現在
どさり。
地面にぶつかった衝撃で、目が覚める。
高校生の頃からつい一秒前までの、長い長い回想の夢を、もうずっと見ていた気がする。が、時間にして倒れる間の一瞬のことである。そして、今。やっと、意識が現在に戻ってきた。
痛いとか、熱いとか、寒いとか苦しいとか怖いとかそんなのはもう、全て思考の外だった。自分は今、かつてないほどに冷静だ。
ドクン、ドクンと一鼓動毎に命が腹の穴から失われていく。焦りは無い。指先ひとつ動かせないが、頭はクリアだ。視覚も聴覚もずっと鮮明だ。
後ろから刺してきた奴は、自分を飛び越え金髪の真犯人との距離を詰めると、攻撃を繰り出し始める。地味な黒髪と、派手な赤と金のマント。その隙間から蝙蝠のような羽が見えて、「お前も吸血鬼かよ」と思わず心の中でツッコミを入れる。
攻撃するのは主に黒髪の方で、金髪の方はそれを躱し、いなしていた。異次元の、人外の戦いだった。攻撃手段は、自分をさっき貫いたであろう爪、牙、羽のほかに、魔法も使っているようで、炎や、コウモリ、赤い霧などが二人の間にちらちら見えた。目で追いかけるのがやっとの、息つく暇もない激しい攻撃の最中。どうやら言い争いまでしているらしく、二人の諍う声が倒れ伏す自分の耳にも入ってきた。
「ハハァ!人間のうじゃうじゃいる、こんな辺境まで逃亡するとはなァ?レイン〜?」
「クレイド。何故、追ってきた。」
探していた金髪の真犯人はレイン、自分を刺した黒髪はクレイドというらしい。どちらも名前に『レイ』──つまり『0』が入っているな、などと無駄な事に頭が回る。イチは……自分は、思いの外余裕があるようだ。
「なんだ、来て欲しくなかった、ってか?俺が怖くて里から逃げたんだもんなァ!」
クレイドは嗤う。眼球を張り詰め喉をひらき、大きく大きく口を歪ませて、いっそわざとらしい程に盛大に嗤っている。
「そこに転がってる食料に、泣いて縋ってみたらどうだ?吸血鬼の長がいじめてくるんでちゅ〜!助けてくだちゃあい!ってなァ!おい!何か言い返してみろよ!」
そうやって唾を吐きちらしている間にも、攻撃の手は緩めない。しかしどちらかというと、罵倒の方を優先しているようだ。構ってもらえず癇癪を起こす、子供のようにも見える。レインの表情もにがくなっていく。
「ア!!これは失礼。お前根が暗いから無理かァ!血のぶよぶよ詰まった、お人形さんにすら声が震えて話せないんだよな、レインは。可哀想なヤツ!友達の1人もいないのも納得だなァ!ハハハハハ。」
次第に戦闘は勢いを増して、地上戦から、空中戦へ。互いに蝙蝠羽をはためかせながら、近接戦、遠距離戦、それが瞬きの間に変わっては戻っていく、映画のような光景を見せた。2人の言葉に耳を澄ます。
「そんなんだから、お前の居場所はどこにも無いし!」
居場所が無いのは、辛いよなあ。
「実の親さえお前を助けない!」
本当は自分も、親に助けて欲しかった。
「そしてお前は!惨めったらしく逃げたんだ!」
逃げる事しか、出来ないんだよ。
クレイドの一言一言が、自分に向けられている。そう錯覚した。
なにも、おかしなことではない。被害者への共感というのは、得てしてこんな心理から行われる。
そうだ。自分は、『共感』しているのだ。あろうことか、こんな化け物の真犯人に……いや、レインという一人の男に、共感している。レインを応援しだすのに、さほど時間はかからなかった。
「そんな嫌味を言うために、わざわざここへ来たのか。」
「真逆!お父様が、連れ戻すよう仰ったんだ。何故!何故お前のような混じり物が、お父様のお目にとまる……」
クレイドの緑色の目が怒りに染まり、周りに浮かんだ炎が、グルグルと渦を巻いて手の中に収束されていく。大技が、来る。
