第10話「三度警告いたしました。では、正当防衛です」
私の細い手首を力任せに掴み、あろうことか愛する伴侶を再び侮辱した男。
その瞬間、私の目から一切の温度が消え失せた。
「……ロラン様」
私は決して、暴力を好む傲慢な人間ではない。
我がレーヴェン家の教えである『常に謙虚であれ』という言葉を胸に、今日まで淑女として誠実に生きてきた。
しかし、自らの不満を他人にぶつけ、か弱い女性の尊厳を一方的に踏みにじろうとする不届き者に対してまで、ただ謙虚に虐げられる謂れはないのだ。
私は掴まれた手首をふわりと返し、ロランの腕の関節を完璧な角度で極めながら、静かに、そしてはっきりと告げた。
「三度警告いたしました。では、正当防衛です」
「いっ、あがっ!?」
手首に走る激痛に、ロランの顔が醜く歪む。
私はそのまま、優雅なワルツのステップで彼の懐へと滑り込んだ。
下半身のバネを極限まで圧縮した、ヴィオラ師匠直伝の挨拶の構え。
そこから生み出される体重移動のすべてを、右手に握った鉄扇の柄に乗せ――ロランの顎の裏へと、的確にかち上げた。
パァァァンッ!!
「あべぶっ!?」
美しい夜の庭園に、まるで乾いた破裂音のような快音が響き渡る。
ロランの体はふわりと宙に浮き、そのまま美しい放物線を描いて、庭園の中央にある巨大な噴水へと落下していった。
ザバーーーーーーーンッ!!!
盛大な水飛沫が月明かりに照らされ、キラキラと宝石のように輝いて散る。
冷たい水に全身を打たれたロランが、「ごぼっ、ひぃっ!?」と間抜けな悲鳴を上げて噴水の中でもがいていた。
私はドレスの裾を少しだけ持ち上げ、美しく一礼する。
その時、背後の生垣の影から、ひそひそと男たちの声が聞こえてきた。
「今の見たか!? 腰の入りが10点満点だぜ!」
「ああ、相手の力を利用した踏み込みが完璧だった。さすがは俺たちの姐さんだ」
「姐さん、本日も麗しいっす……!」
(ギルドの皆様、声が漏れておりますわよ)
心の中でそっとツッコミを入れつつ、私は居住まいを正した。
騒ぎを聞きつけ、広間から次々と貴族たちが庭園へ集まってくる。
「な、なんだ!? グラント侯爵令息が噴水に!?」
「一体何事だ!」
ざわめく群衆をかき分け、アルベルト様を先頭に、ヴィオラ師匠や老貴族夫人など『共犯者』の皆様が堂々と姿を現した。
「ロラン・グラント殿」
アルベルト様が、冷ややかな声で噴水の中の男を見下ろす。
「我々は、あなたがセシリア嬢に強引に迫り、危害を加えようとした現場をはっきりと目撃した。彼女の反撃は、疑いようのない正当防衛であると証言しよう」
「なっ……き、貴様ら……! でっち上げだ! セシリアが僕を誘惑して――」
見苦しい言い訳を叫ぼうとしたロランの声を遮るように、私は腰の裏から『録音魔道具』を取り出し、再生のスイッチを押した。
『――ああ、あのつまらない女の話はしないでくれ。君も知っているだろう、あれはただの政略結婚だ』
『体面なんてどうでもいい! 心までは縛られないはずだ。僕は自由を求めている!』
魔道具から響き渡る、紛れもないロラン自身の声。
不貞の意思。妻への明確な冷遇と侮辱。
集まった貴族たちの視線が、一瞬にして氷のように冷たくなる。法廷でも証拠採用されるこの魔道具の音声を前に、言い逃れなどできるはずがない。
「あ、あ、ああ……っ」
ロランの顔から、さぁっと血の気が引いていく。
完全な社会的失墜。彼がこれまで蔑ろにしてきた立場や信頼が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
そして。
静まり返った群衆が、さっと左右に道を開けた。
そこに、夜会のドレスを纏ったエレナ様が、静かに歩み出た。
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