告白
「この世界は、君が思うより輝いてるよ」
新井さんは、筆先に集中したまま答えた。窓から差し込んだ夕日が、彼女の横顔を照らしている。ポニーテールと夕焼けのシルエットが、まるで絵画みたいに美しく見えた。確かに、この人は輝いているのだろう。俺は、目を床に逸らす。
「そうかな。俺には暗い未来しか見えないんだよ」
すると、新井さんは筆をカタッと置いた。俺が見上げると、目が合った。目が合うのは恥ずかしい。新井さんは、柔らかく微笑んで言った。
「今日は遅いし、もう帰ろうか」
楽しい夢なら、終わらないほうがいい。ずっと見ていたい。目を開けると、憂鬱な世界と目が合う。体を起こすのも億劫だ。そんな風にして、また目を閉じたから、今日も遅刻した。先生に叱られた。クラスメイトに笑われた。そしてまた、憂鬱な一日を過ごす。唯一、俺の気が休まるのは、放課後の美術室だけだ。美術部が休みの日に、美術室で新井さんは絵を描いている。俺はその横で絵を描いたり、描かなかったり、ぼーっとしたりしている。気が向いたら宿題もする。そんな風にに、新井さんと過ごす時間が好きだ。
「あちゃー、1分前まで晴れてたのにね」
下駄箱のところで、外が土砂降りになっていることに気づいた。本当に、さっきまで降る気配なんてなかったのに。そういえば、朝テレビの天気予報で言ってたっけ。寝坊して急いでたから、それどころじゃなかったけど。だから、傘は持ってきていなかったので、貸し傘を取りに行った。貸し傘は、最後の一本が余っていた。俺が帰ろうとして振り返ると、新井さんは靴を履かずに立ち止まっている。
「新井さん、傘は持ってないの」
「あ、うん。まさかこんなに降るとは知らなくて」
仕方ない、濡れて帰るか。
「貸し傘あったから、これ、新井さんの分ね」
俺は貸し傘を差し出した。
「ありがとう。でも、斉藤、傘は」
「あー……なんとかするから大丈夫」
新井さんは、靴を履いて、貸し傘の傘立てへ行った。
「やっぱり、傘、ないんじゃないの」
「うん……」
俺は頭をぽりぽり掻きながら言った。新井さんは、顔を顰めて手を顎に置いた。雨が渡り廊下の屋根にぶつかって、ガラス越しでもバラバラと聞こえる。
「困ったなぁ。斉藤だけ濡れて帰らすわけにはいかないし」
「俺は別に、大丈夫だよ。新井さん、傘使ってよ」
すると、新井さんは、辺りをぐるっと見回して言った。
「斉藤さえ良ければだけど、傘、一緒に使わない?ほら、誰も見てないし」
「うーん……」
俺は迷った。こんなとき、明確に自分の気持ちを言えたら、どんなに楽だろうと思う。俺と一緒に傘を使うなんて、迷惑じゃないのかな。実は嫌だけど、この状況で仕方なく言ってるのかも知れない。新井さんは、俺の目をじっと見て、答えを待っている。断らなきゃ悪いかも知れない。でも、仮に新井さんが嫌がってても、最適解がそれだから、一緒に傘を使う提案をしたんだ。それなら……
「じゃあ、駅まで」
「よし、じゃあ行こう」
ドアを開くと、雨音が爆発音に聞こえるくらい大きくなった。新井さんは、余りに強い雨に、こっちを見て苦笑した。俺は、風で飛ばないように、傘の柄をしっかり握って、ゆっくりと歩き出した。なるべく、新井さんが濡れないように、傘の向きを調節しながら。
次の日、新井さんは学校に来ていなかった。風邪をひいて休んでいるらしい。俺は、昨日のお礼を言いたかったのに、言えない。その上、風邪をひいてしまうなんて。俺のせいかも知れない。いや、俺のせいだ。俺が傘に入ることを断ってさえいれば、こんなことにはならなかった。俺は一日、誰の言葉も頭に入らないまま、放課後まで罪悪感で満たされていた。
