午後四時、願いの歌は窓辺に座る
この物語はフィクションです。
テトはともかく、登場するマスターと作者は一切関係ありません。
部屋には時計がない。
必要になれば画面の右下を見ればいいし、締め切りが近づけば、時間のほうから焦った顔をしてやって来る。だから壁は白いままで、その代わりに吸音材と、古いポスターと、使い込まれたヘッドホンがぶら下がっていた。
五月の終わりの風が、少しだけ開けた窓から入り込む。カーテンが揺れるたび、デスクトップのフィギュアが小さく震えた。
マスターはキーボードの前で腕を組み、三十分以上同じ画面を見つめていた。
メロディはある。
コードもある。
歌詞だけがない。
「・・・・・・書けない?」
声がした。
振り返る必要はなかった。
重音テトはいつものように窓辺に腰掛け、外を眺めている。足をぶらぶらと揺らし、夕方の光を髪のドリルに絡ませながら、退屈そうに空を見ていた。
「書けねえ」
「へえ」
「へえ、じゃないが?」
「じゃあ今日はお休みだね」
彼女はあっさり言って笑う。
マスターはため息をついた。
「来週投稿なんだけど」
「来週は来週の自分が頑張るよ」
「その来週の自分が今の俺なんだよ」
テトは首を傾げ、それから窓枠に頬杖をついた。
「でも、書けないものは書けないでしょ」
その言葉だけが、妙に静かに部屋へ落ちた。
パソコンのファンが低く回っている。遠くで救急車が走り、どこかのベランダで布団を叩く音がした。
世界は何も止まっていないのに、この部屋だけが午後四時に取り残されている。
男は椅子にもたれた。
「昔はもっと簡単だったんだけどな」
「何が?」
「何でも歌にできた」
「今は?」
「考えすぎる」
誰かに届くだろうか?
ありきたりじゃないか?
昨日の自分より良いものだろうか?
そんな問いばかり増えて、最初の一音が遠くなる。
テトは少し考えてから、机の上に置かれた紙切れを拾った。
スーパーのレシートだった。
牛乳。豆腐。食パン。卵。アイス。
「これ歌にしよう」
「無理だろ」
「牛乳を買う人の心情」
「浅えわ。グァムの砂浜か」
「豆腐を選ぶ人生」
「もっと浅い。にがりが足りん」
「アイスが半額だった喜び」
「衛生面怖えよ」
男は思わず笑った。その笑いを見て、テトも少しだけ口角を上げる。
「笑った」
「・・・うるせぇ」
「ほら、書けるじゃん」
「あ?何が」
「今の」
男は画面を見る。
カーソルが点滅している。
何かを書いてほしいわけでもなく、ただそこにいる小さな光。
指が少しだけ動いた。
五月の夕方、アイスは半額だった。そんな一文を打ち込む。
意味はない。
物語でもない。
けれど、空白よりはずっと前に進んでいる。
「ねえ」
テトが窓の外を見たまま言う。
「人ってさ、どうして歌うんだろう」
「知るか」
「悲しいから?」
「嬉しいからかもよ?」
「暇だから?」
「それもある」
「じゃあ全部だ」
彼女は納得したように頷いた。
雲がゆっくり流れていく。電線に止まった鳥が一羽飛び立つ。
男はその横顔を見る。
人ではないはずなのに、不思議と季節の似合う存在だった。
春には少し浮かれて見え、夏には窓辺でだらけ、秋には夕焼けを眺め、冬にはマグカップを両手で包んでいる。
そんな記憶ばかり積み重なっている。
「テト」
「ん?」
「お前は歌う理由、あんの?」
彼女は少しだけ考え、それから笑った。
「呼ばれるから」
「誰に?」
「君に」
あまりにも簡単に言うので、男は返事を失った。
ソフトを起動して、音符を置いて、再生ボタンを押す。それだけで彼女は声になる。
泣きたい歌も、怒った歌も、眠れない夜も、夕飯の献立も。
どんな言葉でも歌になる。
男が呼べば。
「だから歌う」
テトは続けた。
「君が作るから」
風が吹く。カーテンが膨らみ、午後の光が少しだけ傾く。
部屋には相変わらず時計がない。それでも夕方が近いことだけは分かった。
男は新しいファイルを開く。
タイトルは未定。テンポだけ先に決める。8小節を置き、コードを並べる。
テトは椅子の背にもたれ、興味深そうに画面を覗き込んだ。
「今回はどんな歌?」
「まだ分からない」
「じゃあ一緒だね」
「何が」
「私もまだ歌ってないから」
男は少し笑う。
カーソルが進む。
窓の外では洗濯物が風に揺れ、自転車がゆっくり坂を下り、名前も知らない誰かが買い物袋を提げて帰っていく。
世界は相変わらず何気ない。歌になるほど劇的なことなど何も起きない。
けれど、アイスが半額だった日や、書けなくて黙り込んだ午後や、窓辺で風を眺める合成音声の横顔は、きっと忘れた頃に旋律になる。
男は最初の歌詞を書いた。
――時計のない部屋で、風だけが時間を知っている。
テトはそれを黙って読み、静かに頷いた。夕方の光が二人の影を床へ長く伸ばす。
歌はまだ、始まっていない。
デレデレな僕っ娘、よきかな




