第5話『一柱一神』
石垣の陰は、日が落ちると冷えた。
アシは膝の上で手帳を開いていた。濡れて波打った頁は、乾いてもまっすぐには戻らない。四段目の記述は無事で、五段の声の距離は半分消えている。書き直すには、憶えている数字を並べ直せばいい。憶えている。
問題は、明日どこにいるかだった。
「あのな」
ナムジが隣に座った。膝を抱えて、しばらく黙っている。
言いにくそうだった。この神が言いにくそうにするのを、アシは初めて見た。
「さっきの連中の言ったこと、あるだろ」
「はい」
「一度きりってやつだ」
「はい」
「……その、なんだ。俺は、たぶん、そうでもない」
アシは、顔を上げた。
「いや、だからな」ナムジは頭を掻いた。「一度きりってのは、人間の話だろ。器の話だ。そりゃそうだ。一つ持つので精一杯だからな。だが、その、縁のほうは、別なんだよ」
「……縁」
「俺は、辿れる」
風が石垣を回った。
「辿れるんだ。ほかの神まで。俺が縁を引っ張って、お前に繋ぐ。そういうことは、できる」
アシは、動かなかった。
言われたことの形が、頭の中で立ち上がるのに、しばらくかかった。立ち上がってから、それが立ってはいけない形だと気づいた。
「……もう一柱、契約できるということですか」
「いや、待て」ナムジは慌てて手を振った。
「待て待て。できるとは言ってない。繋げるとは言った。繋いだ先を、お前が受け止められるかは別の話だ。流れてくるものを持つのは、お前の体だからな。俺じゃない」
「一本ぶんだと言われました」
「……言われてたな」
「一本ぶんの器に、二つ入れたらどうなりますか」
ナムジは、答えなかった。
しばらくして、小さい声で言った。
「分からん」
「分からない」
「やったことがないんだよ。人間で試したことがない」ナムジは瓶を持ち上げて、空なのを確かめてから下ろした。「千年、誰も来なかったからな」
アシは、自分の掌を見た。
昼間、板を押し当てられたところ。温かくなって、一本だけ焼きついた場所。
あのとき掌から出ていったものには、名前があるのだろうか。壺に入るものと、同じものなのだろうか。同じだとしたら、自分の体はいま、壺と同じ扱いをされたことになる。
「ナムジさん」
「なんだ」
「壺に入るものと、俺の手から出たものは、同じですか」
「……同じだ」
「名前はありますか」
ナムジは、少し驚いた顔をした。それから、当たり前のことを訊かれた者の顔になった。
「神力だ」
アシは、その音を口の中で一度転がした。
二年、毎日運んでいた。壺の重さも、揺れ方も、こぼれたときの匂いも知っている。名前だけ、誰も教えなかった。担ぎには要らない知識だったのだろう。落とすなと言われるのに、中身が何かは言われない。
「それが、俺の中にも入っていると」
「入ってる。一本ぶんな」
「一本ぶん」
「まあ、そう気にするな」ナムジは石垣に寄りかかった。「壺だって、最初は空だ」
朝は、上から来る。
アシは日の出前に「口」へ下りた。行く場所が、ほかになかった。
担ぎの列はいつも通りにできていた。荷が並び、縄が掛けられ、壺が配られている。
配っているのはガマだった。手前から順に、名も呼ばずに渡していく。誰にどれが当たるかは決まっていない。筋が口の近くまで来ている壺も、混じったまま渡される。
割れれば、割れたときにそこにいた者が悪い。運が悪かったな、と言われて終わる。
アシは、列の最後についた。
順番が来た。
ガマは、壺に手をかけたまま止まった。
「……お前」
「はい」
「お前、これ、持ってくのか」
アシは、腰の札に手を当てた。丸の中に、線が一本。
ガマの目が、そこへ行って、戻った。
「神子だろ」
「はい」
「神子が壺を担ぐか」
「……分かりません」
「俺も分からん」
ガマは壺を台に戻した。戻してから、しばらく動かなかった。
彼が困っているのを、アシは初めて見た。