放課後、俺は美術室へ行った。憂鬱だけど、約束だから……。入ると、美術部が絵を描きながら、ガヤガヤしていた。そして、俺が入った瞬間、静まり返る。全員の視線が、俺に集まる。
「よう、幽霊部員」
名前も知らない1年の部員が言う。
「出ていけ」
3年生の稲垣先輩が言う。俺は俯いたまま、歯を食いしばって席についた。すると、稲垣先輩は、俺の座った机にバンと手をついて言った。
「聞こえなかったのか?出ていけ。ここはお前の来る場所じゃねえ」
「何をしているんですか!」
同時に、顧問の池田先生が入ってきて、大声で言った。稲垣先輩は、小さく舌打ちをして、席に戻った。
「斉藤くん、よく来る気になりましたね。もう退部するものだと思って、あなたの絵は処分してしまいましたよ」
池田先生は、赤い眼鏡をクイっとしながら言った。そうか、描きかけだった俺の絵、捨てられちゃったのか。美術室中が、笑いで包まれる。こんなところ、来たくなかった。
「静かにしなさい!斉藤くん、これから毎回来ると約束してくれるなら、美術部への在籍を認めます。しかし、また何日も来ないようなら、退部届を出しなさい」
池田先生は、俺の顔を覗き込んで言う。横目で稲垣先輩を見ると、俺に向けて中指を立ててニヤニヤしていた。
「や、約束はできません。どうしても来られない日もあるかも知れません」
すると、池田先生は、両手を上げて呆れたジェスチャーをして言った。
「やる気が感じられませんね」
そう一言だけ言って、教壇に登り、何か話し始めた。俺は苦しくて、前を見ていたのに、池田先生が何を話しているか分からなかった。俺はそれから、家に帰るまでのことを覚えていない。
「ごめんね、休んじゃって」
廊下で新井さんに声をかけられた。新井さんに会うのは2日ぶりだ。まだ余り体調は良くないみたいで、いつもの凛とした力強さがない。
「俺こそ、ごめんなさい。風邪、ひかせてしまって」
すると新井さんは、少し不機嫌そうな顔をして、
「何で斉藤のせいなの?」
と言った。
「いや、その……」
俺が答えられないでいると、新井さんは不機嫌そうな顔のまま、ため息を吐いた。
「謝りたいのは私だよ。一緒に美術部に行こうって、約束したのに……」
そうだ。あの雨の日、別れ際、新井さんは俺と約束した。明日は、一緒に美術部に行こうと。新井さんは、俺に美術部に行った方がいいと言った。だから、俺は……
「一昨日、俺、美術部に行ったよ」
「え!」
新井さんは、目に見えて分かるくらい動揺していた。目が泳いでいる。だって、俺は約束を守りたくて、それで……
「だって、一人で行ったら、稲垣先輩や他の部員に……大丈夫なの!?」
「大丈夫というか、ごめん、昨日は行けなかったよ。足が竦んじゃって」
「そ、そっか……」
新井さんは、真剣さと困惑の入り混じった目で、足元を見た。もしかして、俺のことを心配して動揺してたのか。いや、そんな筈はない。新井さんだって、立派に美術部員なんだ。しかも俺と同じ2年なのに、部長だ。その地位では、俺への心配ではなく、部長としての責任感としての動揺だろう。
「また、みんなに酷いこと言われたんだよね……」
「あ……」
俺が考え込んでいると、新井さんは呟くように言って、またため息を吐いた。言った後、凄く苦しそうな顔をした。俺は慌てて言う。
「で、でも、俺は行って良かったと思ってるから。たまになら、行ってもいいかなって」
すると、新井さんは、顔を上げて、俺の目を見た。
「ほんと?」
「ほ、ほんとほんと!」
嘘だけど。俺は必死に言った。なぜなら、これ以上、新井さんを困らせるわけにはいかない。優しい態度だからって、彼女は俺の苦しみの捌け口じゃない、美術部部長だ。
「ねえ、斉藤」
「……なに」
見ると、新井さんは、また見たことないくらい恥ずかしそうにもじもじしている。どうしたんだろう。
