第6話「原作ヒロインに会ってしまいました」
グラント侯爵家主催の夜会。
それは私にとって、熊との死闘よりも恐ろしい戦場への入り口だった。
数時間前。私は冒険者ギルドの面々から、盛大な見送りを受けていた。
『姐さん、夜会ってことはボスの討伐っすね!』
『気をつけてくだせえ! 姐さんの鉄扇なら、鎧の騎士でも一撃ですが!』
『セシリア様、ご武運を……っ!』
ギルドの男たちや受付嬢の熱い声援を背に受けながら、私は豪奢な馬車に乗り込んだのだ。
(私は一体、どこへ向かっているのかしら……)
馬車の中で遠い目をしながらも、私の心には確かな覚悟が宿っていた。
私が討伐——もとい、対話すべき相手。それは、愛する妻を裏切り、私を不倫相手役に引きずり込もうとする身勝手な男である。
そして現在。
煌びやかなシャンデリアが照らす侯爵家の大広間。
壁際で様子をうかがう私の前に静かに歩み寄り、ふわりと挨拶をした女性がいた。
「セシリア様。本日はようこそおいでくださいました」
彼女こそが、この屋敷の女主人であり、原作小説のヒロイン——エレナ・グラント様だった。
「お招きいただき、光栄の至りに存じますわ、エレナ様」
私も完璧な作法で礼を返す。
下半身のバネを極限まで圧縮した、いつでも敵の死角に回り込めるヴィオラ師匠直伝の『構え』である。
しかし、顔を上げた私の目に映ったエレナ様の姿に、思わず息を呑んでしまった。
(……なんて、お労しい姿なの)
原作で描かれていた彼女は、太陽のように明るく、誰からも愛される輝くような美貌の持ち主だったはずだ。
しかし、目の前に立つエレナ様は違った。
確かに顔立ちは美しい。けれど、その頬は不健康に痩せこけ、瞳の奥には深い疲労と諦めが泥のように沈殿している。
豪華なドレスを着飾って女主人の役割を果たそうとしているが、彼女の自己肯定感が根元から削り取られ、今にも崩れ落ちそうになっているのが痛いほど伝わってきた。
(夫からの度重なる冷遇と、身勝手な不満の押し付け……。これが、どれほど気高い女性の心を壊すというの)
我がレーヴェン家の教えは『常に謙虚であれ、そして誠実であれ』。
誰よりも誠実にこの家を支えようとしているこの方を、あの愚かな男は『つまらない女』と切り捨て、私を愛人役として引き込もうとしているのだ。
許せない。
同じ女性として。そして、理不尽を憎む一人の人間として。
私はドレスの襞に隠した鉄扇を握る手に、ぎゅっと力を込めた。
「あの……セシリア様? 私の顔に、何かついておりますか?」
私の鋭い視線に気づいたのか、エレナ様がビクッと肩を震わせて目を伏せる。
私は慌てて、努めて柔らかな微笑みを浮かべた。
「いいえ。あまりにもエレナ様がお美しくて、つい見惚れてしまったのです。もしよろしければ、後ほどゆっくりお話しさせていただけませんか?」
「私と……ですか?」
「はい。ぜひ、奥様と」
エレナ様は信じられないものを見るような顔をした後、少しだけ嬉しそうに、はにかむように笑った。
その儚い笑顔を守るためなら、ヒグマ百頭とでも戦える気がした。
それからしばらくの間、私は壁際で息を潜めていた。
本日の最大の標的であるロラン・グラントは、まだ私の前に姿を現さない。
索敵のために少しばかり広間を離れ、人影の少ないバルコニーへ向かった、その時だった。
「……だから言っているだろう。君のそういう硬直した考え方が、僕を息苦しくさせるんだ」
夜風に乗って、聞き覚えのある甘く、そしてひどく傲慢な男の声が鼓膜を打った。
分厚いカーテンの向こう側。月明かりに照らされたバルコニーの暗がりに、二つの人影がある。
「申し訳ありません、旦那様。ですが、侯爵家としての体面が——」
「体面、体面! 君はいつもそればかりだ!」
苛立たしげな男の怒声に、エレナ様が身を縮こまらせるのがシルエットで見えた。
反論することすら諦め、ただ嵐が過ぎるのを待つような、悲痛な姿。
「ああっ、どうして僕の妻が君のような冷たい女なんだ! 君は本当に僕を分かってくれないね」
夜の庭園に冷たく吐き捨てられたその言葉。
それは、私が前世の記憶の中で嫌というほど読まされた、『自己憐憫』に塗れた男の常套句だった。
愛する妻の尊厳をナイフでえぐるような、身勝手極まりない刃。
(…………あたくしの、目の前で)
ピキッ、と。
私の手の中で、閉じた鉄扇の柄が軋む音がした。
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