終末のメリーさん
オキニ。
最高傑作の一つ。
プーーー、プーーー、プーーー・・・・・・・。
プーーー、プーーー、プーーー・・・・・・・。
プーーー、プーーー、プーーー・・・・・・・。
「もしもし、わたしメリーさん・・・」
少女の鈴が鳴るような透明で可愛らしい声だけが、電話口に放たれただけだった。
雀の涙ほどの期待も虚しく、今日も電話は繋がらない。いや、もしかしたら、最初から期待はしていなかったのかもしれない。だからか、ときおり慰めで掛ける時報の自動音声が、じんわりと沁みる時がある。
誰にも届いていないことを無情に突きつける機械音が、またもや彼女の心に浅くない傷を付ける。
電気が通っているのが信じられないほど寂れた公衆電話の受話器を元に戻した。そして、行き宛のない旅をしては、ふと人恋しくなって見つけた電話ボックスから適当な宛先へと電話を掛ける。
何回も、
何回も、
何回も・・・。
飽きるほど聞いた音なのに、メリーさんは諦めることができなかった。諦めたら、本当に自分の何かがそこら中で風化して割れた摩天楼の残骸と同じ末路を辿ってしまうと恐れたから。
荒廃し、風化し、何もかも壊れてしまったような終末の世界で、自分の何かを失うのを怖がっているメリーさんは、世界と自分の温度差に自傷気味に笑ってしまった。その笑みも声も、健康的な潤いはなかった。
昔は一億人以上もいた日本も崩壊し、大きな軍艦島と化してしまっていた。自然と動物が覇権を握り、人間の文明の痕跡だけ取り残され、人の気配というものは、圏外みたいに何も感じ取れなくなっていた。
「寂しい」という言葉を吐いたのは、いつ以来だろう。メリーさんは、ショーウィンドウの中に飾られたモダンドレスを見つめながら回顧した。
記憶が正しければ、外壁も屋根も内装も残っているのに、人だけがぽっかりと消えてなくなった日本家屋を見た時だった筈だ。
欠けた瓦屋根、軋む縁側、埃の匂いがする居間の畳。
空っぽの時間に削れていく人の営み"だった"ものを各地で見る度に、メリーさんは自分の感情がぎこちなく、ひび割れた蝋人形のようになっていく感覚に陥った。パキン、と破砕音が聞こえてきそうな崩落の兆しに眩暈がする。
かつて人間がここで息をして、心臓を動かして、頭で考えていた。その揺るぎない事実と残滓が、申し訳程度に彼女の心を支えている。
怪異に寿命などない。強いて言うなら、世界から忘れ去られた時が消滅の時だろう。
または、思い切って自死を選んでもよかった。
だが悲しいかな、メリーさんは怖かった。怪異であろう存在なのに、死ぬことが怖かった。
昔、まだ登れるくらいに無事だった高層マンションの上から飛び降りようと登った時、動物以外の命のない、無機物と有機物の箱庭を見渡した。人がいた頃の方が美しかったが、彼女はまだその景色を「綺麗だ」と感じられた。脳ではなく、"こころ"というもので、そう受け取ったのである。
だから、メリーさんは一見地獄にも思える、終わりのない旅を続けている。
自分が死なないのは、まだ自分を覚えている人間がどこかで生きているからかもしれないと、小さな希望に縋っていたいから。
自分が死ねないのは、自分を忘れていない人間がこの世にいるからかもしれないという、物証のない希望的観測が余りにも眩しすぎたから。
大きな橋を渡っている。
人間の作った橋は案外頑丈で、ワイヤーはまだ切れそうにない。塗装の剥げた赤い手摺と錆びた鉄骨の塔は、社会主義国のハリボテの王様のように偉そうだった。
敗戦直後の王城へ続く道を歩くようだ。荒れた一本道に、その言葉がしっくりきた。
一人で真っ直ぐ対岸まで続く橋を歩くのは、街中を歩くより心細かった。ボロボロの乗用車、倒れたバイク、どの車のか分からないタイヤ。荒れた惨状は、海風を以てしても爽やかさを取り戻すには足りなかった。
橋下の海を眺めても、そこにいるのは魚と貝類、もしかしたらイルカかもしれない。
どっちにしろ、それで孤独が紛れるはずもなく、またメリーさんは歩き出した。自分は命ではなく、言葉と言葉で会話がしたいのだ。
時刻は分からないが、太陽はもう地平線の二個上にあった。
ある日、雨雲が流れてくるのが見えた。急いでどこか雨風の凌げる場所に泊まらないといけない。
歩道に掲げられた地区のマップを見ると、2ブロック先に大きなホテルがあると書いてあった。そこで一晩、もしくは数日は横になってしまおうと考えた。
小綺麗なままの目的のホテルに入り、階段をカツカツ鳴らして適当なフロアの部屋に入る。オートロックは無意味になっていた。
中は意外と荒れてはおらず、比較的清潔な宿泊部屋を保っていた。メリーさんは白いゴスロリのようなドレスを脱いでベッドに身を投げる。白い陶器のような艶やかな肌が、そこまで迫っている鉛雲のせいで美しく煌めかなかった。
窓を閉めて、小さな滝のようにガラスを洗い流しながら歪む外の景色を呆けて見ている。いっそのこと、この現実すら悪い夢だと流して排水溝に消えて欲しいと願ったのは何度目だろう?