殴られるのなら、どうすればいいか分かる。飯を止められるのなら、それも分かる。扱い方が分からない、という顔をされたのは、初めてだった。
「上に訊け」
「上、とは」
「知るか」ガマは次の担ぎに壺を渡した。「番小屋でも、館でもいい。俺は担ぎのことしか決められん」
列が動いた。
アシは、そこから外れた。
番小屋へ行くと、鍵束の男が板に数を書いていた。顔を上げて、腰の札を見た。
「神子の分は、こちらでは扱っておりません」
「壺を」
「壺は担ぎに配るものです。神子の方々は、ご自分でお持ちになります」
「持っていません」
男は、少し黙った。
「……館へお尋ねください」
「館には、行けません」
「では、私にも分かりかねます」
男は板に戻った。
嘘は言っていない。意地悪もしていない。決まりの中に、アシを入れる欄がないというだけだった。
アシは、番小屋を離れた。
石段の口に立って、下を見た。
穴は、いつも通りに口を開けている。青い光が、途中から闇に呑まれていた。
誰も止めなかった。
止める理由が、誰にもなかった。
*
アシは、壺なしで下りた。
一段。二段。三段。
荷がないというのは、こういうことか、と思った。二年、背中に何か載っていない状態でこの石段を下りたことがなかった。膝が軽い。息が上がらない。四段目に着くまでに、いつもの半分もかからなかった。
誰もいない。
八十衆はまだ下りていない。担ぎは荷を待っている。この時間、四段目は空いている。
アシは、東の壁の前に立った。
崩れは、昨日より進んでいた。縁がまた落ちて、下の段へ溜まっている。溜まりの高さを、腰の位置で測る。三日前より、指二本ぶん高い。
手帳を出して、書いた。
書きながら、壁を見た。
白く光っている。石の目が細かく詰まったあたりが、いちばん濃い。ここへ壺の口を当てて、力を抜いて待てば、光が糸になって流れ込む。何度も見てきた。スゲのやり方も、上の担ぎのやり方も、憶えている。
壺がない。
持つのはあの焼き物だけだ。竹の水筒でも、椀でも、手のひらでも持てない。並の器では通り抜けてしまう。二年、それを前提に働いてきた。
だから、今日ここで汲むことはできない。
汲めない者が四段目にいて、書いている。
アシは、手帳に戻った。
書けることは、まだいくらでもあった。
書きながら、昨日のことを思い出した。
墓守衆の男が出した板。壺と同じ色をしていた。触れなくても分かった。担ぎの目は、壺の色を憶えている。
あれも、同じ焼き物だ。
壺は神力を溜めるために使い、板は人から出るものを測るために使う。どちらも同じ色で、同じ焼き方をしている。
――何で出来ている。
考えたことがなかった。
運べと言われたから運んでいた。落とすなと言われたから落とさなかった。中身に名前があることも、昨日の夜に初めて知った。
中層に工房がある。焼ける職人がいる。作れるということは、材料があるということだ。
手帳に書いた。
――壺と、墓守の板。同じ焼き物。何で出来ている。
その一行を、しばらく見ていた。
二年、運んでいた。中身の名前も、器の正体も、知らずに運んでいた。
誰も教えなかったのではない。担ぎに教える必要のあることではなかった。
「何をしとる」
顔を上げると、スゲが立っていた。
右手に壺を抱えている。抱えているというより、腰に載せて支えている。
「爺さん」
「何をしとると訊いとる」
「四段目を、見ておくように言われました」
「誰に」
アシは、答えなかった。
スゲは、壁とアシの手帳を見て、それから腰の札を見た。
「……そのことは、聞いた」
「はい」
「街じゅうが知っとる。担ぎが神子になった。丸の中が一本だと」
「はい」
「笑われとるぞ」
「はい」
スゲは、しばらく黙っていた。それから、壺を下ろした。下ろす動作に、時間がかかった。石に腰を落として、息をつく。
「一柱一神という」
「……はい?」
「そう呼ぶんだ。人ひとりに、神ひとつ。誰が決めたわけでもない。入らんのだ、二つは」
アシは、手帳を閉じた。
「爺さんは」
