第3話「『君だけが僕を理解してくれる』を百回聞く女」
「君だけが僕を理解してくれる。ああ、僕の小鳥。このまま二人で、地の果てまで逃げてしまおうか」
「お戯れを。そのように甘いお言葉は、どうぞご自身の奥様へお伝えくださいませ」
「……ふむ。では次じゃ。『君の瞳の輝きに比べれば、夜空の星すら色褪せて見えるよ』」
「恐れ入ります。ですが、私の瞳は夜空を照らす役目など負っておりませんわ」
ここはうっそうと茂る山奥の丸太小屋。
暖炉の火がパチパチとはぜる音だけが響く中、私はヴィオラ師匠と向かい合って座り、延々と『逢引の寸劇』を繰り広げていた。
ただ優雅にお茶を飲みながら座っているわけではない。
私は今、下半身のバネを極限まで鍛え上げるための、あの深く腰を落とした挨拶の姿勢を維持したまま、頭上に並々と水の入った木製の器を乗せているのだ。
一滴でもこぼせば、師匠の持つしなる木の枝が容赦なく私の太ももを打つという、地獄の責め苦である。
「師匠、もう七十八回目ですわ。そろそろ足の感覚が消え失せ、耳が腐り落ちそうですけれど……」
「甘い! これしきの言葉と負荷で表情筋を動かすようでは、実戦で足元をすくわれるぞ! 淑女たるもの、いかなる恥知らずな妄言をぶつけられようとも、鉄の仮面を被り通すのじゃ!」
「は、はいっ!」
私は悲鳴を上げそうになる筋肉を必死に叱咤し、口角だけを僅かに上げた完璧な『愛想笑い』のまま頷いた。
師匠の手には、分厚い紙の束が握られている。
それは私が前世の記憶を頼りに書き出した、あの浮気男——ロランが口にするであろう『甘い台詞』の数々である。
「……それにしてもセシリアよ。この台詞を書いたのはお前じゃが、読んでいるわしまで虫唾が走るわい。なんじゃこの『君の涙を拭えるのは僕だけだ』とは」
「おっしゃる通りですわ、師匠! 私も思い出しながら吐き気を催しましたもの! あの方、ご自身に酔う才能だけは天才的なのです!」
ロランという男は、侯爵家の嫡男という立場でありながら、美しく心優しい妻であるエレナ様を蔑ろにし、幼馴染の私に悲劇の主人公ぶって擦り寄ってくる。
『愛がない政略結婚なんだ』『君だけが僕の心の癒やしだ』。
そんな言葉で同情を引き、あわよくば自分の慰み者にしようとする、本当にどうしようもない輩だ。
我がレーヴェン家の教え『常に謙虚であれ、そして誠実であれ』。
それに照らし合わせれば、万死に値する不誠実さである。
「よいか、セシリア。男の甘言とは、毒気を帯びた刃と同じじゃ。まともに受け止めれば心が死ぬ。だからこそ、柳のように受け流し、同時に己の尊厳を守る強固な盾が必要となる」
「盾、ですか」
「そう。つまり、何事にも動じない精神力じゃ。さあ、続けるぞ。『ああ、君の唇はまるで、朝露に濡れた薔薇のよう——』」
「殿方のお世辞は、時に毒より恐ろしいと存じておりますわ。どうか、それ以上はおやめください」
私は頭上の器を微塵も揺らさず、一切の感情を排した声で即座に言葉を返す。
百回。
なんと私はこの日、師匠の抑揚のない棒読みによる甘い台詞を、肉体の限界に耐えながら実に百回連続で跳ね返し続けたのだ。
最初は鳥肌が立ち、次いで怒りで頭上の水が沸騰しそうになったが、七十回を超えたあたりから悟りを開いたように心が凪いでいった。
なるほど、これが『聞き流す』ということか。
今なら、ロランが至近距離で愛を囁いてきたとしても、氷点下の微笑みを浮かべたまま、手首の関節を華麗に極めることができるだろう。
「……うむ。見事な精神力じゃ、セシリア。肉体の動きも、心の練度も、驚異的な速さで仕上がりつつある」
師匠が満足そうに紙の束を置き、湯気を立てるお茶をすすった。
私もようやく頭上の器を下ろし、床に崩れ落ちそうになるのを気合いで堪えて優雅に椅子に腰掛ける。
「もはや、この山奥の獣たちでは、お前の動きについてこられまい。基礎は完成したと言っていい」
免許皆伝に近いその言葉に、私の胸に熱いものが込み上げる。
来る日も来る日も、熊の突進を避け、扇子で木の枝をへし折り、感情を殺して甘言を無効化する訓練を重ねてきた。
すべては、エレナ様の平穏と、私の清らかな令嬢としての誇りを守るため。
しかし、私は静かに立ち上がり、ドレスの裾をつまんで深く、完璧な挨拶の姿勢をとった。
「感謝いたします、師匠」
そして、まっすぐに師匠のシワだらけの顔を見据えて言った。
「ですが師匠、熊では足りません。私が想定すべき敵は、二足歩行で爵位を持っております」
──────────