「斉藤はさ、アイデア出す才能あるじゃん」
「うーん、そうなのかな」
「だから、明日さ、もし暇だったらでいいんだけど……」
だめだ!これは何かの誘いだけど、断らないと、雨の日の過ちを繰り返してしまう。あのとき、一緒に傘を使ったりしなければ、新井さんは風邪をひきはしなかった。俺のせいだ。だから……
「ごめん、明日は用事があるんだ」
「明後日は」
「明後日も用事があるんだ」
「そっか……じゃあ仕方ないね」
そう言った新井さんは、泣きそうな顔をしていた。目を逸らす。遠くで女子たちが談笑しているのが聞こえる。もう一度新井さんを見る。本当に泣きそうな顔をしている。俺は、いけないことをしてしまったと思った。謝ろうと思ったとき、
「ごめんね。じゃあ、また」
新井さんは、振り向いて教室に戻ってしまった。彼女は何を考えていたのだろう。分からない。俺は正しいことをした筈なのに、なぜこんなに心が痛いのだろう。分からない。俺は分からないまま、教室へ戻った。本当は、俺は分かっているのかも知れない。そんなことはあり得ないと思い込んでいるだけかも知れない。でも、実際そんなことはあり得る筈はない。俺なんて、勉強もスポーツもできない、クズみたいな存在だ。見た目だって良くない。だからそれは、宝くじには当たるかも知れないという可能性を信じたがっているのと同じだ。宝くじを馬鹿にするなら、今の俺の思考も、俺自身に馬鹿にされて然るべきだ。下らない。ため息を吐いて、席についたら、窓の外で、稲垣先輩が田中君の胸ぐらを掴んでいるのが見えた。いけない!俺は慌てて立ち上がって、外へ走った。なぜ走っているのだろう。しかし、体が勝手に動いている。心臓はバクバクしている。前と同じだ、あの時と。1年を庇って、稲垣先輩に殴られた時と……
「起きて!起きてよ!!」
誰かが体を揺すっている。目を開けると、田中君が俺を揺さぶっていた。ここは……保健室か。
「良かった!斉藤君!!」
田中君は、俺が目を覚したのを見て、ポロポロと涙をこぼした。上から俺を覗き込んでいるから、涙は全部、自分のメガネに落ちてるけど。三上先生は……今はいないのか。
「ああ、俺、斉藤君が死んじゃったらどうしようかと思って!本当にっ!」
田中君は、本当に良い人だ。前に庇った1年は、俺が助けた瞬間、稲垣先輩と一緒に俺を殴り始めた。だけど田中君は、俺が助けに行った後も……あれ、何も思い出せない。
「俺、あれからどうなった」
「え、覚えてないの!?」
田中君は目をまんまるくした。本当に、黒目が綺麗にまんまるに見える。
「別に、田中君が無事なら良いんだけど」
「あれからさ、君はもうボッコボコに殴られて……」
そう言えば、もう身体のあちこちが痛い。やっぱ、殴られたのか、そりゃ保健室にいるくらいだし。
「でもさ、途中で新井さんが来て……」
「新井さんが!?」
俺はガバッと起き上がった。
「うわっ!びっくりした!」
田中君は驚いてベッドから後退りする。
「あ、いつつ……」
急に身体を起こしたので、殴られたであろうところがズキンと痛んだ。それを見て、離れた田中君が、すぐに駆け寄って来る。
「大丈夫!?」
「う、うん平気。それより、新井さんは、どうしたの」
すると、田中君は、目を逸らして俯いた。
「稲垣先輩の、彼女になった」
「え!?」
俺はめちゃくちゃ動揺した。い、いやいや、何に動揺しているんだ。全てに動揺している、と言えば良いのか。全てとは何か。つまり、展開の飛躍と、それと……。
「新井さん、稲垣先輩と話してて、それから、僕に向かって、結弦さんと付き合うからって言ったんだ……」
「そ、そっか」
