第7話「奥様、あなたは何も悪くありません」
「申し訳ありません、セシリア様。先ほどは、お見苦しいところを……」
夜会の喧騒から離れた、静まり返った侯爵家の控え室。
バルコニーでの会話を聞かれていたと悟ったエレナ様は、青ざめた顔で震えながら、私に向かって深く頭を下げた。
「私が至らないばかりに、不快な思いをさせてしまいましたね。女主人の務めも果たせず、夫の心すら慰められない。私は本当に、つまらない女なのです」
自嘲するように紡がれるその言葉に、私は胸が張り裂けそうになった。
我がレーヴェン家の教えは『常に謙虚であれ、そして誠実であれ』。
エレナ様は誰よりもその教えを体現するような、誠実で気高い方だ。それなのに、あの男からの心無い言葉の刃を浴び続けた結果、彼女の誇りはズタズタに引き裂かれ、自己の尊厳すらも見失ってしまっている。
私はゆっくりと歩み寄り、冷え切った彼女の両手を、私の両手でそっと、けれど力強く包み込んだ。
「エレナ様。どうか、ご自身を責めないでくださいませ」
「……え?」
「あなたは何も悪くありません。不誠実なのは、己の身勝手な不満を相手のせいにして正当化しようとする、あの方です」
私のまっすぐな言葉に、エレナ様は信じられないものを見るように目を丸くした。
今まで、誰も彼女を肯定してくれなかったのだろう。周囲の人間も、侯爵家の権力を恐れて口をつぐみ、彼女ひとりが暗闇の中で耐え忍んできたのだ。
私は、彼女の瞳の奥にある深い傷跡を真っ向から見据えた。
「あなたの夫を奪う気はありません。けれど、あなたの人生を取り戻すお手伝いならできます」
「私の、人生……」
「はい。誰かに虐げられるためではない、あなたがあなたとして、誇り高く微笑むための人生です。そのための盾にも、剣にも、私は喜んでなりましょう」
私は静かに、けれど揺るぎない決意を込めて告げた。
山奥でヒグマの巨体を投げ飛ばし、冒険者ギルドで大剣を叩き折ってきたこの手は、決して暴力のためにあるのではない。
理不尽に泣く、この気高く美しい女性の居場所を守るためにこそ、私は血の滲むような修練を積んできたのだ。
「セシリア様……っ」
ぽたり、と。
私の手の甲に、温かい雫が落ちた。
エレナ様の大きな瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出していた。声を殺し、震える唇を噛み締めながら、彼女は私の手をすがるように強く握り返してくる。
私はただ静かに彼女の隣に立ち、その背中を優しくさすり続けた。
彼女がこれまでに流すことの許されなかった涙が、すべて枯れ果てるまで。
やがて、少しだけ泣き腫らした目で顔を上げたエレナ様は、不思議なほどすっきりとした、清らかな表情をしていた。
私の中にあった『原作のヒロイン』というあやふやな輪郭が消え、一人の力強く美しい女性がそこに立っていた。
「……ありがとうございます、セシリア様。私、もう逃げません」
「ええ。私がついておりますわ」
私は優雅に微笑み、扇子をそっと胸元で広げた。
ここからは、淑女の反撃の時間である。
「次の夜会で、ロラン様はきっと動かれます。──ええ、原作通りに」
──────────




