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ディスマン短編集『語らずとも談る』  作者: ディスマン


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沙乱れ

なんか書かないかんと思って

 五月の風は、まだどこか冬の記憶を残したまま、柔らかく街を撫でていく。


 朝の光がカーテンの隙間から差し込むと、部屋の中に浮かぶ埃が、まるで小さな星のように瞬いて見えた。僕は目を細めて、それをしばらく眺めていた。昨日までと何も変わらないはずの部屋なのに、どこかだけが、ほんの少しだけ違っている気がした。

 それが五月のせいだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。

 窓を開けると、少し湿り気を帯びた空気が流れ込んでくる。遠くで鳴く鳥の声、通りを走る車の音、どこかの家から漂ってくる洗剤の匂い。それらが混ざり合って、胸の奥に静かに沈んでいく。


 この季節になると、どうしても思い出してしまうことがある。

 それは、あの日の午後のことだ。

 あの日も、こんな風に草木の吐息が優しかった。

 僕と彼女は、川沿いの道を歩いていた。桜はもうほとんど散っていて、代わりに若葉が眩しいくらいに光っていた。水面はきらきらと反射して、目を逸らしたくなるほど明るかった。


「五月、好きなんだ」


 彼女はそう言って、少しだけ前を歩いた。僕は疑問を問わずにはいられなかった。


「なんで?」

「始まりと終わりが、ちょうど混ざってる感じがするから」


 振り返った彼女の髪が、風に揺れていた。光を受けて、透けるように柔らかく見えた。その瞬間、僕は何かを言おうとして、吃音のように言葉を失った。

 今思えば、あのとき既に、何かは終わりかけていたのかもしれない。

 でも、そのときの僕は、そんなことを考えもしなかった。ただ、彼女の言葉の意味をうまく理解できなくて、曖昧に笑うことしかできなかった。

 川の傍のベンチに座ると、風が少しだけ冷たくなった。彼女は両手を膝の上に置いて、静かに水面を見ていた。


「ねえ」


 彼女が言った。


「もしさ、全部なくなっちゃったら、どうする?」

「全部って?」

「思い出とか、関係とか。そういうの全部」


 僕は少し考えてから、肩をすくめた。


「んなの、また作ればいいんじゃない?」


 軽く言ったつもりだった。でも、その言葉はどこか薄っぺらくて、風に乗ってどこかへ飛んでいってしまいそうだった。

 彼女は小さく笑った。


「そうだよね」


 その笑顔が、どうしてか妙に遠く感じられた。

 それからしばらく、二人とも何も話さなかった。風の音だけが、間を埋めていた。遠くで誰かの笑い声が聞こえた気がしたけれど、それが現実なのかどうかも、はっきりしなかった。

 あの時、何かひとつでも違う言葉を選んでいたら、今は変わっていたのだろうか。

 そんなことを、五月になるたびに考えてしまう。

 結局、彼女とはそのあとすぐに会わなくなった。特別な理由があったわけじゃない。ただ、連絡が少しずつ減って、気づけば何も残っていなかった。

 まるで、季節が変わるみたいに。

 急激ではなくて、でも確実に。

 部屋に戻って、僕は珈琲を淹れた。湯気がゆらゆらと立ち上るのを見ていると、あのときの川の水面を思い出す。

 光は同じように揺れているのに、そこに映るものはもう違っている。

 窓の外では、洗濯物が風に揺れていた。白いシャツが空に溶け込むように広がって、まるで何かを忘れようとしているみたいだった。

 僕はカップを持ち上げて、一口だけ飲んだ。

 少し苦かった。

 でも、その苦さが嫌じゃなかった。むしろ、どこか安心するような感覚があった。

 思い出も、きっと同じなんだと思う。

 甘いだけじゃなくて、少しだけ苦いから、忘れずにいられる。


 机の上には、古いノートが置いてあった。何気なくページをめくると、見覚えのある字が目に入った。

 彼女の字だった。

 いつ書いたのかは覚えていない。でも、その一行だけが妙に鮮明に残っていた。


「五月の風は、ちゃんと覚えていてくれる」


 僕はその言葉を、しばらく見つめていた。

 覚えているのは、風なのか。それとも、僕なのか。

 どちらでもいいのかもしれない。

 ただ、確かにそこにあった時間が、どこかに残っているということだけで。

 外に出てみると、空は高く澄んでいた。雲はゆっくりと流れていて、その動きがやけに穏やかに感じられた。

 あの日と同じように、風が吹いている。

 同じはずなのに、少し違う。

 違うはずなのに、どこか同じ。

 五月は、そういう季節なのかもしれない。

 始まりと終わりが、静かに混ざり合う場所。

 僕はゆっくりと歩き出した。

 どこへ行くわけでもなく、ただ風に押されるように。

 川のほうへ向かう足取りは、不思議と軽かった。

 もしかしたら、何かが変わるわけじゃないのかもしれない。

 それでも、同じ場所に立ってみたくなる。

 あのときの自分と、今の自分が、どれくらい違っているのかを確かめるために。


 川沿いの道に出ると、若葉が一層濃くなっていた。光を受けて、きらきらと輝いている。

 ベンチは、あの日と同じ場所にあった。

 少しだけ色が褪せている気がしたけれど、それもまた自然なことだった。

 僕はそこに座って、しばらく水面を眺めた。

 風が吹くたびに、光が揺れる。そのたびに、何かが胸の奥でほどけていく。

 思い出は消えない。でも、形は変わっていく。

 鋭かったものが、少しずつ丸くなって、やがて風に溶けていく。

 それがきっと、時間というものなのだろう。

 ポケットからスマートフォンを取り出して、連絡先を開いた。彼女の名前は、まだそこにあった。

 消そうと思えば、すぐに消せる。

 でも、指は動かなかった。

 代わりに、画面を閉じて、もう一度ポケットに戻した。

 それでいい気がした。

 無理に何かを終わらせる必要も、始める必要もない。五月は、その間にある場所だから。

 風がまた、頬を撫でた。

 少しだけ温かくなっていた。

 僕は目を閉じて、その感触を確かめた。

 あの日と同じようで、少しだけ違う風。

 でも、その違いが、今の自分を形作っている。そう思うと、不思議と前を向ける気がした。

 目を開けると、空は変わらず青かった。

 どこまでも続いていくような、その色の奥に、まだ見ぬ季節が静かに待っている。


 五月は通り過ぎていく。

 でも、その風は、確かにここに残る。

 僕の中にも、そしてきっと、どこか別の場所にも。

 だから、歩いていける。

 終わりと始まりの、そのまにまを。

重音テトSVが欲しい

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