俺はなるべく明るく答えた。それを見て、田中君は、さっきの泣き顔よりもっと悲しそうな顔をした。顔に絶望って書いてあるみたいな、血の気が引いたと言ったら正確かな。
「ごめん、僕は何もできなくて……」
田中君は、どうしてこんなに悲しんでいるのだろう。でも、物凄く悲しんでいて、罪悪感を感じているのは分かる、と思う。これが喜んでいるのではないのは確実、だと思う。だったら、何か、何か言わなくては。でも、何て言ったら良いんだろう……。
「お、目覚めたか〜?」
そこへ、保健室の三上先生が来た。
「打撲あるけど、大丈夫。ま、今回は、前より軽傷だかんね!」
そう言って、いつもの椅子にドンと腰掛けて、ハアッとため息を吐いた。それから、うーんと伸びをする。この人は、保健室の先生というより、俺には冒険家っぽく見える。その表現で合ってるのか分からないけど、なんか、自由で何でも見透かしてるって感じの人だ。
「ね、君、あんまやらかすなよ。稲垣は御曹司なんだからよ〜。ま、でもその正義感、先生、嫌いじゃないけどね〜」
三上先生は、そう言って、俺にウィンクした。この人はとても安心できると思っている。あのときも、他の先生が呆れた顔をする中、新井さんと三上先生だけが、俺を救ってくれた。保健室の時計が、チクタクと時を刻んでいる。
「斉藤君、じゃあ、僕は戻るよ」
田中君は、絶望の表情を苦笑いに変えて、保健室を出た。時計を見ると、もう5時間目の終わり頃だ。扉が閉まって、田中君がタッタッと走る音が聞こえた。足音は遠ざかって、次第に消えた。
「田中はお前が大好きなんだよ。だから気にすんな」
突然、三上先生が話し始めた。頬杖をついて、俺を目で貫いている。俺は目を横に逸らしてしまう。なんか、真剣だから。
「お前、新井がさ、気になってんだろ。だったら、もっと素直になった方がいいって」
核心を突かれる。苦手だ。いや、この人が苦手ってことじゃない。逃げてる自分が嫌いで、それを突かれるのが苦手だ。逃げてる?いや、俺は逃げていない。
「新井さんは……大事な人ができて、幸せだと思います。だから、俺が気にすることは、何もないです」
「ふざけんな!良い加減にしろ!」
三上先生は、机をバンと叩いて、怒鳴り声を上げた。俺はベッドの上で、驚いて縮み上がる。こんなに怖い三上先生を見たのは、初めてだ。
「お前は自分を殺したいのか!」
俺は言い返せない。どころか、痛いところを突かれて泣きそうになる。自分の気持ちを、殺したいわけがないだろ。それでも、俺が気持ちを殺すだけで、新井さんは、今まで通り凛としてカッコいいままでいてくれるんだ。絶対に、困らせたくない。それに、新井さんには彼氏がいる。それなら尚更、困らせたくはないんだ。
「三上先生、ありがとうございます。でも、新井さんは、稲垣先輩と付き合ったそうですし、それで新井さんが幸せなら、俺はそれが一番嬉しいです」
「お前は死にたいのか!」
三上先生は間髪入れず答えた。そりゃ、死にたいわけがないだろうが!それでも、俺は死ぬより、新井さんを困らせたくない!何故なら……。何も伝えなければ、死ぬのは俺の心だけで済む。新井さんは、稲垣先輩と幸せになる。それでいい。三上先生は、鋭い目つきで俺を睨みつけている。その目が、最大限の侮辱を意味していて、俺は辛くなった。
「ごめんなさい。もう帰ります」
そう言った瞬間、三上先生との間に、絶対に壊せない壁ができた。三上先生は何か言っていたけど、気づいたら、保健室のドアをバンと閉めていた。俺は、そそくさと廊下を進んだ。やり切れない思いが渦巻いて、足元の視界がぐらついて、思考も正常ではない。苦しい。逃げたい。逃げられない。俺はそのまま、学校を飛び出した。まだ、6時間目が残っていたことは、家に着いてから気づいた。
