第6話『縄の奥』
縄の前で、ナムジが立ち止まった。
「なあ」
「はい」
「これ、越えるのか」
「越えます」
「そうか」
ナムジは縄を見た。膝の高さで、壁から壁へ張られている。中央に木札が下がり、丸の中が線で埋まっていた。
「これ、越えるのか」
「二度言いました」
「大事なことは二度訊く。三度目もあるぞ」
「ないと助かります」
ナムジは唸って、縄をまたごうとして、やめた。かがんで、縄の結び目を検分しはじめた。
「いい結び方だ。しっかりしてる。張った奴は几帳面だな」
「褒めても越えます」
「褒めてない。時間を稼いでる」
アシは縄を跨いだ。
跨いでから振り返ると、ナムジはまだ向こう側にいた。
「行きませんか」
「行く。行くとも。俺が行かんでどうする」
「はい」
「……なあ、下ってどれくらい下るんだ」
「知りません」
「知らんのか」
「六段より下は、誰も書いていません」
「じゃあ何を頼りに下りるんだ」
「足です」
ナムジは、縄を跨いだ。跨ぐときに、必要のない大股になった。跨ぎ終えてから、跨いだ縄を振り返って、少し悲しそうな顔をした。
「言っておくがな」
「はい」
「俺は、深いところが好きじゃない」
「神様なのに」
「神様だからだ」
「そういうものですか」
「そういうもんだ。お前だって、自分の職場に泊まりたくないだろう」
アシは、しばらく考えた。
「泊まったことは、あります」
「……そうか。悪かった」
それきり、しばらく黙って歩いた。
*
石段は、そこから急になった。
踏面が狭い。壁の削り方が雑で、途中から段の高さが揃わなくなる。誰かが途中で工事をやめたような造りだった。
壁の光は濃くなっている。
濃いというのは、明るいということではない。明るさは変わらないのに、光っている面積が増える。石の目の細かいところだけが光っていたのが、いまは石そのものが青く沈んでいた。
息を吸うのに、胸の力が要る。
アシは、五十を数えるあいだに息が何回入るかを数えた。四段目では十二回。ここでは十七回。
手帳に書いた。
――六段。五十で十七。
書きながら、指が冷たいことに気づいた。汗ではない。この深さの空気が、そういう温度をしている。
「そんなもん書いてどうする」
「あとで、比べます」
「何と」
「もっと下と」
「……お前、そういうところがあるよな」
「どういうところですか」
「知りたくないことを、ちゃんと知りにいくところだ」
アシは、答えなかった。ナムジは自分で言っておいて、自分で嫌そうな顔をした。
六段目の踊り場に出た。
広い。四段目の倍はある。だが誰も使っていない。担ぎの荷を置く窪みが壁に掘られているが、埃も積もらず、ただ乾いている。人が来ないところは、埃さえ来ない。
東の壁に、染みがあった。
数えると、十一。四段目は三つだった。
アシは、そのうちの一つが膨らむのを待った。待つあいだに、ほかの十から二つが同時に湧いた。石の粉が落ちて、黒い面が盛り上がり、骨が押し出される。
二体。
どちらも、四段目のものより大きい。膝の高さだったものが、腰まである。腕の数は六本と、五本。
湧いてすぐは、灰にならない。
アシは窪みに入った。息を止める。
ナムジは、窪みに入らなかった。二体の真横に立って、腕を組んで見ていた。
「こいつら、俺のことは見えんのだよなあ」
二体は上を向いて、石段を上っていった。通り過ぎるまでに、四段目の倍の時間がかかった。歩き方が遅いのではなく、体が大きいぶん、通過に時間がかかる。
「見えてたら、どうします」
「謝る」
「謝るんですか」
「まず謝る。それから逃げる。順番が大事だ」
アシは手帳に書いた。
――六段。染み十一。一度に二体。腕五〜六。上る。
書いてから、その数字を見た。
四段目で三つの染みから、半日に一体か二体。六段で十一の染みから、待つ間もなく二体。
深いほど濃い。濃いほど湧く。
当たり前のことだが、当たり前のことを数字で見たのは初めてだった。
さらに下りた。
七段目は、踊り場がなかった。
石段が壁を一周しても、平らなところが出てこない。そのまま下へ続いている。段を数える意味が、このあたりから消えていく。
――段が終わった。
