てか、いつも学校に停まってた、赤いスポーツカー、三上先生の車だったんだ……

「良かったな。すぐ、来てくれて。ほんじゃ、気おつけてな。先生、後は任せますけーね」

「ありがとうございました!」

俺は、車の窓から手を振った。ミラーから見えた警察のおじさんは、まだ手を振っている。俺はホッとした。俺は助手席から、ハンドルを握った三上先生の横顔を見た。運転する先生も、かっこいいな。

「全く、学校の電話だぞ。あんま迷惑かけんなよ」

「本当に、すみません」

それよりも、すっかり日の暮れた暗闇の中で、三上先生とドライブ。その方がテンション上がる。三上先生は、こっちを見もしないのに、的確に言う。

「お前、何わくわくしてんだよ」

でも、三上先生も楽しそうだ。街頭の殆どない田舎道を、ヘッドライトの明かりだけで、滑るように走って行く。こういうのは、やっぱりわくわくするものだ。

「先生、やっぱり、俺、家に帰らなきゃダメですかね」

俺は、ダメ元で聞いてみた。もし、別の方法があるならそうしたいから。三上先生は、少し間を空けて、言った。

「ああ、帰らなきゃダメだ」

「やっぱり、そうですよね」

俺は、それを聞いて、凄く辛かった。嘘でも良いから、なんとかしてやるって、言って欲しかった。三上先生は、ウィンカーを出す。それは、もう、俺の家の団地への曲がり角だった。

「でも、帰るのは一瞬だけだ」

「え?」

三上先生は、団地の中をゆっくりと走る。ヘッドライトは、まだ、暗黒を照らさずにいるままだ。三上先生は続ける。

「お前は、帰ったら置き手紙を書いて、直ぐに戻って来い」

「な、何を書くんですか」

「なーに、迷惑だと思うので出て行きますって書くだけだ。お前の得意文句だろ」

そう言って、三上先生は、俺の家の前に車をとめた。この時間、アイツは夜の仕事でいない。俺は、言われた通りに、リビングに手紙を置いて、直ぐに三上先生の車へ戻った。扉を閉めたら、三上先生は、よし!と言って、車を発進させた。そして、団地を抜ける。家から、どんどん遠ざかるのを感じて、俺は、三上先生に聞いた。

「もし上手くいかなかったら、先生、やばいんじゃないですか」

すると、三上先生は、運転に集中したまま答えた。

「やばいよ。仕事なくなるし、下手したら逮捕だ」

「それなら、なぜ……」

三上先生の表情は、横顔だし、暗くてはっきり分からないけど、声色は真剣だった。ただ、俺と違って、恐怖とかじゃなく、ただ真剣だ。車はそのまま走り続け、俺が眠くなった頃に、一軒のアパートに着いた。

「さ、ウチに着いたよ。じゃあ、トランクを開けてくれるか」

「え、はい」

何か荷物でもあるのかな。俺が言われるまま、トランクを開けると……

「ん〜、ん〜」

何と、そこには、手足を縛られて、口にガムテープを貼られた、新井さんがいた!


俺と三上先生と新井さんは、三上先生の家の丸テーブルを囲って座った。

「で、何で新井さんをあんな目に」

俺は、半ギレで尋ねた。生徒に、いや、どんな人にだってそれはまずいだろう。しかし、それが半分なのは、新井さんがさっきから、とても嬉しそうだからだ。三上先生は、答えた。

「いや、実は、お前というか、警察から電話があった時な、こいつもいたんだよ。横に」

「私も、三上先生とは、良くお話ししてるんだ」

そうだったのか。確かに、新井さん、三上先生には甘えるような態度だ。新井さんのこんな姿は、初めて見る。でも、そんなことは今はいい。そんなことより、大事な話がある。

「だから、何で縛ってトランクに入れてたんですか」

俺は問い詰める。どんな理由があっても、それは良くないことだ。俺は、新井さんを見た。すると、照れ臭そうに目を逸らされる。三上先生は、冷蔵庫から缶チューハイを取り出して、プシュッと開けて、カブッと飲んで、プハーッと言った。ちょっと目を離したら、こんなときに何をやってるんだ、この人は。三上先生は、缶チューハイ片手に語り出す。

「だって、こいつな、私がお前を迎えに行くって言ったら、彼の自由を奪わないでとか言って、逃げようとしたんだ。本当は、お前のことが大好きなのにな。だから、無理矢理縛って、トランクにぶち込んだんだ」

「いや、それは、無茶すぎませんか」

俺は、突っ込んだが、三上先生は動じずに、また缶チューハイを傾ける。傾けて、飲んで、缶をテーブルにガンと置いた。そして、三上先生は言った。

「だって、お前、逃げてその先、どうするつもりだったんだ」

酔っ払い!と、思ったが、その問は、ちゃんと俺の胸に刺さる。三上先生は続けた。

「親や学校がお前にとっての絶望だとして、その絶望から逃れて、お前はどう生きたかったんだ」

「そ、それは……」

三上先生は、質問をより鋭くして、俺に問い直した。俺は、より答えにくくなる。つまり、俺の考えの甘さが、その質問の鋭さで露骨になった気がしたからだ。すると、三上先生は、ため息を吐いて言った。