彼女は、雨に濡れるのが嫌いだった。
燻んでいるが美しさを失っていない金髪が痛むからじゃない。お気に入りの白いドレスがシワになってしまうからじゃない。
目元に落ちて頬を伝う雨粒を、自分の涙と勘違いしてしまいそうになるからだ。
最初にそう勘違いして雨のせいだと知った時の絶望は、言葉にするよりも重かった。
洗面所の蛇口を捻ったメリーさんは、浴槽に水を溜めてタオルを染み込ませ、行水のように体と髪を洗った。
心地良い温水とか、人肌程度の暖かみなんて高望みはしていない。したら、また現実が生傷を増やしにやってくる。
自分の温度のない肌よりも、僅かばかり高い温みがあるだけで、今は幸せだったのだ。
メリーさんは部屋にあった寝衣に着替え、ドレスをハンガーにかけてベッドに入った。体温がないから布団は暖かくならない。
それでも何か安心できる。彼女にはそう思えた。身を包むという行為そのものが、人間の防衛本能に似た何かを刺激していた。
「きょうは、よくねむれるかな?」
ふと、無意識に独り言を呟いた。
人形少女は、このベッドで同じように今まで眠った人々のことを想いながら目を閉じた。
起きてみれば、空は恨めしいくらいに晴れていた。泣き疲れた雲は、すでに青の中に消えていた。
雀の声が外から聞こえた。とうに乾いたベランダに寝巻姿のまま出て、雨のおかげで皮肉にも綺麗になった街を見下ろす。
自分は孤独なのに空は綺麗。そんな理不尽な八つ当たりじみた嫉妬と苛立ちを込めた目で、次は空を見上げた。ガラス玉のような綺麗な彼女の瞳は、心と無関係に陽光を反射していた。
いつになく感傷的な自分を不思議に感じていたメリーさんは、部屋に戻って寝巻からいつものドレスに着替え、部屋を出た。
また亡霊のようにこの世を彷徨うのかと憂鬱になっていると、一階のフロントで鳴り出した突然の電子音に、体がビクリと反応した。
プルルルル、プルルルルーーーーー。
ホテルのフロントから、固定電話の着信音が聞こえたのだ。
恐怖よりも、電話に出たい欲が遥かに勝っていたメリーさんは、餌を求める獣のように電話まで走り、受話器を取った。
受話器を握った手が、いつもより強く指を絡めている。
「・・・もしもし、わたしメリーさん」
『ーーーーーー』
声はしない。しかし、風のような音と、ガラスが揺れる環境音は耳に聞こえた。
「いま、あなたはどこにいるの?」
つい、いつもの常套句とは違う言葉が出てしまった。
何でもいいから話してほしい。
声を聞かせてほしい。
独りじゃないと教えてほしい。
しかし無情にも、電話は切れてしまった。またあのツー、ツー、という音が鼓膜を叩く。
不可思議な電話によるチャンスを逃したと、膝が折れて座り込みそうになった。
だが、ふと固定電話のディスプレイが目に入った。そこには、電話をかけてきた相手の番号が映し出されていた。
メリーさんは近くのメモと鉛筆でその番号を書き取り、急いで外に出た。電話番号を調べるために、古本屋へ向かったのだ。
本に負けないぐらいに古くなった廃書店に、まだ本は健在だった。きっと店頭にはないと踏んだメリーさんは、バックヤードの倉庫に向かった。厚い埃を我慢して本の山を切り崩すと、一冊の電話帳を見つけた。
それを捲って市外局番を探すと、それはあった。
発信先は、岩手県大船渡市だ。
ここから岩手県までは歩くしかないため遠い道のりだが、わずかな可能性を求めるしかなかった。
メリーさんは、都内からひたすらに岩手県を目指した。時に雨や雷、時に土砂崩れで歩きにくい県道。それでも、あの絶望と諦観に満ちた日々と比べれば困難とも呼べぬものだった。
山を越え、川を越え、線路の上を歩いてみたり、道中の家や旅館で夜を過ごしたり・・・。
はっきりと目的のある旅は、今までが悪夢であったかのように楽しかった。太平洋沿いの県を北上して、海沿いをなぞっていく。
時間感覚の狂ったメリーさんでは、あの希望の電話を受け取った日から何日経ったかなんて分からなかった。