「しかぁし!お前は!今!ここで!死ぬンだよォ! 不慮の事故であったと、そう言えば、直ぐにお父様の御脳内からも消えるだろう!」
ビリビリと空気を震わせながら、熱と、光と、確かな殺意が、クレイドの手のひらの上を離れんばかりに膨れ上がっていく。
「お前も周りも生まれを呪うがなァ!もしも……もしもお前が、吸血鬼と鬼のハーフで無かったとしても!お前はこうなる運命だったんだよ!死ねえぇ!」
それが放たれる直前、レインが動いた、と思った直後、クレイドが川に叩き落とされていた。それを認識出来たのは、高く跳ね上がった水しぶきが、雨のようにぼとぼとと落下してきてからだった。炎の魔法は、霧散した。辺りには湿った熱気だけが残っている。
クレイドの方を見やると、先程の勢いはどこへやら、恐怖とも、呆然ともつかぬ顔をして固まっていた。黙りこくって、立ち上がろうともしない。
そういえば、図書館のファンタジーの本に載っていた。吸血鬼は流水を渡れない、と。流れる水が邪気を流して、動けなくなってしまうのだとか。
ふわり、レインは地面に舞い降りると、無力化したクレイドに向けて、静かに語り始めた。
「お前に俺の、何が分かる。」
レインは川へ足を踏み入れると、ざばりざばりと流水を掻き分け、クレイドに近づいていく。悠々と。こともなげに、冷静に。
「俺の人生、知ったフリして。笑わせないでくれよ。」
いや。よく見れば少し、震えている。声も体も、握った拳も。
「お前の父親の事は知らない。ただ、自分の容姿も、人格さえも否定されれば、一族を捨てて逃げるのは当たり前じゃないか。」
そう言うと、クレイドの襟首をおもむろに掴み、また歩いて川岸へと向かった。なすがままでいるクレイドが多少滑稽に見えるが、吸血鬼としては彼の反応が通常なんだろう。レインの方が、異常なんだ。
クレイドはそのままズルズルと引きずられ、足の先まで川から出た途端、まるで金縛りから解けたかのように、乱暴にレインの手を振り払った。
「おい、おい!何をやっているんだお前、正気か?俺をおちょくっているのか?なあ!なんで俺を殺さなかった!お前の、お前のそういう所が嫌いなんだッ!」
物凄い剣幕で、早口でそう捲し立てると、ふらふらと飛び上がった。顔を真っ赤にして、血を出す程に歯ぎしりしている。そうしてまた、攻撃の準備をし出して───
その時、光が差し込んだ。
どんよりとした雲の隙間から、太陽の光が希望みたいに入ってきて、川面も、砂利も、自分たちも、そこらじゅうをキラキラと照らし出した。
その光の当たったところから、クレイドの体は焼け焦げる。青黒い煙を立ちのぼらせながら「あづ、あづ」と苦しみ出した。
「俺はお前に負けていない!川と太陽に負けたんだ!」
そんな捨て台詞を吐きつつ、一言、二言呪文を唱えると、数匹の蝙蝠に姿を変えて、どこかへ飛び去ってしまった。まあなんとも、呆気ない終わり方だった。
残されたレインはそれを見送ると、こちらに近づいてきた。きっと、殺される。殺されなくても、すぐ死ぬだろう。
先程までは寒かったはずなのだが、もう寒さすらも感じない。ただ痺れるばかりで、体の感覚も無い。観察を続けるのも、もう困難であった。視界は極彩色で見づらく、音だって、ひどい耳鳴りと、ヒューヒューと鳴る呼吸音とに邪魔されながら、なんとか聞き分けていたのだ。正常なところは、何一つ無かった。
どんどん、どんどん近づいてきて、自分の前に、立ち止まる。目の前の死にかけを見て、いったい何を思うのだろうか。
彼は、ゆっくりとかがむと、血でぐっしょり染まったシャツをめくりあげた。そうして、やはり血みどろの背中にぬるり、手を差し込み、少し持ち上げて。肋の浮いた胸の下、今もまだ血を流し続けている傷口に、ひとつ、くちづけを落とした────