「新井、お前もだ。お前、私が縛ろうとしたとき、わざと抵抗しなかったよな」

「し、しましたけど……」

新井さんは、人差し指をツンツンしながら答えた。こんなに弱そうな新井さんは、見たことがない。というか、あまり見たくない姿だ。それを見て、三上先生は言った。

「後はお前たちでやれ。私はもう何も言わない」

そう言って、三上先生、缶チューハイを飲み干し、別の部屋へ行ってしまった。


三上先生のいなくなった部屋に、二人の沈黙が流れる。三上先生は、何を考えているのだろう。いや、状況としては、新井さんに対して、俺が間違っていたことを謝れってことだ。つまり、俺は新井さんとの別れを選択した。俺は、本当は、荒井さんとお別れするのは嫌だし、新井さんのいない世界に、幸せなんてないと、分かっていた筈なのに。とにかく、謝らなきゃ。だけど、そんなこと、どう言えば……。

「ごめんね。私、斉藤が苦しいの、知ってたから。学校でも、何となく、斉藤を良く思わない人が、斉藤を傷つけてるのが分かった。私、斉藤が心配で、ずっと会いたかったのに、会えなくて……」

先に話し出したのは、新井さんだった。会えないのは、俺がわざと避けていたからだ。新井さんのせいじゃないのに。新井さんは続ける。

「斉藤が、警察に保護されてるって聞いたとき、私、思った。斉藤は、全部から逃げたいんだって。それは、私も含めた全部だから、私は、もう斉藤に会っちゃダメなんだと思った。だから、私は嫌だって言ったのに、三上先生が私を縄で誘惑して……」

縛ってトランク事件で、新井さんはそんなに葛藤していたのか。しかも、全て俺の行動が引き金で。俺は、本当に申し訳ないと思った。

「本当は、斉藤がいなくなるのは嫌だった。嫌で嫌で仕方なかった。でも、斉藤は自由を選んだ。だから、だから……」

新井さんは、言いながら、途中から泣き声になって、最後には本当に泣き出してしまった。新井さんが泣いている。俺は、何とかしなきゃと思ったが、どうしたら良いのか分からない。背中を摩ったら良いのだろうか。でも、そんなこで、何の解決になるだろう。声をかけたら良いのか。いや、今は何を言っても聞こえないだろう。それなら、何もすべきではないのか。いや、何かをしなければならない。新井さんは、テーブルに伏して泣き続ける。俺は、俺は……。

「……?」

新井さんは、泣くのを止めて、ムクっと顔を上げた。急に泣き止んだので、俺は、触れた手をぱっと離した。新井さんは、目を泳がせている。しまった、また俺は間違ったことを……。

「泣いちゃってごめんね。でも、慰めてくれて、ありがとう」

新井さんは、ゆっくり呼吸を整えてから、笑顔で言ってくれた。

「う、うん」

良かった。新井さんは怒ってなかった。そんなことより、俺こそ、言わなきゃならないことがある。俺は、新井さんの横に座ったまま、話した。

「新井さん、ごめんなさい。新井さんが俺に会わなかったのは、新井さんに迷惑だと思って、わざと避けてたんだ。本当は、会っていっぱい話したかったのに。それと、急にいなくなって、ごめんなさい。俺はどうかしてたよ。全てから逃げ出したかったのは本当だけど、それでも、新井さんにそばにいて欲しいって、思ってたのに、その気持ちからも逃げようとしてたなんて。俺には、新井さんがいない世界なんて、ただ、苦しいだけなんだ。その為なら、他のどんな苦しみだって、耐えられる筈なのに……とにかく、心配させてしまって、本当にごめんなさい」

そこまで言って、横を向くと、新井さんは、痛々しいような、やり切れないような顔をしていた。膝の上で、握り拳をギューとしている。俺がこんなにボロボロ喋っても、こんなに親身に聞いてくれるなんて、この人は何て良い人なんだろう。そして、その人を困らせてしまっているなんて、俺は何て極悪人なんだろう。俺はつくづく自分が嫌になって。新井さんから目を背けた。俺は、やっぱりいない方が良いのかも知れない。すると、背中をトンと温かな感触がした。横を見ると、新井さんが、俺の背中に手を置いていた。

「……お返し」

「あ……ありがとう」

俺は照れながら答えた。新井さんも、照れ臭そうに笑った。その手の温もりを感じてたら、何か、分かった気がした。そうか、同じなんだ。全てが、お互いに。俺は、背中と心に、温かな温度を感じながら、これは奇跡みたいに美しいことだなと思った。

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