第9話「『君だけが僕を理解してくれる』を顎で止めました」
「ああ、やっと二人きりになれたね。ずっとこの時を待っていたんだ」
「……ロラン様。ここは夜会の会場ですわ。あまり本邸から離れるのは、感心いたしません」
「構わないさ。あんな息苦しい場所より、君とこうして月を眺めている方がずっと心安らぐ」
グラント侯爵邸の広大な庭園。
夜会の喧騒から遠く離れた、月明かりだけが頼りの薄暗い生垣の奥。
甘く囁きながら距離を詰めてくるロランを前に、私は扇子で口元を隠し、完璧な微笑みを浮かべていた。
(ええ、本当に好都合ですわ。周囲に人目はありませんし、私の腰裏に仕込んだ録音魔道具は、すでにバッチリ起動済みですもの)
「君はいつも美しいね、セシリア。君のその輝きに比べれば、夜空の星すら色褪せて見えるよ」
「恐れ入ります。ですが、そのようなお言葉は奥様であるエレナ様にこそ向けるべきかと存じます」
私が静かに窘めると、ロランは大仰に肩をすくめ、はあと深いため息をついた。
「エレナ……? ああ、あのつまらない女の話はしないでくれ。君も知っているだろう、あれはただの政略結婚だ。家同士の都合で結ばれただけで、あそこには愛なんて欠片もないんだよ」
(愛がないのは、あなたが一片の歩み寄りも見せず、勝手に心を閉ざしているからでしょうに)
我がレーヴェン家の教えは『常に謙虚であれ、そして誠実であれ』。
最も身近にいる伴侶を蔑ろにし、己の不満ばかりを他人のせいにするこの男の不誠実さに、私の内心の温度は急激に下がり始めていた。
「ロラン様。エレナ様は侯爵家の女主人として、立派に務めを果たしておられます。奥様に対する不敬な発言は、お控えください」
「一度目の警告ですわ」、と。私は明確な意思を持って言葉を紡いだ。
しかし、自己憐憫に酔いしれる男の耳には、私の声など全く届いていないらしい。
ロランはさらに一歩、私へと歩み寄ってきた。
「体面なんてどうでもいい! 心までは縛られないはずだ。僕は自由を求めている! 君だけが僕を理解してくれる……ああ、僕の小鳥。このまま二人で、地の果てまで逃げてしまおうか」
(山奥の特訓で百回聞かされた台詞ですわね。一言一句違わず同じとは、逆に感動いたします)
私は下半身のバネを静かに沈め、いつでもワルツのステップで死角に回り込める構えを取りながら、冷ややかに告げた。
「お言葉ですが、私はあなたの理解者ではございません。これ以上、私に近づかれないよう。……二度目の警告です」
「照れ隠しなんてしなくていいんだよ、セシリア。君だって、本当は僕を待っていたのだろう?」
陶酔しきった顔で、ロランがついに手を伸ばしてくる。
私はそれをひらりと優雅に躱し、扇子をパチンと閉じた。
「……三度。三度の警告をいたしましたわ」
「いい加減にしてくれ!」
思い通りにならない私に苛立ったのか。
ついにロランは声を荒らげ、力任せに私の細い手首をガシッと掴んだ。
「なぜ分からないんだ! 君なら僕の苦しみがわかるだろう!? 愛嬌の欠片もない、あのつまらない女と違って……っ!」
愛する妻を、再び侮辱したその言葉。
そして、私の令嬢としての尊厳を力で犯そうとする、明確な『加害』の意思。
(――よろしい)
その瞬間。
私の目から、一切の温度が消え失せた。
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