書こうとして、書く場所に迷った。手帳の頁は「段」で分けてある。段がなければ、どこに書けばいい。
アシは、新しい頁を開いた。
――段の外。
そう書いて、下りた。
石段は、そこで終わっていた。
最後の数段が崩れて、その先が斜面になっている。滑り降りると、平らなところに出た。
広い。
六段目の踊り場が四つ入る。天井は見えない。上を向いても、青く沈んだ闇があるだけだった。かつては踊り場だったのかもしれない。壁が丸く残っていて、そこだけ人の手が入っている。だが床は割れて、割れた隙間から下へ落ちていた。
光が、変わっていた。
揺れていない。
これまでの光は、見ていると微かに動いていた。汲むときに糸になって剥がれるのも、その動きの延長だ。
ここは、止まっている。板に描いた光のように、動かない。
そして、白い。
床の一面が白かった。灰だ。二年、掃いてきたものと同じ。踏むと、踝まで沈んだ。
沈めた足を抜くと、骨が付いてきた。
しゃがんで、灰をかき分ける。
骨。壺の破片。骨。骨。破片。
どれも、噛み跡があった。
太い骨は端から折られ、中が空になっている。壺の破片は、割れ口がさらに欠けていた。噛んで、割って、中身だけを取ったような形をしている。
アシは、手を止めた。
――食われている。
神崩れが、神崩れを。
湧いたものは上へ行く。それが二年ぶんの記録だった。だが上へ行かなかったものがここにいて、ここで食われている。
立ち上がって、あたりを見た。
壁に、染みがない。
六段目には十一あった。ここには、一つもない。
濃いほど湧く。この深さなら、六段の倍は湧いていいはずだった。
湧かないのではない。
湧いたものが、残っていないのだ。
「アシ」
ナムジの声が、斜面の上から降ってきた。下りてきていない。
「戻れ」
「なぜです」
「なぜもクソもあるか」
「理由を」
「理由を言うと、お前は書くだろう」
「書きます」
「書いたら、次は確かめに来るだろうが」
アシは、答えなかった。
ナムジは頭を掻いて、それから小さい声で言った。
「……ここの主神、怖いんだよなあ」
アシは、動きを止めた。
「知っているんですか」
「知らん」
「いま」
「知らん。忘れた」ナムジは横を向いた。「昔のことだ」
昔がいつなのか、この神は一度も言わない。
アシは、灰の上にしゃがみ直した。骨の数を数えはじめる。
数えているうちに、灰が動いた。
最初は、自分の手が起こした風だと思った。
だが灰は、十歩ほど向こうで動いていた。盛り上がって、崩れて、内側から押し上げられている。
立ち上がった。
灰の下から、それが出てきた。
牛ほどの胴だった。
脚が四本。ただし、関節が全部逆を向いている。前へ折れるべきところが後ろへ折れ、後ろへ折れるべきところが前へ折れている。それでいて立っている。立ったまま、灰を蹴って前へ出た。
首がない。
胴の前端が、そのまま縦に裂けていた。裂け目の内側に、歯が並んでいる。獣の歯ではない。骨を折るための、平たい歯だった。
背中に、突起が八つ並んでいた。
背骨から突き出た骨の突起で、大きさが揃っていない。一つ一つの根元に、壺の破片が刺さっている。
八つとも、割れ口が外を向いていた。
アシは、そこから目が離せなかった。
二年、片付けてきたものと同じ形だ。四段目で灰になっていく小さなものたちが、体のどこかに必ず持っているもの。腕の先だったり、額だったり、胴の真ん中だったり。
それが、八つ。
骨と骨のあいだを、透けた何かが埋めていた。肉ではない。青白く、光を通す。動くたびに、そこが脈打った。
――同じものだ。
思ってから、背筋が冷えた。
同じものが、こうなる。
匂いがした。湿った土だ。長く水に浸かって、日に当たっていない土。四段目の水溜まりとは違う。もっと下から来る匂いだった。
それは、頭のない前端をこちらへ向けた。
「走れ」
アシは走った。
斜面へ向かって、灰を蹴る。
三歩で沈んだ。踝まで沈む灰の上を、走ることはできなかった。膝を上げて、抜いて、下ろす。それの繰り返しになる。
背後で、灰が跳ねた。
速い。