「わしは神子じゃない。だが、この街で六十年、担ぎをやっとる」スゲは足元の石を杖の先で叩いた。「六十年おれば、たいていの話は聞く」
「二つ入れた人の話も」
スゲの手が、止まった。
「……なぜ、そんなことを訊く」
アシは、答えなかった。
スゲは、答えを待たなかった。
「わしが若い頃だ。この街じゃない。山向こうの、湖のほうの話だ」
「はい」
「二つ目を欲しがった神子がおった。一つでは足りんと思ったんだろうな。上に行きたい人間は、いつの世にもおる」
スゲは、下を向いていた。
「どうなりましたか」
「見た者の話を、また聞きにしたものだ。だから、どこまで本当かは知らん」
「はい」
「割れたそうだ」
風が、四段目を渡った。
「壺と同じだと言っとった。上まで筋が詰まった壺に、無理に入れるとどうなるか、お前も見たことがあるだろう」
あった。
去年、下層の担ぎが一人、上げてくる途中でやった。壺は音を立てて割れ、中身は石段の上で青く光りながら消えていった。その担ぎは、壺の破片で片手を切った。それだけで済んだ。
人間が割れる、というのが、どういうことかは分からない。
「その人は」
「死んどらん」スゲは言った。「それが、いちばん悪い」
アシは、顔を上げた。
「息はしとった。歩きもした。だが、何も入らんようになったそうだ」
「……印は」
「知らん。そこまでは聞いとらん」スゲは首を振った。「また聞きの、そのまた聞きだ。話が回るうちに、都合の悪いところは落ちる。落ちたところに、本当のことがあったのかもしれん」
スゲは、そこで初めてこちらを見た。
目が、笑っていなかった。
「アシ、一本でも、神子は神子だ」
「はい」
「二本にはならん。ならんように出来とる。……なるかもしれんと思うのが、いちばん危ない」
アシは、手帳の綴じ紐を指で撫でていた。
スゲの言っていることは、正しい。この街の誰に訊いても、同じ答えが返ってくるだろう。ナムジ自身が
「分からん」と言った。分からないものに、一本しかない器で手を出す。
正しくない。
だが、と思った。
六十年おれば、たいていの話は聞く。その六十年ぶんの話の中に、縁を辿れる神の話は、なかった。
「爺さん」
「なんだ」
「その神子は、どうやって二つ目に手を出したんですか」
スゲは、答えなかった。
しばらくして、こう言った。
「……知らん。誰も、そこは言わんかった」
アシは、手帳を開いた。
開いて、閉じた。書くべきことが、まだ形になっていなかった。
スゲは壺を抱え直して、立ち上がるのに時間をかけた。
「今日は、上で汲む」
「はい」
「三つ入れば上等だ」
そう言って、上がっていった。
杖の音が、石段の角で聞こえなくなった。
*
アシは、もう少し下りた。
五段目の踊り場。落とし戸は上がっている。板の下端の傷が、朝の光の中で見えた。
その先が、六段だ。
二年、行ったことがない。一度だけ「六段だ」と言われて、そこへ着く前に閉じ込められた。
アシは、石段を下りはじめた。
五段と六段のあいだは、長い。壁を一周するのに、いつもの倍かかった。壁の光が濃くなり、息を吸うのに胸の力が要りはじめる。
六段目の踊り場が見えてきたところで、足を止めた。
石段の途中に、縄が張ってあった。
膝の高さに、壁から壁へ。太い縄で、両端が石に打ち込んだ楔に結ばれている。新しい縄ではない。何度も張り直した跡があった。
縄の真ん中に、木札が下がっている。
丸の中が、線で埋まっていた。遠目には黒く見えるほどの。
アシは、その前で立ち止まった。
誰かが、ここまで下りてきて、ここに縄を張った。張り直し続けている。
――止めるためだ。
何をだろう。
神崩れは、縄では止まらない。膝の高さの縄など、腕が四本あるものには何の意味もない。
止められるのは、人間だけだ。
アシは、縄の下を見た。
六段目の踊り場が、その先にある。青い光の中に、石段が続いて落ちていく。
誰も、見ていなかった。
跨げば、越えられた。




