うつけどもの変
歴史小説を書いてみたかったんじゃ。
京都の外れで、寺が轟々と燃え盛る。
怒号と火が弾ける音が、夜空の星すら吹き飛ばしていた。
剣戟の軽々しい金属音と、刃毀れして参道に落ちた刀。東から吹く風に乗って、鉄臭い臭いが鼻を劈く。何よりも恐ろしいのは、寺を囲む兵ではなく、息すら奪おうとする業火に他ならなかった。
長定(蘭丸)は既に死しており、小姓衆も今は火の中である。弓は三度射ったとこで、弦が切れてしまった。女子供だけは寺から逃した。こんな馬鹿げた心中に付き合うのは、馬鹿げた武士どもだけで十分であった。
肘に予定のなかった槍傷を受けてしまい、怪我の功名と言うべきか、よりらしくなってきたのは幸いだろうか。
傍付きの家臣達には申し訳ないと、一層赤に包まれる堂内に座る、第六天魔王「織田信長」は珍しく憂いていた。
己が計画の為に、家臣達に内緒でこのような大事を成そうとしていたのだから。
道中で横たわる亡骸は、恐怖などなく、ただ無念をほんのり醸した苦い表情だった。
「是非もなし」
何かを悟ったような、または何かに諦念の意を示したような、そんな無駄に重い言葉と息が漏れた。梁を焼く火よりも、その声は鮮明に聞こえた。
先に自害してしまった、膝下にある信忠の首を、伴天連から買った元・黒人奴隷の"弥助"に預ける。
「ことあらば、岐阜へ」
弥助は無言で信忠の首を持ち、布に包むと一礼して廊下へ飛び出した。
途中で見つかっても大丈夫な保証はあった。自分以外の数十人が犠牲になる以外の手筈は、既に整えられていたからだ。
信長は自害用の短刀を放り投げ、悠然と本能寺の外へ歩いていった。庭先には人気はなく、垣の先にも自分の首を狙う輩のただ一人もいなかった。明智軍に出会うこともなく、裏手の林から山の上まで行くと、協力者は既にそこで待っていた。
桔梗紋があしらわれた鎧甲冑、細かい筋が立っている六十二間筋兜、煤で少し黒く汚れた貌。
「ご無事でしたか、信長様」
「うむ。弥助は逃がしたな光秀」
「はい」と短く返事して、東の方を指差す信長より少し若い将。
信長の壮大な茶番の協力者は、謀反を仕掛けたはずの明智光秀だった。その目には憎しみや野心などはなく、ただ少しの悲しみが宿っていた。
元々、謀反を起こした理由は秀吉と家康から持ちかけられた暗殺に起因している。秀吉は天下人になるために、家康はかつて妻と子を奪われた恨みのために、頼られていた光秀を引き入れたのである。
だが、光秀の忠誠心は野心を上回っていた。光秀は信長にこのことを密告すると、怒り狂うと思えばまるで「好機」とばかりに悪い笑みを浮かべた。
そして企てたのが、この本能寺の変であった。秀吉達に取り入り、裏から日の本を太平に導くために、信長は自由と好奇心のままに世界に飛び出すために、盛大な芝居を打って出たのである。
信長は明智から用意されていた変装用の僧服を着て、傘を被り籠に乗り込む。
光秀は今生の別かのように、信長をいつもより細めた視線で見ていた。
「日の本はお前にくれてやろう。あの猿や狸を上手いこと使うがよい。儂は、そうだな、南蛮で星でも知ろうかのう」
「・・・信長様、本当によろしいので?」
「何がじゃ光秀」
「天下も統一間近ですのに、外国に飛び出して何をお求めになるのですか?」
信長は、久しくしていなかった少年のような悪戯心に満ちた顔でニヤリと笑い、光秀の肩を叩いた。
「世界とは、常に外にしか在りはせぬ。より向こうへ、そのまた向こうへ・・・。儂は天下を獲るのではなく、天下を知り、そして眺めたかっただけよ」
相変わらず壮大で、奇天烈で、そして斬新な考えの持ち主だ。最後まで信長に舌を巻いた光秀は、細い涙で感服の意を示した。
「左様ですか。ならば、拙者も天下を統一なんて小さいことはできませんな。更に先・・・そう、泰平を作ってみせましょう。貴方を討ち取ったという疑似餌で、秀吉殿や家康殿の目と心を欺き、歴史の大罪人になろうとも」
「・・・・・・で、あるか」
二人の間に、それ以上の言葉は要らなかった。
光秀は山を降りて本陣に戻り、部下達を欺く為にありもしない主君の首を探し、秀吉にわざと敗れ、家康の庇護下に入る為に。
堺を目指す信長は、焼け落ちていく本能寺と薄ら明るくなっていく山陽を小さい窓から覗きながら、これからのことに思いを馳せていた。
「まずは、伴天連どもに言葉を教わらなくてはな。南蛮で日本語が伝わるわけなかろうて」
信長は、海の向こうの国に広がる未知への好奇心と、光秀に操られる秀吉らへの愉悦に、その口角を少し上げて小さな日影の遥か先を眺めていた。
信じるか信じないかは、貴方次第です