振り返る余裕はなかったが、音で分かった。四本の脚が灰を叩く音が、四つ揃っていない。逆向きの関節が、順番に地面を打つ。だから足音が八つ聞こえる。
その八つが、詰まってくる。
アシは、右へ逸れた。
床の割れ目があった。跨ぐには広く、落ちれば下がある。縁に足をかけて、飛んだ。
着地して、転がって、立った。
背後で、割れ目を越える音がしなかった。
振り返る。
それは、割れ目の手前で止まっていた。
――越えられない。
そう思った瞬間、背中の突起の一つが動いた。
突起が伸びた。骨が節を増やして、鞭のように伸びて、割れ目を越えてきた。
先端の壺の破片が、アシの左の肩を掠めた。
布が裂け、その下が裂けた。
熱くなるまでに、少しかかる。かかるあいだに、二本目が来た。
伏せた。頭の上を通った。三本目は横から来た。壁際へ跳んで避けた。
突起は八つある。
八つとも伸びるなら、割れ目は意味がない。
アシは壁に沿って走った。走りながら、数えた。伸びるのは一度に三本まで。伸びきってから戻るまでに、二つ数えるあいだがある。その二つのあいだは、別の三本が伸びる。
――途切れない。
交代している。
骨が組み替わっているのだ。伸ばした三本が戻るあいだに、次の三本が出る。休みがない。
四段目のものは、腕を振ってから次を振るまでに間があった。その間に懐へ入れた。二百六十四回かけて、そう分かった。
これには、間がない。
壁に沿って走るうちに、突起の一本が先回りしていた。
伸びた骨が壁を叩き、破片が飛んだ。石が欠けた。
その音で、アシは足を止めた。止めた場所が悪かった。
壁と、割れ目と、それ自身に囲まれていた。
それが、前端を裂いた。
歯が見えた。骨を折るための歯だ。灰の中の骨は全部この歯で折られていて、折られた骨は中が空になっていた。中身を取られている。
――何を取っている。
考えている場合ではなかったが、考えた。考えるより早く動く方法を、彼は持っていない。
突起が、八本まとめて立ち上がった。
「アシ!」
斜面の上から、声がした。
それが、そちらを向いた。
一瞬だった。
その一瞬に、アシは割れ目へ落ちた。飛び込んだのではない。落ちるほうを選んだ。
落ちながら、縁に指をかけた。腕が抜けるかと思った。抜けなかったのは、二年、荷を落とすなと言われ続けたからだ。指の力だけは、この街の誰にも負けない。
ぶら下がったまま、上を見た。
割れ目の縁から、突起が三本、覗き込むように垂れてきた。
届かない。
あと、腕一本ぶん足りない。
それは、しばらくそこにいた。
透けた部分が、明滅していた。速い明滅だった。それが、だんだん遅くなる。
やがて、突起が引き上げられた。
足音が、遠ざかっていった。八つの、揃わない足音だった。
登り返すのに、しばらくかかった。
縁に肘をかけて、体を上げて、灰の上に転がった。
転がったまま、動かなかった。
左の肩が裂けている。背中も開いた。息が入らない。
灰が、口に入った。二年、掃いてきたものの味だった。
「おい。おい、生きてるか」
ナムジが斜面を滑り降りてきた。途中で転んで、そのまま滑ってきた。
「生きてます」
「生きてる声じゃないぞ」
ナムジは、アシの横にしゃがんだ。しゃがんでから、言うことを探している顔をした。探して、見つからなかったらしく、こう言った。
「……あのな。俺は、止めたぞ」
「止めました」
「二回止めた」
「二回でした」
「三回目は、なかったな」
「はい」
「三回目を言うべきだったな」
アシは、天井のない闇を見ていた。
「言っても、来ました」
「知ってる」ナムジは膝を抱えた。「知ってるから、二回でやめた」
六段目の踊り場まで戻って、そこで座り込んだ。
振り返っても、何も上がってきていない。石段の下は、青く沈んで静かだった。
アシは、手帳を出した。
開いた頁は、「段の外」と書いたところだ。
書けることが、ほとんどなかった。
大きさ。脚の関節。首がないこと。背中の突起が八つ。伸びること。三本ずつ交代すること。壺の破片。骨を折って中身を取ること。灰の上は走れないこと。匂い。
十、書いた。
十でも、勝てない。