数ヶ月かもしれないし、半年かもしれない。少なくとも、まだ雪は見ていないから一年は経っていないとだけ把握していた。
メリーさんは疲労を感じない。
しかし、精神を蝕んできた様々な負の感情が足を重くしていた。足も痛くないのにガタガタと震え始めている。いよいよ、体に限界が来たのだと悟った。
それはそうだ。
彼女の、メリーさんの元は人形だ。修理してくれる人などいる訳もなく、人間のように休息を取るだけでは限界があったのだ。
誰かに会うまで、あの電話をくれた誰かに・・・。
それはもはや、執念に近い強い決意となっていた。
そうしていつのまにか、目的地である国道45号線沿いの町が見えてきた。
誘蛾灯に群がる蛾のように、まだ見ぬ希望を信じ続ける。
道を外れて少し離れたところにある町の案内マップを調べていると、一つだけ気になる場所があった。
「風の電話」
小さくその言葉を反芻した。どんな電話なのかは知らないが、メリーさんは予感がした。
この電話だ。
ざっくりとした町の地図を頼りにその場所を目指す。ある程度舗装された道は丘のように上り坂で、民家と畑、そして林が左右で道を開けてくれていた。
短いトンネルを潜って丘を登っていると、右手に何か書いてある縦長の看板があった。ベルガーディア鯨山という名のバス停跡で、その下には文字の薄れたホワイトボードがあった。
そこには風の電話と書いてあった。この庭園の名前らしい。メリーさんは庭園内に入り、手入れされていないにしては綺麗な姿である草木や花を見ながら進んでいく。
すると、左側に白い建築物が見えた。
間違いない、あれは電話ボックスだ。
木でできた手製の看板には、水色の文字で風の電話と書いてあった。
嬉しさに、何年も死んでいた表情が綻んだ。急くように電話ボックスへ早歩きで近寄る。
しかし、そこに人はいなかった。
来たからといって必ずいるとは思っていなかったメリーさんは、気にせず電話ボックスの中に入ってみる。
中には、白い小さな置き板、その上にノートと黒電話が置かれていた。
この電話からあのホテルに掛かってきたのかと電話に手を伸ばしかけたメリーさんは気づいた。この電話は、誰にも繋がることはない物であった。電話線が最初から繋がっていなかったのだ。
言葉にならない悲しみの海に溺れて、彼女は遂に初めて涙を流した。涙なんて存在しないはずなのに、何でだろうか、暖かい雫が涙腺から流れ落ちた。
驚きのあまりに顔を上げたことで、彼女は電話機横の壁に貼られた紙に気づいた。それはどうやら、この不思議な電話ボックスの説明みたいだった。
"風の電話は心で話します
静かに目を閉じ 耳を澄ましてください
風の音が又は浪の音が
或いは小鳥のさえずりが聞こえたなら
あなたの想いを伝えて下さい"
メリーさんは悟った。この電話は、もう会えない大切な人に想いを伝える電話なのだと。
ノートを広げて中身を確認してみると、ここに来た色んな人の想いが濃密に書き残されていた。
メリーさんは絶望とは違う、暖かくも痛い感情でまた泣いた。
ぽたり。ぽたり。
ノートに透明なシミが点々と広がる。自分は本当に泣いているんだと、泣けているんだと自覚した。
そして、何かに導かれるように黒電話の受話器を取って、電子音すらしない静かな電話口に向かって言葉を溢し始めた。
「もしもし、わたしメリーさん。いま、たいせつなひとにとどく電話ではなしているの。
わたしはずっとひとりぼっちだった。でも、わたしはひとじゃないから、泣けないし、おなかがすかないし、眠くならないの。
だれかのこえとか、たいおんとか、においとか、なんでもいいからかんじたくて・・・。ここまでずっと歩いてきたの。
もし、わたしのこえが、だれかさんにとどいているなら、わたしをわすれないで、ずっとおぼえていてね。
わたしは、それがわかっただけで、すっごいしあわせなの・・・!」