月曜日、俺は学校を休んだ。休んだというか、勝手に行かなかった。11時くらいに、勘付いたアイツがドタドタと階段を登って来た。
「アンタ!何してるの!早く起きなさい!」
「具合が悪い」
俺が気分悪そうな声で言うと、
「夜更かししてるからでしょ!そんなの通用しないわよ!」
と、布団を捲られた。寒い、イライラするなあ。俺が思っていると、一階で電話が鳴った。
「学校からよ、きっと」
アイツは呆れた顔をして、ドタドタと階段を降りて電話を取った。うるさいなあ、開けたらせめてドア閉めてくれよ。
「ハイ、ハイ……まあ〜」
あのデカくて汚い声は、何とかならないものか。おまけにデリカシーもない。本当の母親でもないくせに、世間体の為に、こういうことには大慌てだ。家事は俺に任せきりで、自分は何もしないくせに。
「ゴミクズ」
俺が呟くと、またドタドタ、アイツが階段を登る音が聞こえた。
「アンタ、金曜日から具合が悪かったそうね。何で言わないの」
俺は仮病なので、何のことか分からなかったが、コイツに正直に言う義理はない。
「お前に話すことは何もない」
そう言うと、アイツは足で床をドンと踏み鳴らした。
「誰のお陰で生きてると思ってんだ!殺さないだけマシだと思えや!」
そう言って、さっきの倍くらいの足音で、ドタドタと一階へと降りて行った。
「……ドア、閉めろよ、クズ」
俺もイライラして、ドアを勢い良くバァンと閉めた。
夢を見た。新井さんの夢を。新井さんが、俺のことを好きだって噂が、クラス中で広がって、俺は新井さんを探しに行く。でも、何処を探してもいない。そしたら、稲垣先輩が現れて、俺を睨みつけた。俺が、新井さんは何処か尋ねたら、彼はこう言った。
「殺した」
驚いて目を覚ますと、俺は汗だくになっていた。窓の外は、もう暗くなっていて、カラスの鳴き声が聞こえた。そうか、あれから昼飯も食べず、部屋に閉じこもってたからな。それより、気味の悪い夢だった。何より、新井さんが死んだと知ったときの、あの心が保てなくなるほどの恐怖。二度と感じたくない気持ちだ。時計を見ると、17時。夢のせいで、食欲もないが、食べたら気も紛れると思い、俺は台所へ向かった。俺が、冷蔵庫の取手に手をかけたとき、同時に玄関のチャイムが鳴った。仕方ないので、俺は玄関のドアを開けた。すると……
「斉藤」
「あ、新井さん……」
そこには、なんと、新井さんがいた。どうして、新井さんが、ここに……。新井さんは、俺を見て、謝りたそうな、恥ずかしそうな、とにかく、いつもの凛とした新井さんじゃない顔をしていた。
「生きてて良かった……あっ」
俺はどうかしている。寝ぼけてるのもあるが、さっきの夢に引っ張られて、新井さんに変なことを言ってしまった。でも、新井さんはそれを聞いて、ふふっと笑った。
「何で、私が言おうとしたことが分かったの」
「い、いや、たまたま……」
その新井さんの表情は、とても柔らかくて可愛らしくて、俺は胸がぎゅっとなるのを感じた。いつものカッコいい横顔も素敵だけど、こんな風に、弱々しく見える新井さんも、とても素敵だなと思った。
「そ、そんなことより、冷えるから、中に入れよ。今、ウチの人は仕事で、朝まで誰もいないから気にしないで」
「うん……じゃあ少し」
とりあえず、新井さんをリビングの椅子に座らせた。俺は、温かいルイボスティーを2杯テーブルに置いて、新井さんの向かいに座った。新井さんは、俺に軽く頭を下げて、ルイボスティーを啜った。寝ぼけていて理解してなかったが、この状況は、まるで夢みたいだな。実はまだ、夢だったりして……。
「……で、どうして急に尋ねて来たの。そもそも俺の家知ってたっけ」
「三上先生に聞いたの。用事は、三上先生に様子を見て来いって頼まれて」
