第2話「カーテシーは下半身を鍛える、らしい」
「さあセシリア、まずは完璧な挨拶からじゃ」
「はい、師匠! ……えっと、このようにでしょうか?」
「甘い! その体勢のまま、あと二時間は耐え抜くのじゃ!」
(に、二時間!?)
私の膝が、プルプルと情けない音を立てて震え始める。
ここは、王都から遠く離れたうっそうと茂る山奥。
巨大なヒグマを素手で沈めたヴィオラ師匠の指導のもと、私の『淑女の作法』という名の特訓が幕を開けていた。
「よいか、セシリア。挨拶とはただ優雅に頭を下げるものではない。いかなる急襲を受けても即座に反撃できるよう、下半身のバネを極限まで溜め込む至高の『構え』じゃ!」
「わ、私が知っている社交界の常識と大きく乖離している気がいたしますわ!」
「馬鹿者! 殿方からの理不尽な要求に対し、毅然と立ち向かうにはまず己の体幹を鍛えることが必須! 腹に力を入れろ!」
ピシッ、と師匠の持つしなる木の枝が私の足元を叩く。
ひいいっ、と私は悲鳴を上げながら、腰を深く落としたカーテシーの姿勢を維持する。
令嬢のドレスの重みが、容赦なく太ももの筋肉をいじめてくる。これ、絶対に明日は筋肉痛で一歩も動けなくなりますわ!
「次は扇子の扱いじゃ。扇子は優雅に顔を隠すためだけにあるのではない」
「では、何のために……?」
私が息も絶え絶えに尋ねると、師匠は懐から鉄扇を取り出した。
「こうじゃ!」
シュバッ!
師匠が取り出した鉄扇が、目にも留まらぬ速さで私の首筋ピタリと止まる。
ヒッ、と息を呑む私に、師匠はニヤリと笑った。
「手首のスナップを利かせれば、男の急所を的確に打つ凶器となる。さらに柄の部分を使えば、手首を掴んできた不届き者の関節を極めることも可能じゃ」
「か、関節を……!?」
「そうじゃ。淑女たるもの、手首を掴んできた男の外し方くらい知っておかねばなりません」
(名言のように仰っていますが、物理的に外すという意味ですよね!?)
心の中で激しくツッコミを入れながらも、私は必死にメモを取る。
——扇子は打撃武器および捕縛具。なるほど、大変勉強になりますわ。我がレーヴェン家の『謙虚であれ』という教えに従い、有用な知識は素直に吸収せねば。
これさえあれば、あの浮気男……ロランが馴れ馴れしく私の手を握ってきた時、即座に手首の関節を極めて「お戯れを」と優雅に微笑むことができる。素晴らしい護身術だ。
「休む暇はないぞ。次は夜会のダンスじゃ。ステップを踏んでみよ」
「は、はい! イチ、ニ、サン……」
「遅い! その程度の踏み込みでは、大剣の間合いから逃れられんぞ! ワルツのリズムで敵の死角に回り込むのじゃ!」
「夜会に大剣を持ち込む殿方はいらっしゃいませんわーっ!」
悲鳴を上げながら、私は泥だらけのドレスで森の中をステップして回る。
右へ、左へ。
優雅なワルツのステップが、いつの間にか完璧な回避行動へと昇華されていく。
木の枝を剣に見立てて振り回す師匠の連撃を、私はフンッ! ハッ! とドレスの裾を翻して次々と躱していく。
「ふむ、筋が良い。その調子で、最後は『微笑み』じゃ」
「微笑み、ですか?」
ようやく令嬢らしい項目が出てきて、私は少しだけホッとする。
「そうじゃ。いかなる暴漢を前にしても、淑女は決して余裕を失ってはならん。完璧な微笑みこそが、敵への最大の威圧となるのじゃ。ほれ、笑ってみよ」
「こ、こういうことでしょうか……ふふっ」
私は息も絶え絶えになりながら、極限の疲労の中で唇の端を引き上げた。
自分でもわかる。間違いなく、目が笑っていない。
泥だらけで肩で息をしながら、能面のような笑顔を張り付けている令嬢。
「……合格じゃ。今の貴様、なかなかに猟奇的な雰囲気を醸し出しておるぞ」
「褒め言葉として受け取ってよろしいのでしょうか!?」
ドッと地面に崩れ落ちる私。
全身の筋肉が限界を迎え、ピクピクと痙攣している。
伯爵令嬢の体力を、完全に凌駕する地獄の運動量だ。
けれど、これで浮気男を——私の尊厳を脅かす理不尽を撃退できるなら、決して無駄ではないはず。
奥様であるエレナ様を裏切り、私を『愛人役』という日陰の立場に引きずり込もうとする身勝手な男。
そんな運命、私が己の足腰で粉々に打ち砕いてみせますわ!
(ええ、やってやりますわ。あの自己憐憫男を、礼儀正しくお断りするために!)
私が拳を強く握りしめた、その時だった。
「うむ、肉体の基礎はできつつあるな」
満足げに頷いた師匠が、湯気を立てるお茶をすすりながら、とても恐ろしいことを口にした。
「では次は、甘い言葉を聞き流す訓練じゃ」
「……はい?」
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