第1話「熊と踊る令嬢、開幕です」
「いやあああああああああっ! 熊! 熊ですわ、師匠!?」
「落ち着きなさい、セシリア。あのような毛むくじゃら、ただの少し大きな犬です」
「二足歩行で丸太を軽々とへし折る犬が、この世にいてたまるものですかあああっ!」
うっそうと茂る深い森の中。
私の目の前には、立ち上がれば三メートルはあろうかという巨大なヒグマが、凶悪な牙を剥き出しにしてよだれを垂らし、鼓膜を破らんばかりの咆哮を上げていた。
「グルルォォォォォッ!!」
凄まじい風圧と獣の臭いに、私の結い上げた金髪が乱れる。
死ぬ。間違いなく死ぬ。
伯爵令嬢として蝶よ花よと育てられたひ弱な肉体など、あの丸太のような太い腕で薙ぎ払われれば、文字通り木端微塵になってしまう。
しかし、私の隣に立つ小柄な老婆——ヴィオラ師匠は、深いしわの刻まれた顔で、ふう、と呆れたようにため息をついた。
「よく見ておきなさい。獣の暴力など、淑女の嗜みがあれば恐るるに足らず、です」
言うが早いか。
師匠は音もなく滑るように、ドレスの裾を揺らして一歩を踏み込んだ。
まるで夜会で優雅にダンスのステップを踏むかのような、流麗で一切の無駄がない動き。
ヒグマが怒り狂って振り下ろした豪腕を、師匠はスッと身を沈めて紙一重で躱す。
そして、そのまま熊の巨大な懐へと潜り込むと——素手で、分厚い毛皮に覆われた顎の裏を強烈にかち上げた。
ドゴォォォォォォンッ!!
およそ人間の放ったものとは思えない、大気が震えるほどの爆音。
白目を剥いたヒグマの巨体が、ふわりと重力を忘れたように宙に浮く。
そして、ズシンッ! と地響きを立てて仰向けに倒れ、ピクピクと手足を痙攣させたのち、完全に沈黙した。
「…………えっ」
私は開いた口が塞がらなかった。
嘘でしょう?
かつては王城で、王妃様付きの筆頭護衛侍女を務めていたとは聞いていたけれど。まさか、素手でヒグマを単独討伐できるなんて一言も聞いていない。
(……そもそも、なぜ伯爵令嬢である私が、こんな山奥で野生の熊と対峙しているのかしら)
ガクガクと震える膝を必死に両手で押さえながら、私は数日前の出来事を思い返していた。
事の始まりは、私が原因不明の高熱を出して倒れたことだった。
三日三晩、熱にうなされる中、私は突如として『前世の記憶』を鮮明に思い出したのだ。
そして、恐るべき真実に気がついてしまった。
ここが、前世で愛読していた異世界恋愛小説の中であることに。
あろうことか私、セシリア・レーヴェンが、原作ヒロインの夫を誘惑する幼馴染——つまり『愛人役』という最低の役回りであることに!
(冗談じゃありませんわ!)
思い出した瞬間、私はベッドの上で怒りのあまり枕を壁に投げつけた。
私は前世から、不貞行為を働くような不誠実な輩が何よりも嫌いだったのだ。
他人の夫を奪う? 日陰の身でコソコソと愛を囁き合う?
そんな下劣な真似、誇り高きレーヴェン家の令嬢として、断固拒否いたします!
我がレーヴェン家の家訓は『常に謙虚であれ、そして誠実であれ』。
その教えを胸に生きてきた私が、よそのご家庭を壊す泥棒猫になるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
さらに言えば、原作ヒロインであるエレナ様は、とても心優しく我慢強い、素敵な女性なのだ。
彼女を裏切って理不尽に泣かせるなんて、同じ女として絶対に許せるはずがない。
けれど、原作の絶対的な筋書き通りなら、あの見目だけは良い侯爵家の嫡男——浮気男のロランが、近いうちに必ず私に甘い言葉を囁きにくるはずだ。
私がどれだけ謙虚に、誠実に距離を置こうとしても、あちらから強引に言い寄ってくる。
家の権力差を盾に迫られれば、か弱い令嬢の身では逃げ切れないかもしれない。
ならば、どうするか。
(愛人役になるくらいなら……浮気男を礼儀正しく、かつ物理的に撃退できる女になればいいのですわ!)
私は決して、傲慢に暴力を振るいたいわけではない。
あくまで己の尊厳を守り、理不尽な悪意から身を守るための、確かな『自衛の術』が欲しいだけなのだ。
そう決意した私は、両親を拝み倒し、親戚の伝手を頼りにこの山奥に隠遁していたヴィオラ師匠の元へ押しかけた。
『どうしても習得したい礼儀作法があるのです』と、必死の思いで弟子入りを志願したのである。
(ええ、そうです。すべては我が身と、尊敬すべき奥様の平穏を守るため……)
私は土で汚れたドレスの裾を握りしめ、己の決意を確かなものにするように深く頷いた。
そんな私の内心など知る由もなく。
沈黙した熊を背に、ヴィオラ師匠はゆっくりとこちらを振り返った。
そして、シワだらけの顔ににっこりと——ひどく不穏な笑みを浮かべて言い放つ。
「さあ、セシリア。淑女たるもの、まずは熊から始めましょう」
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