第11話「これは、私の分です」
静まり返った群衆が、さっと左右に道を開ける。
そこに現れたのは、夜会の美しいドレスを纏ったエレナ様だった。
彼女の足取りには、かつての怯えたような迷いは一切ない。凜と前を見据え、ただ真っ直ぐに、噴水の中で惨めに震える夫の元へと歩み寄った。
「エ、エレナ……っ! 違うんだ、誤解だ! この女が僕を誘惑して――」
見苦しくすがりつこうとするロランの言葉は、最後まで紡がれなかった。
パァンッ!
夜の庭園に、今日二度目の乾いた音が響き渡る。
エレナ様が振り抜いた右手が、ロランの頬を綺麗に打ち据えたのだ。
「……っ!」
「これは、私の分です」
痛みに頬を押さえるロランを見下ろし、エレナ様は氷のように冷たく、けれどどこまでも静かな声で告げた。
「あなたはいつも、ご自身の不満を私のせいにして、その言葉で私を縛り付けてきました。私が至らないからだと、ずっと自分を責めて参りましたが……もう、やめにいたします」
そう言って、エレナ様は懐から、一枚の分厚い羊皮紙を取り出した。
老貴族夫人や法に明るい方々が徹底的に練り上げた、法的に一切の逃げ道を塞いだ完璧な書類である。
「これまで、ありがとうございました」
「な、なんだそれは……」
「離婚届です。慰謝料の金額は、こちらに」
ロランが震える手でその書類を受け取る。
そこに記された莫大な請求額と、侯爵家当主――つまり彼の実の父親の署名を見た瞬間、ロランは白目を剥いてへたり込んだ。
我がレーヴェン家の教えは『常に謙虚であれ、そして誠実であれ』。
私はあくまで裏方であり、ここでしゃしゃり出るような無粋な真似はいたしません。一歩下がり、扇子で口元を隠しながら、この気高い一人の女性の決断を静かに見守る。
周囲を取り囲んでいた貴族たちから、ヒソヒソと容赦のない囁き声が漏れ始めた。
「不貞の動かぬ証拠に、あの慰謝料……。グラント侯爵も、ついに放蕩息子を見限ったか」
「当然だ。あれほどの醜聞、爵位の継承権は間違いなく停止だろう」
「社交界からも永久追放だな。自業自得というやつだ」
社会的失墜。
それこそが、誠実な者を虐げた輩に下される、最も重く正当な罰である。
もはやロランは立ち上がる力すら失い、冷たい噴水の中で誰からも手を差し伸べられることなく、絶望に顔を覆って泣き崩れた。
すべてが、終わったのだ。
エレナ様は、もう二度と振り返ることなく、踵を返して私のもとへと歩み寄ってきた。
その瞳からは、これまで彼女を縛り付けていた泥のような疲労感も、自己卑下も、綺麗に消え去っている。
「セシリア様」
彼女は私を真っ直ぐに見つめ、ふわりと――夜に咲く一輪の百合のように、心からの美しい微笑みを浮かべた。
「私、明日から何をして生きていけばいいでしょう」
晴れやかな、けれど少しだけ途方に暮れたようなその問いかけに。
私は深く、優雅な挨拶で応えて、にっこりと微笑み返した。
「決まっておりますわ。──ご一緒に、サロンを開きましょう」
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