途中から涙声で、嗚咽を懸命に抑えながら、心にずっと抱えていたものを言い尽くした。
電話線のない受話器で、誰かに繋がるなんて奇跡はない。そう冷静な自分と世界は突きつけてくるが、ここまで自分を連れてきてくれた着信を幻だとは思いたくなかったし思えなかった。
確かに電話機には、ここの番号が出ていたのだから。
最後にノートを広げ、弱々しくも可愛らしい文字で最後尾のページに書き記した。形で残り続けるように、雨にも風にも消えないように。
"わたし、メリーさん
ひとりぼっちだから、だれかに会いたくてここに来ました
わたしのたびは、ここでおしまい
いろんなやなことあったけど、かみさまがここにわたしをつれてきたの
ほんとかどうかわからないけど、さいごにわたしはしあわせをみつけられたよ
だから、さよならじゃくて、ありがとう"
メリーさんはゆっくりとペンを置いて、電話ボックスから出ていった。太陽は橙色で、丘の上から眩しくメリーさんの背中を照らしている。
草と砂を踏む音を鳴らしながら、どこかに消えてしまおうと電話ボックスを離れようと数歩歩いた。
その時、古臭い電話のベルが鳴った。
「え?」
黒電話特有の、ジリリリリーーンという音が後ろからした。
そんなはずはない、幻聴だ。そう自分に言い聞かせる。確かにあの電話線は繋がっていなかったのだ。
じゃあ、誰が?
好奇心と期待に負けたメリーさんは、ゆっくりと振り返った。
そこには、西陽と逆光で曖昧なシルエットとなった白の電話ボックス―――そして、いつの間にか人影があった。
顔はよく見えないけど、靴や服までちゃんと見える。白いワイシャツに黒のズボンとスニーカー、背中にはリュックを背負っている。
男性だ。
幾星霜待っても会えないと思っていた、人間の、男性の姿がそこにあった。
じわりと目頭が熱くなる。幻想なのが怖くて、震えた手を伸ばしてゆっくりと近づいていく。
それを見て男性も、優しくその手を伸ばして、遂に両者の指先が触れた。
暖かい。
暖かい。
暖かい!
自制が効かなくなったメリーさんは、手繰り寄せるように手を引っ張り男性の腰元に抱きついた。
やっと会えた名も知らない希望を、絶対離さないという強い意志が込められていた。
泣きじゃくりながら男性を見上げる。
笑いながら男性を見上げる。
優しい目つき、微笑んでいる口元、海風で少し揺れる前髪。
嗚呼、幻なんかじゃない。
彼女が求めて、求めて、求めてやまなかった存在は自分の腕の中に今ある。
その真実が嬉しくて仕方なかった。孤独という呪いから、やっと、解放された。
「どうした、そんなに泣いて? 親とはぐれたのか?」
男性はメリーさんの頭を軽く撫でていた。低くて、優しい声が耳を打った。
メリーさんはひたすら、ありがとうを繰り返し言うだけだった。シャツは涙で濡れていて、メリーさんは暫くして泣き疲れたのか、寝てしまいそうに船を漕いでいた。
それがメリーさんには、ちょっと不安だった。寝て起きてしまえば、希望の光がいなくなってしまいそうで不安だった。
それを感じた男性は「仕方ないな」と言って、背負っていたリュックを前にしてメリーさんを背中におんぶし、風の電話を後にした。その揺れすら心地良くて彼女は寝息を立て始めていた。
背中で子供のように男性にぎゅっとしがみつくメリーさんは、寝言のように、安心した声色で呟いた。
「もしもし、わたしメリーさん。いま、あなたのうしろにいるの」
どこかで聞いたことのあるフレーズに、男性は少し目を見開いたが、すぐに柔らかく笑って言葉を返した。
「もしもし、ぼく―――さん。いま、きみのそばにいるよ」
初めて聞いた男性の名前。聞こえてか知らずか、メリーさんは花のような可愛らしい笑顔をしていた。
小さな声で、噛み締めるように、甘えるように、人間の名前を呼び続けた。
丘で揺らめくフリージアが、彼らの暖かい背中を見送って咲いていた。
ドラマ化、待ってます