四段目のものは、二百六十四回かけて分かった。染みの位置、湧く間隔、上りの速さ、斬られてから灰になるまでの時間。それだけ書いて、ようやく避けられるようになった。
避けられるようになっただけだ。
あれは、避けても意味がない。あの広間に居座っていて、あの下に道がある。どかさなければ、下へは行けない。
どかすには、力が要る。
アシは、腰の札に触れた。丸の中に、線が一本。
――足りない。
言葉にすると、それだけだった。記録が足りないのではない。今度は、記録では足りない。
縄のところまで戻った。
跨ぐ前に、一度立ち止まった。
膝の高さの縄。中央の木札。丸の中が、線で埋まっている。
この縄は、神崩れを止めない。人間しか止めない。
誰が張ったのかは、知らない。訊いたこともない。担ぎのあいだで、六段の話をする者はいなかった。
十二本ある者だけが越えていい、という意味だと思っていた。
違うかもしれない、といま思った。
十二本あっても、あれには勝てないのではないか。
だとすれば、この縄は「越えるな」ではない。**「ここまでにしておけ」**なのかもしれない。
どちらにしても、確かめる相手がいなかった。
アシは縄を跨いだ。
跨いでから、札を指で戻して、まっすぐ下がるように直した。
五段目まで戻ると、空気が軽くなった。
落とし戸は上がっている。夕方の風が、上から降りてきていた。
アシは踊り場に座り込んだ。
「なあ」
「はい」
「もう行かないよな」
「行きます」
「行くのか」
「今日は行きません」
「……今日は、な」ナムジは石段に腰を下ろした。「お前、断り方が下手だな。もっとこう、はいと言って忘れる感じでいい」
「憶えてしまいます」
「そこだ。そこが悪い」
アシは、手帳を膝に置いた。
あれに勝つ方法を、考えていた。
組み合わせを変える。時間を変える。場所を変える。狭いところへ誘い込む。──全部、四段目でやってきたことだ。四段目のものは、それで避けられた。
だが、避けても、その先へは行けない。
力が要る。力は、一本しかない。
アシは、自分の掌を見た。
昨日、板を当てられたところ。一本しか焼きつかなかったところ。
「ナムジさん」
「なんだ」
「縁を辿る、というのは」
ナムジの背中が、少し固くなった。
「ここではない神墓の神にも、届きますか」
「……届く」
「どこまで」
「知らん。試したことがないと言っただろ」
「試すには、行かないといけませんね」
「行くって、どこへ」
アシは、上を見た。
石段の先。落とし戸。「口」。擂鉢の街。そのさらに上に、縁がある。縁の向こうに、稜線が二つ重なって続いている。
昨日、御影が指した方向だった。
湖の底に沈んでいるものがある、と彼女は言った。橋そのものが神墓になっているところがある。街が丸ごと墓の上に建っているところがある。形が違えば、湧くものも違う。汲み方も違う。壺を使わない土地もある。
「外へ行きます」
「……は?」
「ここでは、もう強くなれません」
言ってから、自分でも驚いた。
強くなる、という言い方を、生まれて初めてした。
「待て待て待て」ナムジが立ち上がった。「印はどうする。街を出るのに、担ぎでも神子でもない人間が」
「分かりません」
「金は」
「ありません」
「道は」
「知りません」
「食い物は」
「……ありません」
「……お前、それで俺を連れて行く気か」
「連れて行きます」
「威張って言うな」
ナムジは頭を抱えた。それから、抱えた手のあいだから、片目でこちらを見た。
「……まあ、いい。いいんだ。うん」
「いいんですか」
「よくはない。よくはないが」ナムジは座り直した。「久しぶりだ。どこかへ行くって話をするのが」
「あなたは、どこかへ行ったことがあるんですか」
「あるとも」
「どこへ」
「……忘れた」
「よく忘れますね」
「歳だからな」
アシは、手帳を開いた。
新しい頁に、こう書いた。
――次の神墓を探す。
書いてから、その下に線を引いた。
線の下は、まだ何も書いていない。書けることが、一つもなかった。
どこにあるのかも、どうやって行くのかも、着いたら何をすればいいのかも、知らない。
二年かけて埋めた頁が、この穴の四段目までしかないように。
外の頁は、まだ全部白い。




