梅雨明け、出会い、川魚
むくり、体を起こした。生きている。
少し眠ってしまったが、それほど時間は経っていないようだ。
眩暈、疼痛、倦怠感。重い貧血の感じがあるが、逆に言えば、それを感じる余裕があるということ。傷は無かった。傷跡すらも残っていない、いつもの薄い腹だった。しかし真っ赤になったシャツの、べっとり肌に張り付く不快感が、ひしひしと、夢でないことを伝えていた。
この超常的な回復は、恐らく魔法の類だろう。命の恩人、とは思わない。そもそもあいつがいなければ、こんなことにはならなかったんだから。
ふと横を見ると、当の本人、レインが寝ていた。思わず飛び退く。
日に当たった金髪が、透き通ったように輝いている。煙は出てはいなかった。しかし疲弊しきって、青ざめている。ときたま咳をし血を吐くので、窒息しないよう、体を横にさせた。
彼には恨みと戸惑いこそあれ、感謝を持つ気は起こらない。しかしクレイドとの問答で抱いた『共感』だけが、深く心に残っていた。
居場所が無いと、言っていた。彼は遅かれ早かれ死ぬだろう。警察やクレイド、飢え、恐怖、全てから逃げる、こんな生活が続けられるとは思えない。ぐったりしている今の状態から、持ち直せるかも分からない。
居場所を失う苦しみは、痛いほどに良く分かる。焦燥感と、恥ずかしさと、心を絞られるような感覚。藁にすがることすら許されず、消えてしまいたいと思う気持ち。しかし自分には、退学や引っ越しという逃げ道が用意されていたから、何とか今まで生きてこられた。じゃあ、彼には?レインの居場所は、いったいどこに?
自分の家に連れ帰る。それが一番いいと浮かんで、すぐ打ち消した。
やめろ、やめろ、何を考えているんだ。自分は未だに、人に優しくするのが怖い。中退してからというもの、ニイ以外にはまともな親交を持たないくらいには、人への情けが恐怖であった。自分は誰かを助けてあげられるような、そんなできた人間ではない。自分のことで精一杯の、弱い、弱い人間だ。ましてや、相手は複雑な事情を抱えていそうな吸血鬼、いや、鬼とのハーフと言っていたか。野良猫を拾うのとはわけが違う。またあの大きな、『めんどくさい』に襲われそうな予感しかなかった。絶対、自分の手に余る。
かといってまた、見捨てて立ち去るという決断もできず、悩みに悩んでは、ふらふら歩きまわってみたり、シャツを川で洗ってみたり、石を拾っては捨て、また拾っては捨て、といった、意味のない行動ばかりしていた。そのうち雲が流されて、晴れ間から青空が大きく広がってきたが、まだなお自分はウンウン唸って、頭を抱えて迷っていた。
その時である。魚が一匹、ぱしゃりと跳ねた。
昔、網を仕掛けて捕っていた、あの、流れの速いところであった。ぱしゃりと跳ねては川に潜って、流れに逆らい泳いでいた。
その音でハッと正気に返ると、最初にレインに嚙まれていた、あの女性の事を思い出し、辺りを見回して、急いで倒れているもとへ駆け寄る。果たして、その人は生きていた。スヤスヤと寝息を立てていて、首元にあったはずの傷も消えている。あんなに激しい戦闘があったのに、それに巻き込まれた形跡もない。思えば、ずっと、不思議だった。ここに来る前、レインの事件を一通り調べていたが、殺人は最初の彼女の一件のみ、あとは傷害事件がほとんどで、代わりに頻度が増えていたのだ。一人から絞り切る方が、段違いに楽だろうに。倒れる女性の生き生きとした、血の通っている生足を見て、自分が捕って首を落とした魚の、ビクンと動かなくなる尾ひれを想い、「なんだ、自分も殺していたのか。」と、何かが胸にストンと落ちた。
レインの事を、自分と同じと共感していたが、実は自分よりずっと、よくできた人なのではないだろうか。彼は、確かに立ち向かっていた。強さなどは問題ではない。震えながらも言い返していた、その姿勢が問題なのだ。
ぱしゃり。またあの音が、こんどは自分の脳内で。
見捨てたほうが、楽なんだろう。いつか身も心も喰われてしまうかもしれない。けれど、その時はその時だ。やれるだけはやってみよう、そう思ってしまったのだから。
「……抗って、みるかぁ~。」
タクシーを呼ぼう。そうして自分とレインとを乗せて、家に帰るんだ。生活費のことなど知ったことか。そうして無事ここを離れられたら、一応救急車を呼んで、倒れている女性を運んでもらおう。優しさを自制しないことの、気楽さといったら!
レインが起きたら、まずは自己紹介、自分の悪い面をむしろ見せたい。ニイの事も、紹介しなければ。さあ、やることは、たくさんあるぞ!
空は快晴。すがすがしくどこまでも晴れ渡って、梅雨明けを告げる蝉の声が、どこからか聞こえてきた。
夏が、始まる。