「三上先生が?この間あんなに叱られたのに……」
「斉藤が無断欠席したのも、三上先生が上手く話してくれたみたいよ、貴方のお母さんに」
変だとは思ってたけど、三上先生が電話してくれたのか。この間は、喧嘩みたいになっちゃったのに。新井さんは、俺のティーカップを握ったまま、俺の目をじっと見ている。
「斉藤は、三上先生が好きなんでしょ」
「なっ!?」
俺は変な声を出してしまう。
「あー!やっぱり、好きなんだ」
「ち、違う、違うよ!」
必死で弁明しようとするけど、俺の慌てた態度が、逆に隠しているように映りそうで、更に動揺してしまう。本当は、新井さんのことが……誤解されたくないけど、そんなことは、絶対に……。
「私はさ、稲垣先輩と付き合うことにしたんだ」
俺があたふたしてると、新井さんはボソッと言った。新井さんは、目を横に逸らして、笑っているけど、困った顔をしていた。
「田中君に聞いたよ。あの、おめでとう」
すると、新井さんは、ガッと立ち上がって言った。
「ばか!!」
俺がハッとしたとき、彼女の目は泣きそうだった。俺はそれを見て、心を抉られた。俺は極悪人かも知れない。新井さんは、別の言葉を聞きたかったんだ。俺は、それが分からなくて……いや、言えなくて、でも、それは絶対に悪いことで、彼女を苦しめてしまった。新井さんは、ついに涙を拭こうとして、左手を顔に近づけたとき、俺はなんとか救い出したくて、咄嗟に言った。
「新井さん、だ、大好き……だよ、です……」
確実に時間が止まった。新井さんも、固まってしまった。瞬間、自省して、俺は今、自分が今言ったことを、後悔した。それは新井さんが求めてる言葉じゃなくて、俺が言いたいだけの言葉だった。こんなことを言ったら、新井さんはもっと困ってしまうかも知れない。時計の秒針の音が聞こえ始めた。時間は、動いている。
「斉藤」
「ご、ごめんなさい!変なこと言ってしまって!」
俺は、間髪入れずに謝った。せめて謝らないと、やりきれなかった。新井さんは、やっと涙を拭いた。涙を拭いて、優しく微笑んだ。
「謝らなくていいよ。私こそ、ばかって言ってごめんね」
新井さんは、また椅子に座って、残ったルイボスティーを全部飲み干した。俺もルイボスティーを啜る。一息ついて、新井さんは話し始めた。
「斉藤は覚えてないもんね。私が、殴るのを止めに入ったとき、稲垣先輩が、俺の彼女になるならやめてやるって言ったの。だから、付き合うことにしたの」
「そんな……」
新井さんは、斜め下を向いて、悲しげな表情を浮かべた。新井さんは、俺を庇うために、稲垣先輩と付き合ったのか、嫌なのに。俺もそれを見て、悲しくて嫌な気持ちになった。でも、新井さんは、すぐにふっと顔を上げて言った。
「大丈夫!すぐ別れればいいんだから。付き合うって、約束は守ってるでしょ」
「稲垣先輩、そう簡単に別れてくれるかな」
俺は相変わらずしょぼくれてて、後ろ向きだ。
「でも、そうするしかない!そうするしかないことはそうするしかないんだよ」
気づいたら、新井さんは、いつもの凛とした新井さんに戻っていた。後ろ向きな俺を、いつも引っ張ってくれる、強くてかっこいい新井さんだ。
「新井さん、どうもありがとう、俺を庇ってくれて」
俺は頭を掻きながら言った。
「それなら、今度こそ、一緒にスケッチ、行こうね」
新井さんは、にっと笑って言った。そうか、あのときの誘いは、スケッチだったのか。俺は、あのとき断ってしまって、物凄く後悔した。多分、新井さんを傷つけてしまったから。やり直しができるなら本望だ。俺は声を振り絞って答えた。
「うん!絶対行こう!!」
そのときの、新井さんのとびきりの笑顔は、今でも俺の心の中にあって、思い出すと、とても温かい気持ちになる。




